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飯盛元章『暗黒の形而上学』 ハーマン、メイヤスーとともに探る、哲学の破壊的魅力

理解を超えたものの魅力

 

『暗黒の形而上学 触れられない世界の哲学』は、2020年に哲学者ホワイトヘッドの研究書『連続と断絶──ホワイトヘッドの哲学』でデビューした飯盛元章の2冊目の著書となる。本書は著者がこれまでに様々な媒体に発表した文章をまとめた論集なのだが、しかし全体がひとつの明確なコンセプトに沿って書かれており、全体を一気に通読させる勢いがある。

そのコンセプトとは、「暗黒」「断絶」そして「破壊」だ。これだけ見ると、一体どんな物々しい本なんだと思われるだろうが、実際にはこれらの言葉は見た目ほどダークでネガティヴな意味では使われてはいない。簡単に解説してみよう。

まずタイトルにもなっている暗黒だが、これは単に「見えないもの」「触れられないもの」を指す。宇宙物理学によれば、私たちが住む宇宙の95%は、暗黒物質および暗黒エネルギーという、観測すらできない正体不明の何かによって構成されていることが知られているが、ここでの暗黒はそれと同じ用法だ。著者はそれを「認識論的あるいは存在論的な暗黒」と表現する。

著者はエマニュエル・レヴィナスによる「他者」の概念を引きながら、「暗黒」を他者になぞらえる。人が何かを認識するとき、「認識の光」がその対象に投げかけられ、対象はその光に照らされることによって、理性的な主体に同化・吸収されてしまう。レヴィナスはそのような、理性と認識のはたらきから徹底的に逃れるものを「他者」として追求したというが、著者のいう「暗黒」もそのような観念なのだ。

著者はアニッシュ・カプーアの作品「Void No.3」(ほとんど真っ黒に塗られた巨大なお椀型のオブジェ)に対峙した経験を引きつつ、このように述べる。

 

認識の光が届かないこうした空虚こそが、本書における暗黒である。暗黒とは、認識の光を無力化し、自らへといたるあらゆる通路を捻じ曲げる空虚だ。そしてそれは、たんに触れられないだけでなく、自らに対峙する者の感性をバグらせることによって魅惑しさえする。
これとは反対に、光によって十全に照らし出された事物を考えてみよう。そうした事物は、すべてが予想どおりであり、なにもかもが理解の範疇のうちにあって、どこにも奇妙なところがないようなものであるだろう。わたしの存在を脅かす危険性がない、安全な対象だ。だが同時に、それはまったく退屈なものでもある。
それに対して、暗黒は興奮をもたらすようななにかだ。暗黒は、認識の光を無効化し、わたしのイニシアティブを圧し折る危険なものである。しかしそれゆえに、興奮をもたらし、魅了しさえする。
(「プロローグ 世界は触れられなさで満ちている」より)

 

本書は、理解の範疇にあるものは存在を脅かさないと言い切る著者による、理解を超えたものの探求のガイドなのだ。

 

存在者同士が無関係に存在する「断絶」

 

以上のような意味の「暗黒」を全体の基底的な大テーマとしつつ、著者はそれに基づいた、「断絶」と「破壊」という2つのテーマを語っていく。本書はそれに応じた2つの章で構成されているので、それぞれの概要を見てみよう。

まず第一の章「わたしたちはすべてを認識できない──断絶」では、世界を構成する事物それぞれの間の断絶が語られる。これは同じ時間に存在するものたちの空間的な断絶であり、共時的断絶」とも呼ばれる。

この章の主役となるのは、現代のアメリカの哲学者グレアム・ハーマンだ。オブジェクト指向存在論と呼ばれる理論を提唱するハーマンによれば、この世に存在するあらゆるものは「対象」として等価である。それは現実に存在するものだけでなく、架空のものも含まれる。そしてそのように等価である全ての対象は、お互いに全く断絶された状態で存在するというのだ。

ハーマンはその状態を「退隠」と呼ぶ。あらゆる存在は他の存在の前から「退隠」して深い闇の中に引きこもり、決して直接関わることがないのだ。私たちが認識できるのは、その存在の表面的な見た目だけである。

このようなハーマンの思考は、伝統的な「相関主義」からの脱却とされている。カントに代表される相関主義とは、「哲学は、人間の思考と相関した世界についてのみ語りうる」(本文より)という原理だ。この立場に立つ場合、私たちは、私たちが存在しない世界(例えば人間誕生以前や絶滅以後の世界)については決して語ることができない

ハーマンは(そしてハーマンを含む「思弁的実在論」の論者たちは)それを批判し、人間の思考とは無関係な存在について語るための理論を作ろうとしているのだ。

(この辺、門外漢からするとつい伝統的前提の方を不自然に思ってしまうが、そういう世界なのだと納得されたい)

 

ハーマンによれば、このような相関主義を逃れる哲学の先駆者が、19世紀生まれのアメリカの哲学者ルフレッド・ノース・ホワイトヘッドだ。ホワイトヘッドは人間の思考とは無関係に、この世のあらゆる存在者が互いに関係し調和し合う有機的な世界を思い描いた。有機体の哲学」とも呼ばれるこの哲学を、しかしハーマンは批判して乗り越えようとする。

ホワイトヘッドの哲学は、あまねく存在者が人間の思考と無関係だとしたのはいいが、存在者同士を互いに関係させすぎているという。ここからハーマンは、前述のような、存在者同士が一切関係することのない断絶の哲学を立ち上げるのだ。

 

その一方で著者は、このようなハーマンの批判を取り上げつつも、一見あらゆるものが関係の網の中に統合されるようなホワイトヘッドの哲学の中からも、様々な断絶を抽出する。(この部分は自身の著書である『連続と断絶──ホワイトヘッドの哲学』のダイジェストとなっている)

「暗黒の形而上学」は、様々な哲学者の理論の中から存在論的な断絶を拾い上げていくのだ。

 

ある日突然、世界が完全に変化してしまう「破壊」

 

第二の章「「法則」の外はとつじょ到来する──破壊」では、第二の断絶である「破壊」が語られる。前章の「断絶」が同じ時空間の中で存在同士が断絶している「共時的断絶」だったのに対し、ここで語られるのは時間軸に沿った断絶、「通時的断絶」だ。

それは、いま存在しているものが、時間の経過により全く違うものに変わってしまうという事態を指す。私たちの知っているものが、全く理解できないものに変わってしまうという破壊的な変化を被るという意味で、著者はこの第二の断絶を「破壊」と呼ぶ。

この章の主役となるのが、ハーマンとともに思弁的実在論という潮流の中心人物となっているフランスの哲学者、カンタン・メイヤスーだ(本人は自分の立場を「思弁的唯物論」と呼ぶ)。メイヤスーは「絶対的偶然性」という概念を掲げ、「世界そのものが、なんの理由もなくとつじょべつのあり方に変化しうる」(本文より)と主張する。

メイヤスーの主張が過激なのは、ここで変化しうるとされているものが、具体的な事物だけでなく、物理法則や論理法則までも含むということだ。ある日突然、地球が存在しなくなるという程度の話ではない。ある日突然、1足す1が2でなくなることが想定されているのだ。

 

このように過激な思想を取り上げつつ、著者はメイヤスーの理論が、その破壊の力を抑制する方向に進むことに異を唱える。

 

このように、メイヤスーが考える絶対的偶然性はひじょうに強力なものである。哲学史において最強の破壊力を持っている、と言って良いだろう。だが、メイヤスー自身は、この力にリミッターをかける方向へ議論を進めていってしまう。なんてもったいないことを!
わたしは、リミッターがかかる手前の純粋な絶対的偶然性の力をそのまま引き継ぎたいと思う。それをあらためて「破壊性」と呼びなおすことにしよう。それはあらゆるものに浸透する破壊の力だ。それは、いかなる理由もなしに、とつじょ通時的な同一性を引き裂く。そして、まったくべつの新たな世界を到来させるだろう。
(「note 破壊性へ メイヤスーの「絶対的偶然性」とハーマンの「汲みつくせなさ」について」より)

 

著者はメイヤスーの過激さをよりいっそう拡張させ、「暗黒の形而上学」の先に来るべき「破壊の形而上学というコンセプトを提示する。

そして、やがて書かれるだろう書物の予告として、「破壊の形而上学 基本テーゼ」を書き記すのだ。

 

存在論形而上学のわくわくする魅力

 

この辺りになると、謎のテンションの高まりとともに「一体この人はどこへ行こうとしてるんだ!?」とおののいてしまわないでもないが、しかし本書で取り上げられるハーマンやメイヤスーといった哲学者の魅力は、一見突拍子もないような話を緻密な理論で語ってくれるところにある。

そこで論じられる問題は、私たちの暮らす日常や実社会の問題とはなんの関係もないように見えはする。しかし、人間の知性にどのような突飛なことが考えられるのかということや、私たちが普段見ている世界とは全く違う世界を、単なる空想ではなく理性によって見ている人々がいるという事実は、私たちの思考にしなやかさを与えてくれるように思う。

 

何より、ハーマンやメイヤスーの哲学を初めて読んだときに味わった、あのわくわくする感じ、何か圧倒的に新しいことが始まりそうな興奮を、この本は蘇らせてくれる。またこの本は、彼らの哲学を紹介する奇妙だが親切なガイドブックとしても読めるだろう。

最初から通読しても、興味のある部分から拾い読みしてもいい本なので、ぜひ現代の存在論形而上学のトリッキーな魅力を味わってほしい。

 

 

本書の終盤に収録されているカフカ「変身から異世界転生へ──カフカドゥルーズガタリマラブー、メイヤスーをめぐって」では、猿が人間の振る舞いを身につける「ある学会報告」と、主人公グレゴールが虫に変化する「変身」のそれぞれの変身のあり方が、題名にある哲学者たちの議論を引きながら分析される。

著者は「ある学会報告」の猿と、「変身」のグレゴールの変身がそれぞれある限界のうちにあることを述べた上で、圧倒的な変化と破壊をもたらす「破壊の形而上学」の実例として、同じくカフカの小説「家長の心配」に登場する謎の生物オドラデクを取り上げる。

オドラデクは物体とも生物ともつかない奇妙な姿をし、家の片隅に現れ、人間と不思議な言葉を交わす存在だ。カフカの読者であれば、このキャラクターが深く印象に残っている人も多いと思う。

 

オドラデクのとらえどころのなさ、自由さは、それがじっさいに「別世界」からやって来たものだからだとしたら、どうだろうか。この話は、家長の視線から語られているが、その視線をいっさい切り離し、オドラデクに内在した視点から物語を再構成した場合、もしかしたらそれは異世界転生譚であるかもしれない。オドラデクは、たんにいくつもの家々に移り住む客人であるだけでなく、この物語世界全体にとっての客人、つまり転生者であるかもしれない。転生したらオドラデクだった件。
(「変身から異世界転生へ──カフカドゥルーズガタリマラブー、メイヤスーをめぐって」より)

 

著者はこの奇妙なオドラデクに、メイヤスーの理論から導き出した破壊の力の現れを、その圧倒的な自由さと解放感をみる。おどろおどろしいタイトルの書物の末尾にある、意外なほどに爽やかな文章だった。

 

次の一冊

 

本書の中心人物となるグレアム・ハーマンとカンタン・メイヤスーについては過去に紹介していますので、あわせてご覧ください。

pikabia.hatenablog.com

 

そのうち読みたい

 

本文中でも紹介した、著者のデビュー作。