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近藤銀河・水上文・中村香住『はじめての百合スタディーズ クィア/フェミニストの視点から』 百合を語る喜びと、その困難の実践

クィア/フェミニストの立場からの、座談会形式の百合批評

 

『はじめての百合スタディーズ クィア/フェミニストの視点から』は、三人の著者が「百合」について語る、座談会形式の批評の本。百合というジャンルが人口に膾炙してからしばらく経つと思うけれど、実は一冊まるごとが百合の批評である商業出版はこれが初めてなのだそう(雑誌『ユリイカ』の「百合文化の現在」という特集号が2014年に出てはいる)。本書をきっかけに、さらなる企画が続いてほしいところ。

まずは著者である三人を紹介しよう。近藤銀河はライター、研究者、アーティストとして活動し、専門は美術史。水上文は小説の書評や評論をメインとするライター、中村香住は文化社会学とジェンダー・セクシュアリティ研究を専門とする社会学研究者。そして三人ともが、「百合のオタクであり、同時にフェミニストで、かつセクシュアルマイノリティの当事者でもある」(水上文「はじめに」より)と明言されている。本書のサブタイトルとなっている「クィア/フェミニストの視点から」という言葉は、著者たちのそのような立場を表明するものだ。

そのようなものである本書は、ある意味では題名の時点から、いくばくかの困難を抱えていることがわかる。なぜなら、「百合」「クィア」「フェミニスト」という三つの概念は、必ずしもスムーズに結びつくものではないからだ。百合というジャンルは定義そのものも、受け手のアイデンティティも、そして受け手がジャンルに求めるものも非常に多様であり、決してひとつにまとめられるものではない。水上文による序文(「はじめに」)にも、そのような困難についてはっきりと書かれている。

 

水上は、自分たちが百合というジャンルをオタクとして愛しつつも、同時に百合をとりまく状況について感じている問題を、例えば以下のように挙げる。

百合ファンダムにおけるセクシュアルマイノリティ当事者の存在が時に不可視化されること。百合が「少女」表象の消費としてのみ捉えられること。あるいは、百合が女性同士の関係性に焦点を当てるジャンルでありながら、フェミニストやクィアとしばしば切り離されてしまうこと。水上は百合が、「女性」というものに深くかかわる点においてフェミニズムと、女性同士の関係や、恋愛・性愛とは何かといった諸問題に関わる点においてクィア概念の政治性と、それぞれ切り離すことができないジャンルだとする。

しかしここでは同時に、「フェミニスト」や「クィア」という概念もまた、百合と同様、一義的で単純なものではないことが強調される。フェミニズムは一人一派と呼ばれるほどに多様なものでもあるし、クィアという言葉にしても、その意味合いを知るためには歴史的な経緯も理解しなければならない。

そして著者は現在の日本における女性差別や同性愛者差別の状況に触れつつ、百合というジャンルがそのような状況とも無縁ではいられないことを強調する。

近藤銀河による「あとがき」においても、百合というものについて同様のことが改めて語られる。

 

百合というジャンルは不定形だ。揺らぎ、起源がいくつもあり、参加者も多形的だ。それは百合の魅力でもあるけど、百合という総体を語り難くもしている。あまりにも触れるべきことが多いのだ。
(近藤銀河「あとがき」より)

 

このように軽くまとめただけでもわかるように、百合というジャンルについて批評的に語ろうとすれば、上記のような様々な側面、互いに緊張関係にある複数の問題を取り扱う必要があるのだ。そのような困難さが、あるいは百合の批評をテーマにした本が今まであまり出ていなかった理由のひとつかもしれない。

「はじめに」と、それに続く著者たちの自己紹介、それぞれの百合への向き合い方を読むだけでも、百合というジャンルを決して明確には定義できないこと、百合の受け手にはそれぞれ多様なアイデンティティの持ち主がおり、それぞれに求めるものも違うこと、百合を楽しむことと百合について考えることの間には様々な矛盾が生じることなどが強く感じられる。

そして、そのような種々の問題や困難さを指摘しつつも、「はじめに」の末尾ではこう語られる。

 

考えるべきことはたくさんある――でも、誤解のないように言っておきたいのは、私たちは、女性やセクシュアルマイノリティ当事者のみの視点から百合を考えるべきだ、と主張しているのではない、という点である。
百合ジャンルの書き手や読み手には、女性も、女性ではない人も、セクシュアルマイノリティの当事者も、当事者ではない人もいる。女性同士の関係が描かれた物語を楽しみたい、という気持ちに、常に政治が関わるわけでもない。フェミニズムやクィアの政治と深く関わりながら、完全には重ならない百合を、それでも/あるいはだからこそ愛してきたクィア/フェミニストとして、私たちは語りたいと思うのだ。
(水上文「はじめに」より)

 

本書の目的はあくまでも百合を多角的に語ることであり、その読み方を限定するものではないのだ。

そのような立場から、座談会形式の本文では百合についての膨大な量の会話が交わされる。それは、ある意味ではとりとめのない内容の集積だとも言える。多数の作品に対して、様々な立場からの、評価されるであろう部分と批判されるであろう部分が並列して語られる。もっとスッキリと読みやすく整理することもできたのかもしれないけれど、それはここではあえて選択されていないのだと思う。

また一方で、本書は三人の著者がある程度の共通のパースペクティブを提示する本なので、ここで語られることからは零れ落ちるものもあるだろう。どんなに語っても全ての視点はカバーできないし、また全ての読者のアイデンティティを代弁することもできない。

焦点を絞ることも、包括することも、どちらも難しい。そのようなものとして百合を語りつつ、近藤は下記のように述べる。

 

そんな状況で私たちはまた話し始めた。百合について個人的な体験を共有し合うような本を作れないだろうか。百合とはこういうものである、というような大きな話を示せなくとも、自分たちが百合に触れて感じ続けた人生、どんな作品になにを想ったか、そんなことは示せるんじゃないだろうか。
(中略)
私たちの語りは個人個人の百合との関わり方の提示だった。それは外部に向けては多様な見方を提示するものだけど、同時に自分を主体において一面的に切り取る見方でもある。
ここからまた、それぞれの百合との関わりが、様々な百合の受容があることを前提に語られていくことを願っている。
(近藤銀河「あとがき」より)

 

このようにして、決して百合の読者を代表するわけではない三人の著者は、百合というジャンルを語ることの困難さと楽しさを本書において実践してみせる。そしてもちろん、「百合の読者を代表する」ことなど、誰にもできないのだ。

本記事の冒頭でも書いたように、さらに多くの人々による言葉がこの本に続いてほしい。

 

充実の収録論考「アメリカの百合文化」「百合の歴史」

 

なお本書には、三人の著者たちの対談のほかに二本の論考が収録されている。

ひとつは世界初の百合研究書と言われる『By Your Side: The First 100 Years of Yuri Anime and Manga』を2022年にアメリカ刊行したエリカ・フリードマンによる「アメリカの百合文化」。レンタルビデオの時代からインターネットの時代を経て、アメリカにおいて日本アニメを中心とした百合文化がどのように発展し、広がっていったのかを詳しく語っている。

もうひとつは百合とクィアリーディングを研究する品田玲花による「百合の歴史」。こちらは日本における百合とその周辺文化の歴史を、可能な限り包括的に記述しようとする試み。

いずれの論考も非常に読み応えのあるものなので、百合というものの概要を知りたい方はこれらの文章から読むのもいいと思う。

 

次の一冊

pikabia.hatenablog.com

本書の著者のひとり、近藤銀河によるゲーム批評の本を、過去に紹介しています。こちらも大変おすすめの一冊。

 

クィアという概念の政治的な歴史については、教科書的な本書が詳しいです。

 

pikabia.hatenablog.com

クィア理論やクィア・リーディングについてはこちらもどうぞ。

 

 

以下に、百合的な要素を含む(と思われる)作品についての過去記事を貼っておきます。

pikabia.hatenablog.com

 

そのうち読みたい

本書に寄稿しているエリカ・フリードマンによる、世界初の百合研究書。