もう本でも読むしかない

仕方ないので本でも読む。SF・文学・人文・漫画などの書評と感想

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鬼舞辻無惨は都市を体現する。『鬼滅の刃』における他者としての個人主義

雑踏の中で現れた鬼

 

※終盤のネタバレがあります。

 

私は吾峠呼世晴鬼滅の刃のそんなに熱心な読者ではなかったのだが、好きなキャラクターは鬼舞辻無惨だ。

 

 


まず登場シーンが良かった。無惨の登場回は浅草と思しき都市が舞台で、高層建築を見上げる雑踏の中で無惨は初登場する。人ごみの中、男がスーツとソフト帽姿の紳士にぶつかる。爪と牙を隠して群衆の中に紛れたそいつが無惨だ。

それまでこの漫画はだいたい山の中が舞台だったので、都市の物語を愛する私はすわここから鬼滅は都市の物語になるのか!と色めきたったことを覚えている。その後、残念ながら鬼滅の刃が都市を舞台にしたのはせいぜい遊郭編くらいだったわけだが、この登場シーンにおいて、私の中で無惨は「都市のキャラクター」として定着した。名前も「鬼が舞う辻(十字路)」なので都市っぽい。

 

都市のキャラクターとは何か


都市のキャラクターというのは、単に都市で出てきたキャラということではない。この漫画の中で、都市的な価値観を体現するキャラクターだということだ。

そもそも鬼滅の刃という漫画は、極限的な戦闘状況におけるサバイバルを描く漫画で、その極限状況において人々は必然的に団結と共闘を強いられる。まあだいたいの少年バトル漫画はそうなのだが、この漫画では鬼の強大さや戦闘の苛烈さ、主人公たちの必死さの描写に重きが置かれているので、この言ってしまえば全体主義的な総動員感は否応なく強調されてしまう。

私が都市の文化を好きなのは、多くの都市論が指摘するように、都市が人を個人にするからだ。人が社会を構成しながらも、集団ではなく個人として生きることを可能にしたのが都市だと言っていい。これはもちろん人に孤独と孤立をもたらす原因でもあるのだが、まあメリットとデメリットは何にでもある。
物語の終盤、無惨のもとに到達した炭治郎たちに向かって彼は言う。

 

お前たちは本当にしつこい 飽き飽きする 心底うんざりした 口を開けば親の仇 子の仇 兄弟の仇と馬鹿の一つ覚え お前たちは生き残ったのだからそれで充分だろう

 

この言葉は、個人主義の極端な顕れだ。もちろんこの言葉自体は決して肯定できるものではないのだが、私は無惨がこのセリフを言ってくれて良かったと、ジャンプでこの回を読んで心から思った。

なぜなら、この発言により、この世界には「他者」が存在することが保証されるからだ。炭治郎たちが決して共感しえない他者が。他者さえいれば、どんなものにも出口はある。

極限状況における総動員的な戦闘をあれほどの熱量で描き、肉親を失う決して癒えない悲しみをあれほどの真剣さで描きながら、悪の親玉にこんなことを言わせることができる吾峠呼世晴は、すごく信用できる作家だと思った。

鬼滅の刃は、人々が否応なく団結し、個を殺して集団にならざるを得ない物語を全力で描きながら、それに対しての究極の個人を、人々にとっての最大の脅威として登場させた。それは吾峠呼世晴の鋭敏なバランス感覚のなせる業だと思う。そして吾峠呼世晴はやはり、ある程度の共感をもって無惨を描いていたと私は思うし、だからこそ無惨は魅力的な悪役だったのだろう。

 

無惨との最終決戦の場は、果たして都市だった。ただ、そこに群衆はいなかった。群衆のいない都市は都市ではない。鬼舞辻無惨は都市の抜け殻の中で戦って死んだ。

 

次の一冊

 

都市論をそんなに読んだわけではないが、思い浮かぶのはやはりベンヤミンだ。ベンヤミン・コレクション1』には、「パリ──十九世紀の首都」「セントラルパーク」「ボードレールにおけるいくつかのモティーフについて」など、都市についての代表的な文章が多く収められている。そういえばベンヤミンの生きた時代と『鬼滅の刃』の舞台である大正は同時代ですね。

 

 

 

 

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