もう本でも読むしかない

仕方ないので本でも読む。SF・文学・人文・漫画などの書評と感想

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小川洋子の短編の後ろめたい楽しみ 『薬指の標本』ほか

静謐で幻想的な短編集

 

※今回は本の紹介というよりも、かなり個人的な楽しみについてのエッセイのような文章です。

これで小川洋子に関する記事を書くのは二本目だが、正直いって私は、この作家がどういう作家なのかいまいちよくわかっていない。

最も有名な作品は博士の愛した数式(2003年)だろうと思う。しかしこれはなんとなく私がいま求めるものとは違う気がして読んでいない(読んだら印象が変わる可能性は大いにある)。私が初めて読んだ作品は短編集『寡黙な死骸、みだらな弔い』(1998年)で、その印象については以前記事に書いた(小川洋子『寡黙な死骸 みだらな弔い』 静かな死の気配と、冷たく湿った情緒 - もう本でも読むしかない)。そして私は同じような雰囲気の短編がもっと読みたくて、今回紹介する薬指の標本(1994年)を手に取ったのであった。

 

 

この本には二本の短編(中編くらいかも?)が収録されている。本文が180ページほどの薄い文庫本だ。

一本目の表題作薬指の標本では、語り手が街で見つけた「標本室」という不思議な施設で働くことになり、その施設の経営者であり標本技師である弟子丸氏という人物と出会う。標本室には様々な人が訪れ、その人にとって大切なものや思い出深いものを標本にするよう依頼する。弟子丸氏は彼らから預かったものを標本にし、標本室に保管するのだ。働き始めて一年が経った日、語り手は弟子丸氏から美しい黒い革靴をプレゼントされる。その靴は足にぴったりと吸い付き、その靴を履いてから、語り手と弟子丸氏の奇妙で親密な関係が始まる。

二本目の「六角形の小部屋」では、語り手が知り合いの老婦人の行く手を好奇心からついていくと、廃墟となった団地の一室にある六角形の小部屋にたどり着く。老婦人とその息子が管理するその小部屋は「語り小部屋」と呼ばれ、そこを訪れた人々はその小さな箱のような小部屋の中に入り、各々好きなことを語るのだという。首を傾げながらもその中に入ってみた語り手は、別れることになった婚約者との間に起こった、不条理な出来事と感情について語り始める。

 

どちらの小説も、現実を舞台にしながらも現実的ではない、奇妙で幻想的な物語だ。文章はあくまでも硬質で淡々としており、大きく感情が盛り上がることはない。しかしどこか湿り気もあり、さりげない不穏さや不気味さもある。これらの特徴は、以前紹介した『寡黙な死骸、みだらな弔い』に収められた作品群にも共通する(それにしても、なんと的確なタイトルだろうか)。

これらの世界の中では、ある意味何も起こらない。実際には意外性のある物語が展開してはいるのだが、しかしその結果訪れるのは、はるか以前から未来へと続くような灰色の静止した世界だ。登場人物たちはある決まった運命に導かれ、それを受け入れて変化していくように見える。不気味だが心地よいまどろみの世界である。

 

部屋番号をさかのぼればさかのぼるほど、引き出しのつまみも、試験管のシールも、標本も、中にこもった空気も、古くなっていった。キャビネットの間を歩くと、降り積もっていた時間が粉雪のようにふわふわと、足元から舞い上がってくる気がした。

キャビネットが窓をふさいでいるせいで、保管室は昼間でも薄暗かった。スイッチを入れると、天井の光がくすんだ空気をオレンジ色に染めた。

わたしは根気強く引き出しを開けていった。古い引き出しは滑りが悪く、ぎしぎし軋んだ。 標本の種類は、今とそれほど違いはなかった。ただ、試験管のガラスは分厚く、保存液は淡い褐色に変色していた。

いろいろな標本があった。ヒヤシンスの球根や、知恵の輪や、インク壺や、かんざしや、ミドリ亀の甲羅や、靴下どめが、眠っていた。もう長い間、誰の手にも触れられず、忘れ去られている様子だった。引き出しを動かすと、それらは試験管の保存液の底で、怯えたように震えた。

古い保管室は不思議な匂いがした。他の何かにたとえることができない、初めての匂いだったが、嫌な感じではなかった。一個一個の標本に封じ込められた過去の時間が、わずかずつこぼれ出し、混ざり合ってあたりを漂っているようだった。深く息を吸い込むと、その匂いが胸を満たした。

小川洋子薬指の標本」)

 

 

小川洋子の書く文章は、私にとってとても読みやすい。清潔で、不純なものがなく、かつ妖艶である。読みやすく、そして何も起こらないので、いくらでも読むことができる。語られるのは基本的には夢物語であるが、その奥底は人間の中の不気味なものに通じているようにも思える。

そしてこれらの小説を読む楽しみには、どこか後ろめたいものがある。あまり大っぴらに言えないような、隠れて読みたいような。

だが一方で、この世界は作者によって倫理的に強く統御されたもののようにも思える。この世界に相応しくないものは一片たりとも紛れ込ませないというような。

この作家が他にどういう種類の小説を書くのか、長編はどうなのかなども気にはなるが、もうしばらくはこの感じのものを読み続けたいと思う。