もう本でも読むしかない

仕方ないので本でも読む。SF・文学・人文・漫画などの書評と感想

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奈落の新刊チェック 2023年12月 海外文学・SF・現代思想・歴史・カーミラ・魔の聖堂・ミステリウム・バトラー・作家主義以後・メロドラマの想像力・

あけましておめでとうございます。年が明けて当ブログもいよいよ3年目に突入したわけですが、一体いつまで続けるつもりなのでしょうか。誰に頼まれたわけでもない更新ですが、自分が楽しんでいるうちは続けていこうかと思います。一番読んでいるのが自分という気もしますが……

それでは昨年12月に出た気になる本です。

 

吸血鬼小説の古典と名高い「カーミラ」を含む、19世紀アイルランドの作家レ・ファニュの新訳作品集。訳者はチェスタトンラヴクラフトを始め多くの訳書と、小説や評論・エッセイなども多数刊行している。

 

内容説明が最高なのでそのままコピペしますが「18世紀ロンドンで建設中の七つの教会に異端建築家が仕掛けた企みと現代の少年連続殺人の謎。過去と現在が交錯する都市迷宮小説。」1997年新潮社刊の単行本が白水uブックス入り。作者は伝記作家としても知られているそうで、近訳書に『シェイクスピア伝』など。訳者はキング作品や国書刊行会版のラヴクラフト全集など訳書多数。

 

カナダの異色作家による奇想ミステリが文庫化(単行本は国書刊行会2011年)。訳者は『パラダイス・モーテル』など同作者の他作品やJ.G.バラードなども手がける。

 

作家であり中国語小説の翻訳家でもある立原透耶(『三体』の監修も務める)による中華SFのアンソロジー

 

ボルヘス最後の短編集が岩波文庫より。エッセイや評論ではなく小説のようです。おなじみ鼓直のほか、『ケンジントン公園』の訳書がある内田兆史が訳者に名を連ねる。

 

これが初邦訳となるアメリカ人作家による、LAを舞台にした女性二人のラブストーリー。訳者は他に『聖なる証』などエマ・ドナヒューや絵本リトルブルー・シリーズなどを手がける。

 

アガサ・クリスティ賞の大賞受賞デビュー作。1936年の仏領インドシナへ留学した女子学生が主人公の歴史ロマンとのこと。

 

ソフィストとは誰か? 』でサントリー学芸賞を受賞している著者による、プラトン国家』読解。2011年の単行本が文庫化。『西洋哲学の根源』『ギリシア哲学史』『対話の技法』など近著多数。『ソクラテスの弁明』など古典新訳文庫でプラトンの新訳も。

 

19世紀以降のヨーロッパで声高に語られ始めたセクシュアリティが、いかにナショナリズムと結びついたか。著者はドイツ社会史が専門で、他に『英霊 ――世界大戦の記憶の再構築』『大衆の国民化 ――ナチズムに至る政治シンボルと大衆文化』の邦訳あり。訳者はメディア論が専門で近著に『メディア論の名著30』『池崎忠孝の明暗: 教養主義者の大衆政治 近代日本メディア議員列伝』『『キング』の時代――国民大衆雑誌の公共性』など。

 

パンデミック以降に書かれた、ジュディス・バトラーの2022年の著書がさっそく邦訳。『非暴力の力』『問題=物質となる身体 「セックス」の言説的境界について』『[新版]権力の心的な生』など近訳書も多数。訳者は他にジジェク、ド・マンなど手掛け、著書に『ジョイスの反美学: モダニズム批判としての『ユリシーズ』』など。

 

近年なかなか見ない、古典的な意味での直球の映画批評の本。著者は2019年に『評伝ジャン・ユスターシュ: 映画は人生のように』を刊行している。

 

2009年に講談社現代新書から出ていた日本の現代思想・批評ガイドの定番書が増補新版で文庫化。

 

逝きし世の面影』などで知られる歴史家の2013年の講義録が新版で平凡社ライブラリー入り。最近は他にも『黒船前夜(新装版) ロシア・アイヌ・日本の三国志』『《新装版》江戸という幻景』など新版がいろいろが出ている。

 

謎めいたタイトルだが、ロンドンにおける熊楠の研究を批判的に検証した本のようだ。著者は『イスラームの神秘主義: ハーフェズの智慧』『イスラーム革命の精神』などの著書のあるイスラーム現代思想の専門家。

 

1966年に発表された、網野善彦の原点となる研究が岩波文庫で復刊。近著もいろいろあるようですがやっぱり定番は『異形の王権』『無縁・公界・楽』あたりかと。

 

アメリカの日本学者による、伊勢神宮の本格的研究。著書は他に『東京ヴァナキュラー:モニュメントなき都市の歴史と記憶』『帝国日本の生活空間』など。

 

米・独・カナダの著者による、移民研究の基本書が文庫オリジナルで登場。原著2009年。訳者は他にホブズボーム『20世紀の歴史 上 』『』などを手がける。

 

邦訳書も多い建築史家による、本格的なモダニズムの建築家ガイド。他の邦訳書に『近代建築の歴史 1851-1945』『現代建築入門』『ミース再考 その今日的意味』など。訳者は他にも『世界を変えた建築構造の物語』など建築関連書を多く翻訳している。

 

音楽と小説に関する本の多い著者による、漫画や映画も含めたディストピア作品批評。近著に『ディストピア・フィクション論: 悪夢の現実と対峙する想像力』『意味も知らずにプログレを語るなかれ』『戦後サブカル年代記』など。

 

2021年に『日本の〈メロドラマ〉映画──撮影所時代のジャンルと作品』でデビューした映画研究者による、さらなるメロドラマ映画研究。

 

SNSによって言語を取り巻く状況はいかに変化したかを多角的に論じる。音楽家でもある著者の近著には『歌というフィクション』『平成日本の音楽の教科書』『平岡正明論』などがある。

 

 

ではまた来月。

どれから読む?稲垣足穂・文庫ガイド──『一千一秒物語』『天体嗜好症』『少年愛の美学』

稲垣足穂の各社文庫の収録作を紹介

 

稲垣足穂と言えば、一千一秒物語でおなじみ大正から昭和初期の文学者、天体と飛行と無機物に憧れるモダニスト横光利一や初期の川端康成と並ぶ新感覚派の一員、「A感覚とV感覚」を発表した独自のエロティシズムの研究者──などなど、みなさんもお好きに違いない近代日本文学の巨匠ですよね。

とはいえ、なんとなく巨匠っぽくないというか、いわゆる「文学」の本流からは外れた感じがあるのもまた魅力です。

いま足穂を読んでみようかなとなった場合、まずはやっぱり新潮文庫から出ている作品集『一千一秒物語』を手に取る方が多いのではないかと思うのですが、さてその次の一冊というと、何を買えばいいのか少し困ってしまうのではないでしょうか。

というか単に私が困っているのですが、同じような悩みを抱えた方が日本全国におられるに違いないと信じつつ、現在手に入りそうな文庫本の収録作品をまとめてみました。

 

近代日本の有名作家というのはだいたいの場合、とりあえず新潮文庫を見ればたいていの作品が揃っているものなのですが、稲垣足穂の場合は、新潮からは上記の作品集が一冊出ているきりです。他社からのものは過去にいろいろ出ていたものの、その多くが現在は手に入りにくい状態になっています。

ここではまず新潮文庫の収録作を紹介し、その後に現在入手可能と思しき他の文庫を見ていきます。

収録作の中で太字になっているものは、他の本と重複しているものとなります。

(記事の最後に重複作の一覧表があります)

 

新潮文庫

一千一秒物語

黄漠奇聞

チョコレット

天体嗜好症

星を売る店

弥勒

彼等

美のはかなさ

A感覚とV感覚

 

初めて読む方は、とりあえずこの一冊を買っておけば間違いないかと思われます。価格も安く、代表作と言われるものが網羅されています。また小説だけでなく評論・批評も入っておりバランスが良いです。(他の本もだいたいそうですが)

弥勒」「彼等」「美のはかなさ」の三篇は現在文庫ではこの本にのみ収録されており、特に弥勒は自伝的な内容を含む小説なので重要かと思います。

 

 

※これ以下、赤い太字は新潮文庫との重複作、黒い太字はその他の本との重複作です。

 

 

ちくま日本文学

一千一秒物語

鶏泥棒

チョコレット

星を売る店

放熱器

フェヴァリット

死の館にて

横寺日記

雪ヶ谷日記

山ン本五郎左衛門只今退散仕る

空の美と芸術に就いて

われらの神仙主義

似而非物語

タッチとダッシュ

異物と滑翔

 

続いては、信頼の「ちくま日本文学」シリーズ。文庫サイズの日本文学全集です。ザ・足穂という感じの定番作品一千一秒物語」「チョコレット」「星を売る店」のみ新潮と重複。

こちらが最初の一冊でもいいですね。

 

 

河出文庫

現在、河出文庫からは3冊の作品集が出ています。定番作品から読みたい場合はヰタ・マキニカリス『天体嗜好症』、いきなり評論から読みたい場合は少年愛の美学を買うのがいいかと思います。

ちなみに短編「天体嗜好症」は、『天体嗜好症』ではなく『ヰタ・マキニカリス』に収録されています(ややこしい)。

黄漠奇聞

星を造る人

チョコレット

星を売る店

「星遣いの術」について

七話集

或る小路の話

セピア色の村

緑色の円筒

煌ける城

白鳩の記

「タルホと虚空」

星澄む郷

天体嗜好症

月光騎手

海の彼方

童話の天文学者

北極光

記憶

放熱器

飛行機の哲理

出発

似而非物語

青い箱と紅い骸骨

薄い街

リビアの月夜

お化けに近づく人

紅い雄鶏

夜の好きな王の話

電気の敵

矢車菊

ココァ山の話

飛行機物語

ファルマン

 

1 A感覚とV感覚

 澄江堂河童談義

 A感覚とV感覚

 異物と滑翔

2 『少年愛の美学

 幼少年的ヒップナイド

 A感覚の抽象化

 高野六十那智八十

 

1 一千一秒物語

2 天体嗜好症

 散歩しながら

 パンタレイの酒場

 Aと円筒

 瓦斯燈物語

 美学

 鶏泥棒

 月光密輸入

 カールと白い電燈

 ラリイの夢

 わたしの耽美主義

 われらの神仙主義

 天文台

 彗星倶楽部

 螺旋境にて

 僕の触背美学

 オートマチック・ラリー

 ラリイシモン小論

 つけ髭

 サギ香水

 ちょいちょい日記

 或る倶楽部の話

 ちんば靴

3 宇宙論入門

 私の宇宙文学

 ロバチェフスキー空間を旋りて

 僕の“ユリーカ”

4 ヒコーキ野郎たち

 空の美と芸術に就いて

 滑走機

 逆転

 飛行機の黄昏

 飛行機の墓地

 おくれわらび

 

 

STANDARD BOOKS

こちらの平凡社STANDARD BOOKSは文庫ではないのですが、後述の講談社文芸文庫よりも価格が安いため、だったら紹介しておくべきかなということで載せています。

随筆集となり、小説は載っていません。

 

月と虫

何故私は奴さんたちを好むか

星一夕話

緑色の円筒

月に寄せて

大きな三日月に腰かけて

月は球体に非ず!―月世界の近世史

おそろしき月

空中世界

庚子所感

神戸三重奏

ガス灯へのあこがれ

グッドナイト!レディーズ―TOR-ROAD FANTASIA

工場の星

飛行者の倫理

空界へのいざない

飛行機の黄昏1

飛行機の黄昏2

横寺日記

きらきら草紙

「黒」の哲学

放熱器

夢がしゃがんでいる

 

 

講談社文芸文庫

こちらは詩と随筆などを集めたものです。一篇が短いため収録作が非常に多いので全ては載せませんが、ここまでに挙げた本と重複しているのは「タルホと虚空」「散歩しながら」「空の美と芸術に就いて」「空中世界」のみかと思われます。大半の内容は現在はこの文庫のみで読めるということでよいと思います。

 

 

とりあえずは以上です。

もし間違いに気づかれた方はお知らせください。

みなさまぜひ稲垣足穂を手元に置き、折に触れてその硬質かつ幻想的な世界に触れてくださいませ。

 

重複作品メモ

 

樋口陽一『リベラル・デモクラシーの現在』 重鎮が語る、立憲主義の普遍性

戦後を代表する憲法学者の最新講演集

 

改めて憲法に関する本が読みたいなと思い、そしてどうせならやはり定番著者の、しかも最近のものを……ということで手にとってみたのが、今回紹介する樋口陽一岩波新書『リベラル・デモクラシーの現在』だ。

1934年生まれの樋口陽一は素人の私でも知っているくらいの代表的な憲法学者で、日本のいわゆる戦後民主主義を理論的に支えてきた人物の一人かと思う。(この辺りの歴史に詳しいわけではないのでこれから勉強します)

本書の冒頭で語られているが、著者はこれまで4冊の岩波新書を刊行している。順に比較のなかの日本国憲法(1979年)、自由と国家―いま「憲法」のもつ意味(1989年)、憲法と国家―同時代を問う(1999年)と、最初の3冊はそれぞれ10年おきに刊行されており、今回の『リベラル・デモクラシーの現在』はかなり間が空いて2020年に出たものだ。大部分が講演をもとに構成された本書では、戦後社会に並走するように憲法について語ってきた著者の、現在の問題を踏まえた上での言葉が綴られている。
(ある意味では、この4冊の岩波新書は戦後日本における岩波書店という出版社の立ち位置の一端を示しているようでもある)

以上のような成り立ちなので、本書の内容は時に過去の3冊の内容も振り返りながら語られる。それゆえとても密度が高く、最初はところどころ説明不足に感じる部分もあるかもしれないが、濃密だがきっぱりとした語りを読んでいくうちにだんだん全体像が見えてくるはずだ。

 

簡単に構成を紹介すると、「Ⅰ リベラル・デモクラシーの展開、そしてその現在」では、戦後の西側社会の基準となった「リベラル・デモクラシー」の概要と、その21世紀に入ってからの展開について語られる。(後述します)

続く「Ⅱ 戦後民主主義をどう引き継ぐか」は1917年生まれの社会学者・日高六郎についての講演をもとにしたもの。やや唐突に登場するこの人物だが、戦時中に海軍の研究機関に所属しながら植民地の解放を進言する文書を提出し、戦後にはエーリッヒ・フロム『自由からの逃走』を翻訳したというこの社会学者の思考を追体験することで、戦中から現代へと至る、日本社会への鋭い視線の一端を知ることができる。

最後の「Ⅲ 近代化モデルとしての日本」では、日本の近代化を振り返りつつ、非西洋世界における近代化のあり方や、西洋の立憲主義がどのように日本に取り入れられたのか、そして西洋という地域性を超えた立憲主義の普遍的な価値について語られる。そしてその後、自由民主党が2012年に発表した改憲草案が詳細に検討され、その問題点がとても冷静な筆致で指摘される。

 

このように、複数の講演から書き起こされた本書はかなり多くの話題を扱っており、一見バラバラに見えるかもしれないが、通読してみれば、そこには一本の強い芯が太い背骨のように通っているのを感じるはずだ。

それはおそらく、憲法そして立憲主義について長く語り続けてきた著者が守る、原理や原則のようなものだと思う。それは決して大上段に構えたものや権威的なものではなく、もっと静かで力強いもののように感じられる。

 

リベラル・デモクラシーとは何か

 

具体的な内容についてもいくらか触れておこう。

そもそもの題名となっている「リベラル・デモクラシー」という言葉だが、この言葉についてだけでもかなりの説明が必要となる。

(なお本書における「リベラル」という言葉は、現在俗語として流通している、ある種の政治的立場を指す言葉とはだいぶ違う意味であることに注意してほしい)

 

「リベラル」の論理と「デモクラシー」の論理についての私の理解を、確認しておきましょう。言葉の使い方の争いで不毛な議論になるのは人文社会分野の世界では常なものですから、私はこういう意味で使うのだ、ということです。
私の言葉づかいからすると、リベラルとデモクラシー──片方が形容詞で片方が名詞ということは別にして──は、論理上は別次元の話です。リベラルは権力からの自由、権力からの解放という点がエッセンスです。
(中略)
それに対しデモクラシーは、そのもともとのギリシャ語の語源通りデモス=人民に関連します。権力構成の原理として、デモスの名による決定ということです。
「コンスティテューショナリズム」に対応するものとして「立憲主義」という日本語があります。「憲法」=constitutionの本質的役割を権力への制限と考える普通の理解を前提とするならば、「リベラル・デモクラシー」は「立憲デモクラシー」と重なります。

(Ⅰー0 「前提:「リベラル」の論理と「デモクラシー」の論理」より)

 

 このように別々の概念である「リベラル」と「デモクラシー」は、両立することもあれば、時に衝突することもある。それが両立した状態を著者は「リベラル・デモクラシー」と呼び、それを「おおまかに言えば、ポスト1945年の西側諸国の世界基準(同書より)」とし、基本的には擁護していく。

では「リベラル」と「デモクラシー」の衝突とはどんな状況か。それを理論化したのが戦間期ドイツの法学者、カール・シュミットだ。シュミットは近代議会制とはリベラルの制度化だったはずが、戦間期においてはその前提が失われているとし、リベラルとデモクラシーの衝突こそが本質的なことだとする。そしてナチスが政権を獲得すると、途端にデモクラシーを理由にリベラルの全否定に転ずるという。批判勢力を一掃し、大量宣伝手段によって圧倒的な支持を得たヒトラーの出現は、リベラルとデモクラシーが衝突した典型例であり、そのような衝突はまたいつでも起こりうると著者は注意を促す。

 

ここで登場するのが、本書の副題にもある「イリベラル」・デモクラシーという言葉だ。イリベラルとはもともと「狭量な」「偏狭な」「卑劣な」などの意味を持つ言葉のようだが、ここではやはりリベラルを否定する言葉として使われている。デモクラシーの形式を取りつつも、リベラルつまり「権力からの自由」を否定する方向性と言えるだろう。

前述のナチス政権に代表されるようなイリベラル・デモクラシーの要素が、1980年代のレーガンサッチャー体制から始まるネオリベラルと呼応するようにして再び高まりつつあるというのが本書の問題意識であり、そのような観点からイギリスのEU離脱、トランプ現象を始めとした西欧各国、そして日本の状況が言及される。前述した2012年の自由民主党による改憲草案は、ここでは「イリベラル・デモクラシーを他国に先駆けて憲法規範化したい、という意味を読み取ることができる」とまで言われている。

 

大日本帝国憲法の解釈の変遷

 

本書では他にも多くの問題や、それについての歴史が語られるが、中でも興味深いと感じたのは大日本帝国憲法についての部分だ。

大日本帝国憲法というと、どうしても現在の憲法との対比によって、戦前の全体主義的な日本を形作った憲法というイメージを持ってしまうが、実際にはその解釈のされ方には歴史的な変化があるという。

明治期の日本は、西欧列強に対抗しうる近代国家となるためには「立憲の政」つまり立憲主義の確立が必要だと考えていた。近代的な工業力や経済力は、近代的な(リベラルな)社会そのものによって実現されるということを、西欧諸国を視察した人々は悟っていたのだ。

伊藤博文の言葉に憲法ヲ創設スルノ精神ハ第一君権ヲ制限シ第二臣民ノ権利ヲ保護スルニアリ」というものがあり、つまり明治憲法の時点でも、憲法が君主の権力を拘束するものだという原則が存在したのだ。(これは同じく君主国であった当時のドイツの憲法が参考にされた)

このような憲法の理解は1935年までは続き、大正デモクラシーという民権運動もその時代の空気から生まれたものだという。(1935年、それまでの憲法解釈の主流であった天皇機関説が否定され、天皇への権力の集中が始まる)

もちろんこれは「実は大日本帝国憲法にも良いところがあった」というような単純な話ではなく、リベラルな社会を確立し近代化を目指すこと自体が植民地政策と直結していたのだが、少なくとも近代日本の憲政について多角的な視点を与えてくれるエピソードではある。

 

立憲主義の普遍性

 

また「Ⅲ」で語られる、2001年の国際会議でとあるアフリカの知識人が語ったとされる、「西欧は旧植民地を二度苛める」という言葉も印象に残る。

一度目の「苛め」はもちろん植民地化だが、二度目とは何か。それは二十世紀末において西欧諸国がかつての植民地主義、そして近代国民国家システムを自己批判し、しかしそれゆえに、かえってリベラル・デモクラシーについても旧植民地諸国に押し付けるべきではない、という態度を取ってしまうことである。

 

当時、植民地主義に対する西側の知識人の自己批判、遡って近代国民国家モデルの自己批判が、実は、南側の強権的支配の下に置かれている良心的知識人たちを窮地に陥れ、足を引っ張ることになっていました。簡単に言えば、近代国民国家=西欧の自己批判の論理は、ある方向に推し進めていくと、それぞれの文化にはそれぞれのやり方がある、それぞれの文化にはそれぞれの価値がある、という話になります。それは、まさに見事に、自己流の強権的な支配を続ける南側の支配者の好む言説です。西欧型の民主主義を我々に押し付けるな、我々には我々固有の貴重な文化があるのだ、という脈絡になるのですから。

(「Ⅲー0 前提:あらためて「四つの八九年」」より)

 

最後に、この問題提起に対応する、著者の1989年のパリでの報告を引用して結びとしよう。
 

今、西洋起源の近代立憲主義の普遍的原理、と述べた。西洋的なるものが本当に普遍的でありうるのだろうか? 西洋中心主義は今日では時代遅れではないのか。たしかに、例えば、一五世紀日本の演劇である能を、西洋の演劇にあてはめるのが常であるような価値基準にもっぱら基づいて評価することはできない。ラシーヌシェイクスピアのそれとは違った演劇の理念がありうる。しかしながら、個人に対するなんらの基本的信念もなしに立憲主義を想定することはできず、そうであるならば、この領域での西洋中心主義の意味の深さを受け入れないわけにはゆかない。文化の複数性を尊重するのは一つのことがらであり、西洋起源の立憲主義の価値の普遍性を確認するのはそれと別のことがらである。この普遍性を擁護することは、決して、言うところの「文化帝国主義」ではない。

(同上)

 

そのうち読みたい

 

樋口陽一の著作はたくさんありますが、やはり重要なのはこれなんでしょうね。1972年の初版から改定を重ね、現在のものは2021年の第四版。

 

2013年平凡社ライブラリーのこちらは手に取りやすそう。

 

木庭顕『誰のために法は生まれた』 徒党の解体と自由な個人〜法の根源を探る特別授業

法学者と中高生がともに古典を読む授業の記録

木庭顕『誰のために法は生まれた』は、ローマ法を専門とする法学者による法学入門の本だが、普通に書かれた入門書ではない。

これは中学三年から高校三年までの生徒を集めて行われた、全5回の特別授業の記録なのだ。しかもそれは、教師が一方的に喋る授業では全くない。

これらの授業は、著者から質問が矢継ぎ早に投げかけられ、生徒たちがそれにどんどん答えていくという、活発な掛け合いによって行われるのである。

 

授業の題材は主に映画や戯曲で、第1回から順に以下の通り。

以上4回の授業の後、最終回では実際の日本の判例が題材となる。

 

さて、なぜ法について学ぶ際に、このような映画と戯曲を題材にするのか?

著者によれば、あらゆる法の根源は古代ギリシアとローマにある。現在私たちが使っている法というものは、のちのヨーロッパが古代の法を再発見し、それを再解釈・再構成したものなのだ。

そしてそれゆえに、古代ギリシアの戯曲には、法の根源となる概念がそのままの形で残されているのだという。

最初の二回で見る二本の映画は、いわばそれを読むための地ならしである。後半の授業で読むことになるような根源的な物語を、傑作と名高いこれらの古典的な映画は備えているということだ。

 

生徒たちはまず映画を見、あるいは戯曲を読んでから授業に臨む。(本書では、映画や戯曲のおおまかな内容が授業部分の前で説明される) そして著者は彼らに向かって、劇中で起こったことについて質問していく。

ただし、ここで生徒たちが問われているものは、決して知識ではない。そもそも中高生なので、法や社会についての知識がそうあるわけではない。著者が生徒たちに尋ねるのは、劇中の出来事や登場人物たちの行為に対し、一体何が起こったのか、彼らはなぜそうしたのか、その時何を感じていたのか、ということである。

ここで生徒たちに求められているのは知識ではなく、飽くまでも直感というか、彼らがこれまで生きてきた経験に基づく感覚だ。そしてこれがこの本の最もエキサイティングな部分だが、著者は生徒たちのその直感、感覚によって導き出されるものの中から、法そのものの根源を取り出してくるのである。

以下は、ソフォクレスの悲劇『フィロクテーテース』において、オイディプスの命でフィロクテーテースを騙そうとしていたネオプトレモスが、オイディプスに背くシーンについての対話。

 

Tさん、ネオプトレモス君は戻ることにしたんですが、戻るというのは、ネオプトレモスにとって、何の立場から何の立場に、戻るないしは移ることを意味しているのか。つまりネオプトレモスはそれまでは何のつもりでやっていたのが、 今度は何をしようと急に考え方を変えたのか。わかった?
──……
最初はフィロクテーテースを騙そうとした。今度は? ゆっくり考えてみて。
──なんか、騙して連れてくるんじゃなくて、本当のことを言って……。
すばらしい、それでいい。「本当のことを言って」というので完璧な答えだ。
(中略)
本当のことを言うってどういうことかなあ。どういうことだ?
──心を許す。
心を許す、悪くないな。O君、本当のことを言うってどういうこと?
──自由になった。
お、それはどういう意味?
──えっと、オデュッセウスに縛られていた。支配されていて、自由を縛られていて、その上でやっていたのが、オデュッセウスの家来じゃなくて、自分一個人として、なんていうの、呪縛をバッと。
おおー、すごい、これは、君たちの言葉を使うと、鳥肌が立つってやつだな。
これは想定していなかった。想定しているよりも、もっといい答えが出てきちゃった。
すばらしいね。本当の言葉というのは自由な言葉。これはメモしておいてもいいくらい。その通りだ。
T君、オデュッセウスの何に対して従属している? もちろん権威に従属しているところもあるけど、もうちょっと具体的に言うと?
──力?
うん。ここに言葉っていうのがあるんだけれど、これに力が加わって、従属していた。しかしそうでない言葉に転換した。いままでも言葉を使っていた、だけどそれはオデュッセウスに従っていた。オデュッセウスからああ言え、こう言えと言われてその通りに言っていただけだ。だからここをズバーッと切って、自由って言葉さえ、O君は発見できている。
(中略)
つまり、自由が問題なのだけれど、必ず何から自由か、と考えなければいけない。それで何から自由かというと、ネオプトレモスに加担しろと言っている、いつもの集団の利益交換だね。ここからの自由だ。集団の利益交換のロジックが策略になっている。これをシャットアウトできるかどうか。これがこの言葉の問題だ。
T君に何をきいていたかというと、利益交換の言葉から、自由な言葉に移ったと。後者が本当の言葉ってやつだ。これで初めて言葉が機能する、とギリシャ人は考えた。

(木庭顕『誰のために法は生まれた』「第四回 見捨てられた一人のためにのみ、連帯(政治、あるいはデモクラシー)は成り立つ──ソフォクレスの悲劇」より)

 

徒党の解体、そして自由な個人

 

では、著者が古代ギリシアとローマから取り出してくる法の根源とは何か。

それは、法とは集団から個人を守るために生まれたということである。著者はそのような法の目的を、「徒党の解体」という言葉で表現する。より多くの利益を得るための、権力を持った不透明な集団が「徒党」であり、そのような徒党を解体して個人を守ることこそが、古代ギリシア人が成立させた「政治」の本質なのである。

また古代ローマにおいては「占有」という概念が発達する。占有とはある人とあるもの(あるいは人)との関係の質に関わる概念であり、あるものを自分のものだとして二者が争った際に、その関係の質が高い方に「占有」が認められる。そしてそのものについての権利を暴力的な手段で主張しようとする者は、たとえどんな理由があろうともその時点で「占有」の資格を失うのだ。

あるいはデモクラシーの問題点について。民主的な手続きは時に集団を形成し、デモクラシーという手段を用いて利益を独占することもある。つまり前述の「徒党」だ。そのような「徒党」に陥らない真の連帯の姿として、ソフォクレス孤立した個人によってのみ成立する連帯を描く。

 

このようなものが著者の言う法の起源であり、それこそが本書の最も重要なテーマだが、しかし最後の授業において、私たちはそれが現在の日本では十分に法制度に反映されていないということを知る。

昭和40年と昭和63年の実際の判例を生徒たちとともに読んでいく最後の授業は、その判決において前述のような法の理想が達成されなかったことを知る苦いものだ。

それでも、現在も力を失わない古典の数々から法の根源を引き出し、その理念と現実の両方を生徒たちに伝えようとするこの授業はとても清々しい。ぜひ多くの人に追体験してほしいと思う。
 

精神の自由は、公共の福祉との兼ね合いを考えてはいけない。比喩的に言うと、たとえ国民全員に不利益が及んでも、その人権は守らなければいけない、ということになります。これが狭い意味の人権です。そういう人権は、 ちょっとでも傷つけられてはいけない。ナンバーワンで絶対に動かないのは精神の自由。次に身体の自由。身体も神聖不可侵で、絶対にこれも傷つけてはいけない。だから学校でも体罰アプリオリバツなんだよ。
もう一つ絶対的なものとして、言論の自由がある。自由な言葉が政治の根幹で、政治がすべての土台だから。その一つに、政治的な意味の表現の自由があります。これと区別されて、精神の自由と不可分の表現の自由があります。精神は記号行為を必要とします。具体的な媒体とこれを受け取る人々を一人ひとりに与えなければなりません。フィロクテーテースには、ギリシャ語の音を出すための自然的リソースと、これを受け取る他の人格が不可欠です。せめて音をこだまで返す自然がなければなりません。表現手段と受け取り手が具体的に与えられていなければ、精神それ自体が死んでしまうのです。

(「第五回 日本社会のリアル、でも問題は同じだ!──日本の判例」より)

 

次の一冊

 

授業で取り上げられた古典の中でも特に印象深いのが、このソフォクレスアンティゴネー』。裏切り者となった兄を埋葬しようと孤独に戦うアンティゴネーの姿に、「たった一人のためだけに成り立つ連帯」が読み取られる。

 

そのうち読みたい

 

こちらは歯応えがありそうだが、木庭顕の専門であるローマ法の入門書。

奈落の新刊チェック 2023年11月 海外文学・SF・現代思想・歴史・赦しへの四つの道・孔雀屋敷・ジュリアン・バトラー・言葉の風景・とるにたらない美術・四つの未来ほか

早いものでもう年の瀬ですが、早いといえばこの12月で当ブログももう開設2周年でした。どうにか細々と続けております。日頃のご愛顧のほど誠にありがとうございます。まだしばらくは趣味として続けていければと思います。

それでは11月の気になる新刊から。

 

 

村上春樹訳によるフィッツジェラルドの短編傑作選が中公文庫より登場。
春樹ふくむフィッツジェラルドの翻訳については当ブログの人気記事であるこちらをどうぞ。

『グレート・ギャツビー』冒頭の翻訳3種類を比べてみた 野崎孝・小川高義・村上春樹訳 - もう本でも読むしかない

 

かの名作『闇の左手』と同じ「ハイニッシュ・ユニバース」を舞台とした物語4編を収めるル・グウィンローカス賞受賞作。1994年発表。アシモフ、ディック、ハインラインからキングやクリスティまで手掛けるベテランによる初訳。

 

1939年発表のフォークナーの代表作のひとつが文庫復刊。訳者はフォークナーのほか、モーム、トウェイン、クリスティなど王道の英米文学を手掛ける。

 

伝説の古書の発見にまつわるベストセラーミステリの復刊。武田ランダムハウスジャパンから刊行されていた単行本は2010年に第2回翻訳ミステリー大賞を受賞している。訳者はロマンス小説の翻訳が多い。

 

吉田健一ふたたび』『吉田健一に就て』などの編著書のある文芸評論家・川本直のデビュー小説にして読売文学賞を受賞した話題作が文庫化。表紙は宇野亞喜良

 

開かせていただき光栄です』『アルモニカ・ディアボリカ』に連なる皆川博子の歴史ミステリ・シリーズ最終作。舞台は独立戦争中のアメリカ。

 

江戸川乱歩が激賞したという、19世紀インド生まれ英国育ちのミステリ作家の傑作集。長編『赤毛のレドメイン家』も出てます。訳者は他にも英米ミステリの翻訳多数。

 

斜線堂有紀をはじめとした6名による、その名の通り、Twitterの終了にまつわる小説集。斜線堂有紀の小説はTwtterでしか繋がっていなかった探偵と助手の話だそうです。

 

『ドラキュラ』の根底には、ヴィクトリア朝における外国恐怖があるという研究。1997年に東京大学出版会から刊行された本の文庫化です。著者はウルフ『ダロウェイ夫人』の翻訳を手掛け、また編著に『二〇世紀「英国」小説の展開』『文学批評への招待』などがある。

 

吉田健一の文学論や文章論を集めたエッセイ集が平凡社ライブラリーより。

 

国書刊行会定本久生十蘭全集』の編者である著者による、久生十蘭についてのエッセイ集。1994年に刊行された『久生十蘭』の増補改訂版とのこと。

 

話題作『言葉の展望台』の続編となる、三木那由他言語哲学エッセイ。

 

著者が偶然知ったジネヴラ・ボンピアーニという人物について調べるうちに、20世紀イタリアにおける文学的な交流が浮かび上がってくるという本。著者はこの本がデビュー作のイタリア文学研究者。

 

動物にまつわるデリダの「伝説的な」講演録が文庫化(単行本は2014年)。翻訳はデリダと言えばの鵜飼哲

 

自身もアーティストである著者による、「ラッセン、心霊写真、レンダリング・ポルノ」という副題からしてぐっと摑まれる美術論集。このあと『評伝クリスチャン・ラッセン 日本に愛された画家』を刊行予定。

 

19世紀英国における識字率上昇に際しての社会の変化を分析した古典が文庫で復刊。訳者には入手困難だが『「読者」の誕生―活字文化はどのようにして定着したか』『メディアの現在形』などの著書あり。

 

精読 アレント『全体主義の起源』』『精読 アレント『人間の条件』』『今を生きる思想 ハンナ・アレント 全体主義という悪夢』など近年アレント本を出しまくっている牧野雅彦によるまとめの新著。

 

柄谷行人の2014年の単行本が文庫化。

 

ポスト資本主義を思考するための四種の社会の形について。翻訳は『ブルシット・ジョブ クソどうでもいい仕事の理論』『負債論 貨幣と暴力の5000年』などグレーバーの翻訳で知られる酒井隆史。訳者近著に『賢人と奴隷とバカ』『ブルシット・ジョブの謎 クソどうでもいい仕事はなぜ増えるか』など。

 

戦争裁判を主題とした小説を取り上げ、「文学は戦争を抑止するために何ができるのか」という問いについて考える新書。著者は近代文学研究者で、近著に『小説と〈歴史的時間〉』、編著に『「言論統制」の近代を問いなおす 検閲が文学と出版にもたらしたもの』など。

 

くらしのアナキズム』『小さき者たちの』『旋回する人類学』など次々と著書を刊行している    松村圭一郎の2008年のデビュー作が文庫化。

 

イタリア思想の紹介・翻訳の第一人者である上村忠男によるカルロ・ギンズブルグ論。著者近著に『独学の思想』『アガンベン 《ホモ・サケル》の思想』、近訳書にギンズブルグ『どの島も孤島ではない――イギリス文学瞥見アガンベンカルマン――行為と罪過と身振りについて』など。

 

2005年に刊行された萱野稔人による国家論・暴力論の定番書が文庫化。著者近著には『人間とは何か?』『名著ではじめる哲学入門』など。

 

台湾の歴史・文学研究者による、台湾のナショナリズム発生の研究。著者にはすでに『コレクション・台湾のモダニズム 第1巻 台湾総督府の植民地統治』『台湾、あるいは孤立無援の島の思想』の邦訳がある。訳者近著に『アポリアとしての和解と正義――歴史・理論・構想』『初期社会主義の地形学(トポグラフィー) 大杉栄とその時代』など。

 

すでに『あぶない法哲学 常識に盾突く思考のレッスン』という新書を刊行している著者による、こちらも法哲学の入門書。

 

1982年の邦訳刊行以降何度も復刊しているイヴァン・イリイチの古典が岩波文庫入り。初訳から手がける訳者はイリイチの他にカール・ポランニーなども手掛ける。

 

ブルックリンで起こったことを題材にしたジェントリフィケーション批判。著者近著に『排除と抵抗の郊外 フランス〈移民〉集住地域の形成と変容』、編著に『移民現象の新展開』など。

 

様々なイデオロギーの受け皿となる「家庭」という概念の歴史を追う新書。著者は家族社会学が専門で著書に『家族情緒の歴史社会学』がある。

 

DVなど暴力的な関係から逃れられない人には何が起こっているのか、またその語りに第三者はどのように応じられるのか、についての論考。著者は臨床哲学倫理学が専門で、著書に『共依存の倫理―必要とされることを渇望する人びと―』、編著に『狂気な倫理――「愚か」で「不可解」で「無価値」とされる生の肯定』、訳書にギリガン『抵抗への参加──フェミニストのケアの倫理──』がある。

 

歌うカタツムリ-進化とらせんの物語』などで知られる進化生物学者による、ダーウィン通俗的理解への批判の書。著者近刊は他に『招かれた天敵――生物多様性が生んだ夢と罠』『進化のからくり 現代のダーウィンたちの物語』など。

 

国立科学博物館に所蔵された標本のかずかずをフルカラーで紹介。日本の生物多様性にまつわるものがセレクトされているとのこと。

 

ではまた来月。

小川洋子の短編の後ろめたい楽しみ 『薬指の標本』ほか

静謐で幻想的な短編集

 

※今回は本の紹介というよりも、かなり個人的な楽しみについてのエッセイのような文章です。

これで小川洋子に関する記事を書くのは二本目だが、正直いって私は、この作家がどういう作家なのかいまいちよくわかっていない。

最も有名な作品は博士の愛した数式(2003年)だろうと思う。しかしこれはなんとなく私がいま求めるものとは違う気がして読んでいない(読んだら印象が変わる可能性は大いにある)。私が初めて読んだ作品は短編集『寡黙な死骸、みだらな弔い』(1998年)で、その印象については以前記事に書いた(小川洋子『寡黙な死骸 みだらな弔い』 静かな死の気配と、冷たく湿った情緒 - もう本でも読むしかない)。そして私は同じような雰囲気の短編がもっと読みたくて、今回紹介する薬指の標本(1994年)を手に取ったのであった。

 

 

この本には二本の短編(中編くらいかも?)が収録されている。本文が180ページほどの薄い文庫本だ。

一本目の表題作薬指の標本では、語り手が街で見つけた「標本室」という不思議な施設で働くことになり、その施設の経営者であり標本技師である弟子丸氏という人物と出会う。標本室には様々な人が訪れ、その人にとって大切なものや思い出深いものを標本にするよう依頼する。弟子丸氏は彼らから預かったものを標本にし、標本室に保管するのだ。働き始めて一年が経った日、語り手は弟子丸氏から美しい黒い革靴をプレゼントされる。その靴は足にぴったりと吸い付き、その靴を履いてから、語り手と弟子丸氏の奇妙で親密な関係が始まる。

二本目の「六角形の小部屋」では、語り手が知り合いの老婦人の行く手を好奇心からついていくと、廃墟となった団地の一室にある六角形の小部屋にたどり着く。老婦人とその息子が管理するその小部屋は「語り小部屋」と呼ばれ、そこを訪れた人々はその小さな箱のような小部屋の中に入り、各々好きなことを語るのだという。首を傾げながらもその中に入ってみた語り手は、別れることになった婚約者との間に起こった、不条理な出来事と感情について語り始める。

 

どちらの小説も、現実を舞台にしながらも現実的ではない、奇妙で幻想的な物語だ。文章はあくまでも硬質で淡々としており、大きく感情が盛り上がることはない。しかしどこか湿り気もあり、さりげない不穏さや不気味さもある。これらの特徴は、以前紹介した『寡黙な死骸、みだらな弔い』に収められた作品群にも共通する(それにしても、なんと的確なタイトルだろうか)。

これらの世界の中では、ある意味何も起こらない。実際には意外性のある物語が展開してはいるのだが、しかしその結果訪れるのは、はるか以前から未来へと続くような灰色の静止した世界だ。登場人物たちはある決まった運命に導かれ、それを受け入れて変化していくように見える。不気味だが心地よいまどろみの世界である。

 

部屋番号をさかのぼればさかのぼるほど、引き出しのつまみも、試験管のシールも、標本も、中にこもった空気も、古くなっていった。キャビネットの間を歩くと、降り積もっていた時間が粉雪のようにふわふわと、足元から舞い上がってくる気がした。

キャビネットが窓をふさいでいるせいで、保管室は昼間でも薄暗かった。スイッチを入れると、天井の光がくすんだ空気をオレンジ色に染めた。

わたしは根気強く引き出しを開けていった。古い引き出しは滑りが悪く、ぎしぎし軋んだ。 標本の種類は、今とそれほど違いはなかった。ただ、試験管のガラスは分厚く、保存液は淡い褐色に変色していた。

いろいろな標本があった。ヒヤシンスの球根や、知恵の輪や、インク壺や、かんざしや、ミドリ亀の甲羅や、靴下どめが、眠っていた。もう長い間、誰の手にも触れられず、忘れ去られている様子だった。引き出しを動かすと、それらは試験管の保存液の底で、怯えたように震えた。

古い保管室は不思議な匂いがした。他の何かにたとえることができない、初めての匂いだったが、嫌な感じではなかった。一個一個の標本に封じ込められた過去の時間が、わずかずつこぼれ出し、混ざり合ってあたりを漂っているようだった。深く息を吸い込むと、その匂いが胸を満たした。

小川洋子薬指の標本」)

 

 

小川洋子の書く文章は、私にとってとても読みやすい。清潔で、不純なものがなく、かつ妖艶である。読みやすく、そして何も起こらないので、いくらでも読むことができる。語られるのは基本的には夢物語であるが、その奥底は人間の中の不気味なものに通じているようにも思える。

そしてこれらの小説を読む楽しみには、どこか後ろめたいものがある。あまり大っぴらに言えないような、隠れて読みたいような。

だが一方で、この世界は作者によって倫理的に強く統御されたもののようにも思える。この世界に相応しくないものは一片たりとも紛れ込ませないというような。

この作家が他にどういう種類の小説を書くのか、長編はどうなのかなども気にはなるが、もうしばらくはこの感じのものを読み続けたいと思う。

 

マポロ3号『PPPPPP』 誰も読んだことがなかった、鮮烈な視覚的ピアノ漫画

『対世界用魔法少女つばめ』連載中のマポロ3号のデビュー作

 

マポロ3号の新連載が、ついにジャンプ+で始まった。タイトルは『対世界用魔法少女つばめ』

shonenjumpplus.com


まどマギ」を思わせる終末型の魔法少女もの、という定番モチーフの漫画だが、それゆえ作者の唯一無二の世界が明確に伝わるとも言える。まだ始まって数話なので、ぜひ今から読み始めてほしい。

 

 

そのマポロ3号の衝撃的なデビュー作が、今回紹介する『PPPPPP』だ(読み方は「ピピピピピピ」)。週刊少年ジャンプに2021年から2023年にかけて連載された漫画で、惜しくも物語の途中で終了となったが、ぜひ多くの方に読んでほしい意欲作である。単行本は全8巻。

漫画の中心はピアノ。ピアニストたちの物語だ。主人公・園田ラッキーはごく普通の高校生だが、実は全員が天才ピアニストである音上(おとがみ)家の七つ子のひとりだった。しかし他の兄弟姉妹のような能力を持たなかったラッキーは、やはり天才ピアニストである父・音上楽音に「凡才」として追放され、身分を隠して暮らしていたのだ。
ピアノを離れていたラッキーだったが、自分とともに家を出た母の願い、そして「また7人で一緒にピアノを弾きたい」という自らの望みのため、再びピアニストを目指すことになる。

 

挑戦的で実験的な絵と言葉

 

このようにあらすじを要約すると、ピアノという題材は少年ジャンプには珍しいものの、物語の骨子は王道のジュブナイル/成長物語のように思える。しかしそれを表現する漫画の描かれ方はかなり異色のものだ。

まずは、一目でそれとわかる個性的な絵柄。初期高野文子中野シズカ市川春子あたりのニューウェーブ的な系譜を感じさせる、鋭角的で平面的なキャラクターデザインが目を引く。またそのようなキャラクターを中心とした画面はグラフィック性が強く、時にその絵柄は「物語・状況の伝達」という一般的な漫画の絵の役割をほとんど逸脱する。

特に物語のクライマックスとなるピアノの演奏シーンでは、圧倒的かつ奇想天外なグラフィックが見開きの大ゴマを埋め尽くすことになるだろう。これはほとんどの読者にとって、見たことのないピアノ漫画だと断言できる。

またマポロ3号は、画面やキャラクターの中にデジタル加工された文字やパターンを嵌めこむことを躊躇わない。デジタル化された漫画における、実験的な技法がこれでもかと試行されている。

 

大胆なのは絵柄だけではない。物語が後半に向かうにつれ、そのセリフやモノローグは恐ろしく圧縮されたものとなり、短いシークエンスの中に濃密な情報量が込められる。一回読んだだけでは内容を把握できないこともあるし、正直に言えば私も、今でも何が書いてあったのか理解しきれていない部分もある。

物語そのものは飽くまでも、主人公の成長・周囲の人間との相互理解・家族との葛藤と和解をテーマにした王道の成長物語なのだが、その内容はどんどん複雑なものになり、それを語る手法も先鋭化されていく。

このように、絵の面でも言葉の面でも挑戦的・実験的な手法で描かれた『PPPPPP』は、決して「読みやすい漫画」ではないかもしれない。とはいえ現在世の中に流通しているほとんどの「読みやすい漫画」は、内容はそれぞれ違っていても、それを表現する手法自体は同じようなものが多いと思う。そんな中でマポロ3号の漫画を読むと、普段と違う筋肉を使わされるというか、こちらから努力して内容を読み解く必要が生じる。私はそれを心地よく感じるし、これもまた、漫画を読む大きな楽しみだと思う。

 

「視覚化された音楽」という表現

 

内容についてももう少し触れると、この漫画で最も挑戦的な部分は、やはりそのピアノ演奏に関する描写だろう。

この漫画に登場する「天才」ピアニストたちは特殊な能力を持っており、彼らがピアノを演奏すると、「ファンタジー」と呼ばれる視覚的な現象が聴衆の前に出現するのだ。

つまりこの漫画では、天才的なピアノの演奏とは視覚的なものなのである。これはかなり大胆な設定であり、一般的な音楽漫画のスタイルを大きく逸脱したものだ。この一点において、『PPPPPP』は音楽漫画ではなくファンタジー漫画だと言うことすらできる。

しかし、これはある意味では正攻法だと思う。なぜなら漫画というメディアでは音を描くことはできず、描くことができるのは視覚的な形象だけだからだ。「漫画によって描ける要素だけでどうやって音楽を表現するか」という問題に対し、「音楽が視覚的に表現される」というのは、トリッキーながらストレートな回答ではないだろうか。

 

ひょっとすると、「多くの音楽漫画では実際に音楽の演奏が描かれている」という反論があるかもしれない。確かにその通りで、私たちは多くの「まるで実際に音楽が聞こえるような」音楽漫画を読んだことがある。しかし、あえて厳密に言えば、それは単に「音楽を演奏する様」が描かれているだけであって、それが非常に巧みに描かれているため、読者に音楽が聞こえるような幻想を与えているにすぎない(それはそれでもちろんすごいことなのだが)。

対して『PPPPPP』が描いているのは、「視覚化された音楽そのもの」であり、そこではある意味、「音楽そのもの」が実際に描かれているのだ。そして「音楽が視覚化される」という奇抜なアイディアによって、「キャラクターそれぞれの演奏の違い」を描くこともまた実現される。主人公とライバルの演奏の違いを、私たち読者は実際に体験することができるのだ。なぜなら、それは絵で描かれているのだから!

 

物語が進むほどに、登場人物たちの演奏シーンは迫力とページ数を増し、どんどん前人未到の表現が展開されていく。これはもう体験して欲しいとしか言いようがない。(なお電子版で読む場合は必ず見開き表示にしてほしい)

 

 

中断を余儀なくされた物語の終盤は、「凡才」である主人公ラッキーと、その内に実は潜んでいる「天才」ラッキーとの相克がテーマだった。

ラッキーは七つ子の中で唯一、「良識」「善」のようなものを身につけたために「天才」としての能力は失われ、その部分は別の人格のようにして心の内に閉じ込められたのだった。

天才性と良識、芸術性と善との相克というテーマは、ありふれているとも言えるが、繰り返し問われてきた普遍的なテーマでもあると思う。『PPPPPP』におけるその問いかけは途上で終わってしまったが、それはとても魅力的に描かれた問いとして私たちに残されている。

 

 

 

ちなみに全8巻となった『PPPPPP』の中ではいくつかのまとまったエピソードが描かれたが、私が特に好きなのはラッキーの姉である音上ミーミン(上記第3巻表紙のキャラ)と、そのライバルである山中メロリ(上記第4巻表紙のキャラ)の物語だ。

自由と楽しさを愛し、葛藤しつつも父親が支配する音楽界からの離脱を決意するミーミン。そのミーミンが大きな愛情を寄せる相手がメロリだが、メロリはミーミンのピアノに勝ちたいと切望する。

何度かの対決を経て二人がたどり着く愛と信頼の関係は、近年漫画で読んだ中でも特に印象に残るものだったと、これは主に既読の方に向けて強く伝えておきたい。