もう本でも読むしかない

仕方ないので本でも読む。SF・文学・人文・漫画などの書評と感想

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津原泰水『バレエ・メカニック』 幻想と技巧の傑作都市SF

幻覚に襲われる東京と、眠り続ける少女

 

今回は、私にとってのベストSF小説のひとつを紹介したい。津原泰水『バレエ・メカニック』だ。とはいうものの、実はこの小説を紹介する自信があまりない。大好きな小説ではあるのだけれど、そこに何が書いてあるのか、これがどのような物語なのか、うまく説明できる気がしないのだ。

でも、優れた小説、すごい作品というのは、えてしてそういうものかもしれない。ここはひとまず腹をくくって、できる限りその魅力を伝えてみたいと思う。

 

津原泰水は、1964年に生まれ、2022年に急逝してしまった作家だ。1989年から1996年までは津原やすみ名義で少女小説を発表し、1997年より筆名を変更してSFや幻想小説、ミステリなど多彩な作品を書き続けた。

今回紹介する『バレエ・メカニック』は2009年に単行本が刊行、2012年に文庫化された作品で、作者の代表作のひとつと言っていいと思う。

 

(以下、序盤のネタバレがあります)

この小説の主人公は二人。大型の立体作品を得意とする著名な芸術家・木根原と、異性装の外科医・龍神だ。木根原には理沙という娘がいるのだが、彼女は七歳の時に海で溺れて以来、九年間にわたって昏睡状態にある。龍神はその理沙の主治医を務めている。

ある時、東京が異常な事態に見舞われる。現実とも幻覚ともつかない出来事が都市全域を襲ったのだ。木根原が車で走っていた高速道路は津波に襲われ、巨大な蜘蛛のような姿がビル街を闊歩し、いるはずのない鳥、あるはずのない植物が現れる。電子機器が一斉に暴走し、様々なスピーカーから突然モーツァルトが流れ出す。

同時に木根原は龍神から、理沙の病室の前に謎の空間が出現したという知らせを受ける。病室に入るドアをくぐると、そこはどことも知れぬ空き地で、その空き地を通り抜けないと病室に入れないというのだ。

奇妙な状況の中で、彼らは東京を襲う異常事態と理沙との関連に気づき始める。モーツァルトは病室で流されているもので、巨大な蜘蛛は理沙のお気に入りの絵本に登場するものだった。木根原と龍神は混乱を極める街で合流し、車が使えないため巨馬ゴーストの曳く馬車に乗って病院を目指すことになる。

(以下は本文の引用だが、「君」は木根原を、「〈彼女〉」は龍神を指す。後述するが、この小説の第一章は二人称視点で書かれている)

 

馬車が新宿区に入る。不意に君と〈彼女〉との間に、三十匹ばかりのネオンテトラが割り込んできた。魚たちは呼吸するように発光の度合を変化させながら、あきらかに君たちを観察していた。初めは黙殺を決めこんでいた君だが、やがて耐えがたくなり、両手をばたつかせて追い払った。魚たちは視界の外側に散っていった。気配に、龍神が目覚める。景色を見回し身を捻って路のさまを確かめ、両手でペンチの背に掴まった。「とんでもない場所を進んでるような気がする。ここどこ?」
君はちらりと進行方向を見て、「新宿公園の手前から都庁を追いかけてるが、なぜか一向に近づいてこない」
「駆者さん、なにか云ってる?」
「ふしぎがってる様子はない。彼やゴーストにはまともな景色が見えてるんだろう」
「でも私たち、上に向かって進んでるんだけど」
「都庁に向かってる。ちゃんと前方に見えるだろう」
「頂上はね。でも下のほうの階は車輪の下に」
君は馬車から肩を出す。龍神の言葉どおり、馬車は都庁舎の大理石風カーテンウォールと硝子が組み合わさった壁面を進んでいた。実際はそうではあるまいに壁材と硝子は平坦に合わさっている。路面と化した壁面を先へ先へと眺めていくと、そのまま遠方にある都庁の先端まで連続していた。手前に視線を戻していくと、まるで空中から庁舎に急接近しつつ、視線をだんだんと下ろしているように感じる。そんなふうに、なんとなく辻褄が合ってしまっていた。左右の景色と下方の壁面とは九十度食い違っている。路面たる壁面に再び眼の焦点が合うと、紛れもなく馬車は壁を登っている。急に後方への重力感が生じて馬車から転がり落ちそうになり、慌ててワゴネットの中に視線を戻す。「糞、そんなことに気づくなよ」
「天辺まで登っちゃったら、そのあとどうなるのかしら」
「きっと反対側から下りるんだろう」君は毛布を深く被りゴーストの蹄の音に意識を集中させる。外の悪夢に引き込まれたら、きっと墜ちる。

(「第一章 バレエ・メカニック」より)

 

読者はまず、この幻想とリアリティを矛盾のうちに凝縮したような、密度の濃い文章に驚くのではないだろうか。ここでは常軌を逸した情景が丹念に描写されつつ、それがテンポのよい会話と巧みに組み合わされている。

『バレエ・メカニック』を(あるいは津原泰水の小説を)読むことは、まずはこのように流麗な文章と、そこに込められた膨大な情報量に翻弄される体験だと思う。

 

この小説の第一章では、シュルレアリスム的な情景の中の二人の主人公の道行きとともに、東京を襲う異常事態と病室で眠り続ける理沙との関係が少しずつ語られ、同時に主人公たちの過去や秘められた思いが明かされていく。

龍神は、この異常な現象は、東京そのものが理沙の壊死した脳の代わりを務めているために起こっているのではないかと推測する。「都市そのものによる脳の代替」、それがこの小説のメインアイディアだと言っていい。ただ、一言で言ってしまえるこのアイディアを展開するこの小説の手つきは、ものすごく多彩かつ複雑で、とても簡単にはまとめられない。

 

そして、このSF的なアイディアを土台に、木根原と龍神というとても複雑な主人公たちの物語が少しずつ語られる。

時に暴君のように振る舞う木根原は名声を得た芸術家だが、その創作活動はただ理沙の医療費を賄うために行われている。彼は時に破滅的に、あるいは虚無的に、ただ眠り続ける娘のために生きながらえているかのようだ。

そんな木根原と付かず離れずの奇妙な関係にある外科医の龍神には若くして死んだ姉がおり、その姉の面影をなぞるように龍神は女性の姿をする。

彼らの物語が少しずつ明かされる度に、それらは理沙と東京にまつわる物語と、撚り合わさる糸のように緊密に絡んでいく。

めくるめく幻想的描写、脳科学と都市論が交差するようなSF的アイディア、そして複雑に構築された人物像。これらの要素が濃密に織りなす小説世界が『バレエ・メカニック』なのだ。

 

──と結んではみたものの、実はここまで紹介してきた内容は、三章構成をなすこの小説の第一章の部分にすぎない。

この小説は第一章だけでもとても優れた中編小説として成立していて、なんならそこで読むのをやめたくなるくらいにすごい。

しかし、なんとこの小説は、第二章、第三章と進むにつれて、予想もしない展開をしていくのだ……

第一章だけでも完璧な小説のように思えるのに、それ以上の驚きを与えてくれる第二章以降の展開については、ぜひ自分で読んで確かめてほしい。

 

複雑な人称と、龍神というキャラクター

 

後半の物語について紹介する代わりに、ここではこの小説の中でも特に印象的な要素について少しだけ書いてみたい。それは龍神というキャラクターと、小説の人称についてだ。

前述したように、この『バレエ・メカニック』の第一章は、二人称視点で書かれている。主人公の一人である木根原が「君」と指し示されているのだ。そして、それを語っている視点人物が龍神であることが、龍神が初めて登場する場面で明かされる。

しかし、ここからがさらに特殊なのだが、本文中に龍神が登場すると、龍神は山括弧つきの「〈彼女〉」という表記で示される。視点人物である龍神が、自分自身を「〈彼女〉」という代名詞で指し示していることになる。

 

続く第二章は、龍神の少年時代の描写から始まる。龍神はまず「少年」と、続いて下の名前である「好実」と記される。やがて場面が現在の時点に移ると、龍神を示す代名詞は再び「〈彼女〉」となる。

(なお第二章で登場する木根原は「君」ではなく、単に「木根原」と三人称視点で示される。つまり第二章は二人称視点の小説ではないのだが、しかし「〈彼女〉」という特殊な代名詞は残っているので、視点人物が龍神である可能性も残されている)

第二章において、龍神はまず男性として少年期を過ごしたことが語られ、その後、若くして死んだ姉に対するある種の同一化願望のようなものが描写され、そして時が経つと龍神は「〈彼女〉」と示される(あるいは、龍神が自身をそう指し示す)。

この小説において、龍神というキャラクターの性的アイデンティティーが明確に語られることはない。しかしこの小説には、龍神を指し示す代名詞についての非常に細やかな操作がある。任意の代名詞によって龍神を示すことそのものに何らかの明確な意図があり、またそのことが、二人称視点という珍しい形式で始まるこの小説の「語り方」そのものと密接に関係していることは間違いない。

 

そして物語の舞台が大きく転換する第三章は、詳述は避けるが、「僕ら」という代名詞で語られる、一人称複数視点の小説となる。

『バレエ・メカニック』はとても複雑で技巧的な人称形式で書かれた小説であり、その視点の大部分が龍神というキャラクターによって担われ、そしてそこで使用される代名詞には、明確には示されない龍神アイデンティティーが、常に何らかの形で関わっているのだ。

(その関わりの意味や、龍神というキャラクターのアイデンティティーそのものを解き明かすことは、私の手には余る。というか、それは別に「解き明かす」ようなことではないのだと思う)

 

「バレエ・メカニック』という題名について

 

最後に、『バレエ・メカニック』という題名の由来について少し説明しよう。

フランス語で「機械式バレエ」を意味する『バレエ・メカニック』とは、もともとは1924年に発表された前衛映画のタイトルだ。

キュビズムの影響を受けた画家フェルナン・レジェが制作し、前衛音楽家ジョージ・アンタイルが音楽をつけたこの映画は、20世紀初頭の前衛芸術の時代を代表する映像作品のひとつとなった。(撮影はマン・レイ

レジェの作る映像に物語はなく、人物やオブジェの断片的な映像や、光と影の模様、幾何学図形などがひっきりなしに動き回る狂騒的なものだ。それに応じるアンタイルの音楽においても、ピアノで不協和音が激しく打ち鳴らされ、サイレンや機械音が鳴り響く。

この作品が作られた20世紀初頭は、未来派ダダイズムシュルレアリスムと続く前衛芸術の時代であり、同時に都市と機械が人々の生活と感性を大きく変えていった「マシーン・エイジ」である。『バレエ・メカニック』はマシーン・エイジの美学を代表する作品のひとつだと言えるだろう。

津原泰水の『バレエ・メカニック』は、まさに都市と機械に取り巻かれた人々が、あるいは都市そのものが見る夢の物語であり、そのテーマにおいても、混沌や騒乱と同居する美しさにおいても、この題名を引用するのに相応しい小説だと思う。

映画『バレエ・メカニック』はYoutubeで見られます。

youtu.be

 

次の一冊

 

津原泰水の、おそらく最も有名なSF短編である「五色の舟」を収録した短編集。「五色の舟」は未来を予言する動物「くだん」をめぐる、見世物一座の人々の物語。一度は読んでみてほしい、哀しくも美しい傑作。

 

こちらは怪奇・幻想小説寄りの短編集。

 

題名がポー「アッシャー家の崩壊」へのオマージュであるこちらは、幽明志怪シリーズあるいは猿渡シリーズと呼ばれるシリーズの一冊目。無職の青年・猿渡と、「伯爵」と呼ばれる怪奇小説作家のコンビが、様々な事件や怪異と出会っていく連作短編。主人公二人の好物が豆腐なので、読むと豆腐が食べたくなる。(乞う復刊!)