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森元斎『アナキズム入門』 軽快に語られる、リアルな生き方としてのアナキズム

人々が助け合って生きてゆくという思想

 

 

森元斎『アナキズム入門』は、2017年に刊行されたちくま新書。著者はアルフレッド・ノース・ホワイトヘッドの研究を専門とし、グレアム・ハーマンの翻訳を手掛けるなど現代の哲学に関わる仕事の一方、アナキズムに関する本を多く刊行している。本書はその最初の一冊だ。

さて、アナキズムという思想は、多くの人が知ってはいながら、あまりピンときていない考えなのではないかと想像する。アナキズム無政府主義と訳されることが多いが、そのように言われると、政府や国家なしに人間が秩序をもって生きていけるのだろうか?と首を傾げる人も多いだろう。支配者のいないアナーキーな状態というのは、単なる暴力的な無法状態のようにも思える。(なお近年は無政府主義という訳語は避けられる傾向にあるようで、本書でもこの言葉は用いられていない)

かくいう私も、アナキズムというものに興味はありつつもそのようなイメージを持っていた一人なので、今回はまさに入門のために本書を手にとってみた。

 

まずアナキズムの定義について、著者は戦後日本を代表する思想家の一人、鶴見俊輔によるとてもシンプルな定義を引用する。それは、アナキズムは、権力による強制なしに人々がたがいに助けあって生きてゆくことを理想とする思想」(『身ぶりとしての抵抗 鶴見俊輔コレクション2』より)というものだ。これはとてもわかりやすい定義だと思うし、このこと自体の価値を否定する人は少ないだろう。そして言ってしまえばこの本は、この「人々がたがいに助けあって生きてゆくこと」ことだけを繰り返し語る本だと思う。

 

本書は冒頭に置かれた「はじめに」においてアナキズムの概略を簡単に述べつつ、続いて歴史上の5人のアナキストを順に紹介していく。アナキズム入門と言いつつ、本書の主な内容は、彼ら5人のアナキストたちがどのように生まれ、どのように成長し、どのような活動をしていたかの具体的な記述だ。ここではアナキズムという思想の解説というよりも、アナキズムに関わる人々が実際にどのように生きたか、ということが多く語られているように思える。

著者は、アナキズムという思想について大上段に語ることはあまりしない。代わりに本書では、5人のアナキストたちの生き様が、軽快に、魅力的に描写される。アナキズムについてピンと来なくても、読者は彼らの波乱万丈の人生に驚き、引き込まれるはずだ。本書はそうやって、知らず知らずのうちに読者をアナキズムに巻き込んでいくかのようだ。

 

さて、いま軽快な描写の話をしたが、本書を読み始めてまず驚くのはその文体だと思う。社会思想の本だと思って読み始めたのに、あまりにもくだけた文体で書かれているのだ。

下記は「はじまりのアナキスト」と呼ばれるプルードンを紹介する第一章における、フランスの二月革命について説明する部分だが、とりあえず読んでみてほしい。

 

今度は保守化したブルジョワとそれに業を煮やしたプロレタリアの衝突となる。一八四八年の出来事だ。
原因はまたも王だ。ルイ・フィリップは、王である一方で、バリバリの銀行マンでもあった。金融弄ってお金儲けをしまくっていた。加えて、以前の七月革命は、とにかくブルジョワの革命であったことを思い出して欲しい。そうなるとどうなるかというと、銀行マンのルイ・フィリップブルジョワが抵抗しないように、優遇政策を行って、もう革命が起きないように対策を講じていたのである。ブルジョワはそれでいいかもしれないが、プロレタリアからすれば、なんか、むかつく政策だ。しかもプロレタリアには高利貸しでお金を貸していた。ますますむかつく。不満を言うしかない。
そこでラ・マルティーヌという人やルイ・ブランという人たちが怒り心頭で立ち上がる。彼らが集会を開いて、マジでルイ・フィリップ王、ファックだぜ、と口々に文句を言い合っていた。そうこうしている時に、集会が突如、騒然とした。政府の役人であるギゾーが集会を潰しにかかったのだ。ギゾーの弾圧である。こうした弾圧に対して、怒り狂った民衆たちは、暴れまくる。文句も言えんのか、この国は、国王を出せ、馬鹿野郎。暴れに暴れて、ルイ・フィリップはフランスにいるのが怖くなったようで、イギリスへ 逃げてしまった。よし、今が千載一遇のチャンス、と言わんばかりにフランス共和国を作る。王のいない国家だ。革命だ。自由だ。 平等だ。
(「第一章 革命──プルードンの知恵」より)

 

本書は基本的に、全編がこのトーンで書かれている。さすがに、歴史上の各種の思想潮流や、それぞれのアナキストの考えを説明する際にはもう少し硬めの文章になることもあるが、大枠ではこんな感じだと思ってもらっていい。

著者はこのような調子で、フランス革命から20世紀にかけての歴史と、その中で生きたアナキストたちの人生を、勢いよく語っていく。

このように語る以上、もちろん多くのことが省略されたり、単純化されたりしていることは間違いないだろう。ともすれば、それは危険なことなのかもしれない。ただここでの著者の目的ははっきりしていると思う。それは、アナキズムの考え、アナキストたちの生き方を、なるべく生きた形で読者に味わわせることだろう。

私たちはおそらく、自分たちで思う以上に、国家や制度の枠組の中で生きることに慣らされ、それを内面化している。ゆえにアナキズム、権力による強制のない社会を理想とすると言われても、うまく想像することができない。

だから本書はまず、なるべくわかりやすく、なるべくダイナミックな形で、アナキズムの具体的な形を読者に流し込む。アナキズムの理想ではなく、過去に実際にあった出来事、過去の人々の生き様を、私たちにできるだけ生き生きと体験させる。そうすることで読者は、単なる理念ではない、実際にあった出来事としてのアナキズムを知り、少しだけアナキズムをリアルに感じるようになる、かもしれない。本書はそういう本だと思う。

(ちなみにこの本で解説されるフランス革命のあらましは、私が今まで読んだどの本よりもわかりやすかった気がします)

 

5人のアナキストたち

 

本書で紹介される5人のアナキストについて、簡単に紹介しよう。

まずはアナーキー(アナルシー)」という言葉を最初に定着させたプルードン(1809〜1865)。フランス革命の時代に生き、しばしば革命の主体となったブルジョワ階級のためではない、労働者のための社会のあり方を模索した。労働者の個人的な「保有」と、王やブルジョワ層の財産であり、世代を超えて受け継がれる「所有」を区別し、「所有とは盗奪だ」とする『所有とは何か』を著した。

続いては「暴れん坊」バクーニン(1814〜1876)。ロシアの貴族階級出身でありつつ、各地で蜂起を繰り返し、後に史上初の世界的な労働組合第一インターナショナルマルクスらとともに活躍する(のちにマルクスとは対立)。自らをサタンと呼び、多くの人々を革命に駆り立てた。

三人目は「聖人」と呼ばれるクロポトキン(1842〜1921)。バクーニンと同様ロシアの貴族階級出身だが、こちらは蜂起や闘争ではなく理論によって名を残した。著名な地理学者でありつつ、弱肉強食ではなく相互扶助を生物全体や人類社会の基礎に置く『相互扶助論』を著した。大杉栄など日本のアナキストにも大きな影響を与えたという。

四人目は「歩く人」エリゼ・ルクリュ(1830〜1905)。クロポトキンと同じく地理学者で、ヨーロッパとアメリカの各地を渡り歩いて様々な文章を執筆、後に世界初の労働者自治政府であるパリ・コミューンにも参加、そして『進化と革命 アナルシーの理論』『アナキスト地人論』などによってアナキズムの伝道者となった。著者の思い入れが最も強いのはこの人物だそうだ。兄のエリー・ルクリュも人類学の先駆者として知られる。

最後はバクーニンに続く「暴れん坊」マフノ(1888〜1934)。ロシア革命後の動乱期のウクライナで、農村を拠点にした自治組織を立ち上げ、各勢力と戦った人物だ。ウクライナでは彼を主役にした大河ドラマが作られたらしい。この章では、マフノらが実践した、政府に頼らずに生きていくコミューンの姿が描写される。

 

ここでは、第四章で紹介されるルクリュについての文章を引用しよう。著者はそれぞれのアナキストの思想とともに、その人間的な魅力をいきいきと描き出していく。

 

エリゼ・ルクリュはよく歩く。私自身も登山が趣味なので、なんだか、よくわかる。歩くことは全身運動で、足腰だけでなく、肩こりにも良い。もちろん、それだけじゃない。ある時は無心になれるし、ある時は思いに耽ることができる。思考することとは、常に体とその移動が伴うことで、それが活発になるような気がしている。まぁ、思い込みかもしれないけど、いずれにせよ、歩くのが私は好きだし、ルクリュもそうだった。しかも歩く距離がハンパない。もちろん、現在のように、車も交通機関もないからなのだが、それにしてもよく歩く。

 

金はないけど、勉強は楽しい。親からの仕送りもほぼないので、とうとう生活費捻出のために、靴まで売り飛ばしてしまった。でも、勉強できるなら、貧乏げな苦やなかろうもん、といった具合で、結構明るく学生生活を送っていたようだ。というのも、人生を捧げたい学問に出会ったからだ。地理学だ。
ベルリン大学は、近代地理学を作り上げていった本拠地だ。フンボルトや、その好敵手でもあったリッターが互いに地理学を練り上げていった時期であった。特にルクリュは、リッターの考えに魅せられた。人間と地球、自然と歴史が縦横に結びついていくさまに「LOVEずっきゅん」(相対性理論)。世界を歩きまくって、風景や自然を眺め観察し、それを記述し、この世界の有様が立体的に見えてくる学問、それが地理学なのではないか、もう自分にぴったり。今まで歩きまくっていたのはこの学問に出会うためだったんじゃないか、そんな思いを強くした。
(いずれも「第四章 地球──歩く人ルクリュ」より

 

「優しい社会」のために

 

以上のようなアナキストたちの人生を振り返った後、著者は「おわりに」において、もう一度私たちにとってのアナキズムについて語る。相互扶助、「たがいに助けあって生きてゆく」ことについて、著者は人類学の知見から、それが人間にとって国家や権威よりも根本的なことなのだと改めて強調する。ここ数百年のうちに形成された国家や社会の姿が絶対のものではないということを知るために、人類の古層に遡る。ゆえにアナキズムと人類学は関連が深いのだ。(本書でも参照される、2020年に他界してしまったデイヴィッド・グレーバーは、アナキズムの人類学者だった)

アナキズムは国家なしの社会を理想とするが、それはたぶん、今すぐに国家を無しにしたいということではないのだと思う。それは、国家が生まれる以前の人類の姿や、世界各地の地理とそれに応じた人々の生活を知ることで、私たちが本来はどのようでありえたか、ということを常に考え続けることなのではないか。

 

アナキストはどんなことがあっても、原理原則として、反権威主義というものがある。平等の精神に満ちている。要は、優しい心の持ち主たちだ、ということだ。私は少なくとも優しくありたいし、優しい人と生きていきたい。これはどんな人たちにとっても大原則だと思う。金がないなら死ね、努力が足りないから死ね、お上の言うこと聞けないなら死ね、人種が違うなら死ね、こんな言葉がまかり通った社会ならば、私は少なくとも、要らない。是非、壊れていただきたい。勝手に壊れて、その後に立ち上がるのは、優しい社会であってほしい。その時の準備を今からする。いやむしろ、今先に実現させる。革命後の世界を生きる。本書では革命という語が頻出していたと思う。この語も実は手垢にまみれている気がする。しかし私はこの革命という語くらい、希望を込めて使いたい。
いつも心に革命を。それがなければ生きていかれんばい。
(「おわりに」より)

 

この引用だけを読むと、その内容がナイーブなものに感じられるかもしれない。しかし、アナキズムについて軽快に、雄弁に、そして熱く語る本書を読んだ後では、この文章がどのように切実なものであるのか、またどのようにリアルでありうるのかが、読む前よりもわかる気がする。

 

次の一冊

 

近年最も話題になったアナキズムの本は、もしかするとこの本かもしれない。アナキストかつフェミニストを自認する著者のデビュー作で、例え布団から出られなくとも、生きているだけでそれは抵抗なのだということを力強く宣言する。

 

こちらは現代思想の旗手のひとりマラブーによる、哲学とアナキズムの関係についての本格研究。概念と実践の関係を問う一冊。

 

そのうち読みたい

 

森元斎のその他の著書。どれも面白そう。