野崎孝訳による、フィッツジェラルドの代表作を集めた短編集
さて、今回紹介するのは新潮文庫から出ている、野崎孝訳によるフィッツジェラルドの短編集『フィツジェラルド短編集』(表記に注意)なのですが、実はフィッツジェラルドの短編については過去にも紹介しております。
上記記事で紹介した小山高義訳『若者はみな悲しい』とこの『フィツジェラルド短編集』は、どちらもベストセレクションと言える内容ですので、これからフィッツジェラルドの短編を読んでみようかなという方はどちらを手にとってもよいと思います。
名作『グレート・ギャツビー』と通じる世界を描いて人気が高いと思われる2篇「The Rich Boy(金持の御曹司)(お坊ちゃん)」と「Winter Dreams(冬の夢)」は、両方に収録されているので安心です(上記の記事で紹介しています)。
そして、下記記事では野崎孝と小山高義(そして村上春樹)による訳文を比較しておりますので、どちらを読むか迷う方はぜひ参照ください。
ざっくり言うと、野崎訳の方がクラシックな味わい、小山訳の方が現代的な読みやすさがあると思います。
さて、『グレート・ギャツビー』に通じるような、20世紀初頭アメリカの裕福な青年を描いた傑作「The Rich Boy」と「Winter Dreams」については最初にリンクを貼った『若者はみな悲しい』の記事を読んでいただくとして、今回はそちらには収録されていない傑作を紹介することにしましょう。
氷の宮殿(The Ice Palace 1920年発表)
主人公はアメリカ南東部ジョージア州に住む19歳のサリー・キャロル・ハッパー。裕福な家に生まれたサリーは地元の生活や友人たちとの関係に満足しつつも、北部ノースカロライナ州出身のハリーと婚約する。
サリーを憎からず思う幼馴染は「ヤンキー(北部の人間)」なんかと結婚するなんて、と嘆くが、サリーは南部の穏やかだが停滞した暮らしから抜け出したくなったのだ。
「そうなのよ、クラーク。それにあなたはこの町が好きだし、変化を望んでもいない。ものを考えようとしないし、前進したいとも思わない。そうでしょ?」
彼は頷いた。サリー・キャロルは手をさしのべて、それを彼の手に重ねた。
「クラーク」彼女はやさしく言った。「わたし、あなたに変ってほしいと言ってるわけじゃないのよ。今のままのあなたってすてきだと思う。あなたの中にあって、あなたを駄目にしそうなものを、わたしはむしろ、これから先も愛し続けると思うの。過去に生きているところも好きだし、昼も夜もあくせくしないでいつものんびりしてるところも好き。そして何事にも無頓着で鷹揚で」
「でもきみは行っちまうんだろ?」
「ええ――あなたと結婚するのは無理なんだもの。わたしの胸の中にはあなただけの場所があって、そこには他の人を絶対に入れなかったんだけど、でもこの町に縛りつけられるとなるとわたし、落着いていられなくなりそうなの。きっと、なんていうかなあ――自分がいたずらに磨り減ってゆくような、そんな気がするんじゃないかと思うのよ。わたしには二つの面があるのよね。一つはあなたの好きな、睡たそうにしてる古いわたしだけど、同時に一種のエネルギーみたいなものがあって、これがわたしに思い切ったことをやらせるの。わたしのこういう面が役に立つような場所が世界のどこかにあるかもしれない、そしてわたしがもうきれいでなくなったときでも、こういう面はなくならないで、それまでと同じように役に立つのじゃないか――そんな気がするのよ」
(「氷の宮殿」より)
サリーが、訪ねてきた婚約者ハリーとともに墓地を訪ねるシーンは印象的だ。サリーは南北戦争で死んだ南軍の無名戦士たちの墓の前で涙ぐむ。サリーは彼らが「この世でもっとも美しいもの」のために戦い、死んだのだと考え、はっきりと言葉にはできないものの、「ああ、ハリー、ここには何かがあったのよ、たしかに何かがあったのよ! あなたにわかってもらうことはできそうにないけど、でもあったことに間違いないわ」と告げる。サリーはここで、北部出身のハリーに、どうにかして自分の育った世界のことを知ってもらおうとするのだ。
この短編は、一人の女性の恋愛と結婚の物語でありつつ、同時にアメリカの南部と北部の違いについての物語となっている。この後サリーは婚約者とともに北部ノースカロライナへと向かい、そこで様々な経験をする。そこは彼女が育った南部とは別の世界だ。
読者は主人公の目を通して、それを経験することになるだろう。
バビロン再訪(Babylon Revisited 1931年発表)
フィッツジェラルドと言えば、アメリカとヨーロッパが空前の好景気に湧いた1920年代の作家であり、「ギャツビー」を始めとした、その時代を鮮やかに描いた作品で特に知られている。その中でこの「バビロン再訪」が重要なのは、これが1929年に始まった大恐慌の時代、「祭りの後」を描いた短編だからだ。
35歳のアメリカ人である主人公チャーリーは、1年半ぶりにパリを訪れている。リッツ・ホテルのバーでかつての友人たちの消息を聞いても、故国に帰ってしまった者たちばかり。好景気の終わりとともに、パリに集っていた外国人たちはそのほとんどが去ってしまったのだ。
チャーリーは、パリがまるで空っぽ同然になってるのを知っても、実は、それほどがっかりしなかったのだけれども、リッツ・ホテルのバーがひっそりとしてるのはいかにも異様で、不吉な感じさえもした。もうアメリカ風なバーではなくなっている──ひとりでにマナーに気をくばったりなんかして、いわば自分のうちにいるような気がしないのだ。もとのフランスのバーに戻っているのである。この森閑とした空気は、タクシーを降りたチャーリーが、ホテルの従業員入口のところでボーイを相手に雑談しているドアマンの姿を見たときから感じたことであった。ふだんの彼なら、八面六臂の活躍をしているはずの刻限なのだ。
廊下を通ってくるときも、かつてはやかましいほどにぎやかだった婦人用の化粧室から、たった一人、それも退屈そうな声が聞こえたばかりであった。廊下からついと曲がってこのバーに入った彼は、昔からの癖で、まっすぐ前を見すえながら二十フィートほどの緑の絨毯の上を足早に歩いていったが、カウンターの下の足かけのレールを片足でふまえて振り返った。そうやって部屋の中を見渡した彼の目にはしかし、片隅で拡げていた新聞の紙面から、二つの目がちらりとこちらを見上げるのが見えただけであった。チャーリーは、マスターのポールがいないかと思って尋ねてみた。ポールは、あの株価が上昇を続けた強気市場の後期には、特別に注文して作らせた自家用車に乗って出勤してきたものであった。もっとも、最寄りの街角で車を降りるだけのたしなみは失ってなかったけれども。そのポールがしかし、今日は田舎の自宅の方に行っていて、代りにアリックスがいろいろな消息を知らせてくれるという。
「いや、もういい。近頃は自重してるんだ」チャーリーは言った。
アリックスは、そういうチャーリーをほめ上げながら「二、三年前にはずいぶんお盛んでしたけどねえ」と言った。
「大丈夫、この習慣を守ってみせるよ」チャーリーは言った「もう一年半以上も続いてるんだ」
(「バビロン再訪」より)
チャーリーがパリに戻って来たのは、とある事情により、義兄夫婦の家に預けていた娘を迎えに来るためだった。
プラハで事業に成功し、酒も絶ったチャーリーは、今こそ娘との生活を取り戻そうと義兄夫妻の家に向かう。しかし義姉のマリオンは、チャーリーの過去の行状から彼を信用しておらず……
景気の良かった時代と現在とのパリの変化とともに、かつてのパリを謳歌したチャーリーという一人のアメリカ人男性の物語が徐々に語られていく。
時代の変化と人間の変化、変わるものと変わらないものの有様が、悲哀をもって描かれた忘れがたい短編だ。
なお、文庫で手に入るフィッツジェラルドの傑作集には、村上春樹訳による『フィッツジェラルド10 傑作選』もあります。収録作など、詳しくは下記の記事をどうぞ。
