「主権」の歴史
今回は國分功一郎による2015年の新書『近代政治哲学 ──自然・主権・行政』(ちくま新書)を紹介する。
「近代政治哲学」と聞いても具体的に何の話なのかわかりづらいのではないかと思うが、この本のテーマを端的に述べると、第一には「主権」とは何かということだ。
日本で言えば、かつては「天皇主権」だったが戦後は「国民主権」になった、という話でおなじみの主権という概念だが、これは一体どういう意味なのか、そしてこの概念の成立にあたって、哲学がどのような役割を果たしてきたか、というのがこの本の内容である。
近代以前の世界
主権という概念はヨーロッパで生まれたが、本のタイトルが示すように、これは「近代」にまつわる話である。近代以前、ヨーロッパは封建国家によって構成されていた。
封建国家は、近代国家とは全く違う形の国家である。というか、あまり「国」というイメージではない。封建国家にも王がいて、王は権威を持っているものの、人民に対する直接の権力は持たない。
その代わりに人民を直接統治しているのは、各地方の領主たち、諸侯たちである。封建国家は、頂点に王を戴きつつも、それぞれ独自の権力を持った諸侯たちの集合なのである。
さらにこの諸侯たちは一人の王だけに仕えるとは限らず、他の王や貴族にも同時に仕えることができるのだ。個人間の契約なのである。またこのような形で国ができているため、領土や国境の概念もない。
このようにバラバラの権力が林立しているのが近代以前、特に中世の社会であったが、そこで社会全体をまとめる役目を果たしていたのは教会の権威であった。キリスト教が社会全体の規範となり、建前となって秩序を保っていたのである。
宗教的秩序の崩壊
しかし、その秩序が崩壊する時が来る。宗教改革と、それに続く三十年戦争、ユグノー戦争などの宗教内戦である。宗教による秩序が弱まった時、諸侯たちの微妙なパワーバランスの上に成り立っていた封建国家は、終わりのない内戦になだれ込んでいったのだ。
これらの戦争は、その後のヨーロッパ世界を変えるほどに凄惨なものだったという。この宗教内戦の混乱の中から、社会を安定させるための秩序を求める動きが現れる。もはや宗教の権威には頼れないので、絶対的な権力によって統治を行い、社会を安定させる。それが「絶対主義国家」である。
「主権」の誕生
ここからが哲学の出番だ。いきなり「絶対主義」と言い出しても、一朝一夕にそのような絶対的権力を樹立できるわけではない。そのためには実際に権力基盤を固めるだけではなく、思想的な裏付けも必要だ。
ここで登場するのが16世紀フランスのジャン・ボダンによる『国家六論』である。ボダンは秩序を回復するためには国王の絶対的な権力が必要であるとし、ここで「主権」という概念を生み出したのだ。
この本ではボダンの言う主権を対外的・対内的という二つの軸に分けて説明している。
- 対外的な主張:国家は他のいかなる権威からも干渉を受けないという、自立性の主張。それは具体的には、主権者の判断によって戦争をする権利である。
- 対内的な主張:被治者を支配し、拘束する、超越性の主張。その手段は立法である。主権者は「臣民全体にその同意なしに法律を与えること」ができるという。
これが、内戦による混乱から社会を守るために生み出された主権という概念である。また、立法権という概念自体もここで発明されたという。そしてこの主権を行使する範囲を確定する必要から、臣民と領土という近代国家を特徴づける「領域」が確定される。
民主主義社会に受け継がれる「主権」
さて、絶対主義国家として誕生した近代国家はその多くが民主政に移行していくのだが、この主権という概念そのものは残っていった。絶対君主がいなくなっても、主権は残り続けるのだ。
この本はここから、ホッブズ、スピノザ、ロック、ルソー、カントなどの思想を読みながら、われわれが住むことになった民主主義の社会において、この主権というものがどのように変化しながら残存していったかを追っていくことになる。
我々は近代政治哲学が構想した政治体制の中に生きている。そして、その中にあまりにも多くの問題点があることを知っている。だが、それにもかかわらず未だ有効な改善策を打ち出せずにいる。
現代の政治体制が抱える諸問題は確かに、メディア環境の変化(情報化に伴う旧来メディアの失墜および世論のさらなる流動化)や経済環境の変化(グローバル化に伴う迅速な政策決定の必要性とそれに反しての国家的規則の弱体化)など、政治を取り巻く諸々の環境の変化と切り離せない。すなわち、現代の政治体制が抱える多くの問題に答えるためには、現代社会の分析は欠かせない。
しかし、現在の政治体制が近代政治哲学によって構想されたものであるのならば、哲学からも事態を打開するためのヒントが得られるはずである。我々のよく知る政治体制に欠点があるとすれば、その欠点はこの体制を支える概念の中にも見いだせるであろう。概念をよく検討すれば、どこがどうおかしいのかを理論的に把握することができる。(「はじめに」より)
哲学の本の多くがそうであるように、この本もまた「答え」を指し示すものではない。そうではなく、「問い」の所在を、そして問うための視座を探求するものだ。
「行政」の問題
ところで、この本の前半のテーマは「主権」だが、時代を下りながら哲学者たちの本を読んでいくに従い、別のテーマが浮上して来る。それが「行政」の問題である。
すなわち、当初は主権というものは立法権に置かれており、立法によって統治を行おうとしていたのだが、実際には行政権が統治において大きな力を持っている、ということが徐々に明らかになってくるのである。
本来は立法府を民主的にコントロールする(選挙で議員を選ぶ)ことによって民主主義を実現しようとしていたのが、実際に統治を行っているのは行政機関であり、そこには民主的コントロールが及ばないことがあるのではないか、という問題が提示されてこの本は終わる。
次の一冊
國分功一郎の行政権に関わる問題意識は、著者自身が深く関わった、2013年のに東京都小平市で行われた住民投票に関係している。これはかつて立案された、広大な緑地の伐採を伴う道路計画の見直しを求めた投票で、結果としては市が定めた投票率に届かず未開票に終わっている。この投票の手続きに関しては多くの問題点が指摘されていた。この『来るべき民主主義 小平市都道328号線と近代政治哲学の諸問題』(幻冬舎新書)はその記録と考察をまとめたもの。
立法権に対する行政権の優位に関しての本格的な研究が、カ-ル・シュミットに関する著書などのある大竹弘二による『公開性の根源 秘密政治の系譜学』(太田出版)である。これは法や主権がまとう「公開性」の原則に対し、その影の部分、公開されることのない「秘密政治」が、統治においてどのような役割を果たして来たのかを精緻に分析した大著だ。理論的な書物であると同時に、興味深いエピソードがふんだんに紹介されており、引き込まれる。なお大竹と國分にはこれらのテーマに関連する対談集『統治新論 民主主義のマネジメント』(太田出版)もある。
なお中世の封建国家については、当ブログの下記記事でも書いています。