もう本でも読むしかない

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ロベール・ブレッソン監督『たぶん悪魔が』 静謐で官能的な、運命的映像

ブレッソン"幻の傑作"

 

ロベール・ブレッソン監督の1977年の映画たぶん悪魔がを観た。日本初公開だそうだ。

 

一見するとリアルな人々と街の姿を捉えたかに見える映画だが、その実、この映画に映っている光景は決して現実的なものではない。あらゆる登場人物は直立し、一様に前か少し下を向いて、一定の、たゆまぬ足取りでコツコツと歩く。その動作には一切の迷いはない。例え立ち止まり、思いにふけりながら振り向いたとしても、それらの動作は全て計算され尽くしている。

 

運命へと向かっていく歩調

 

冒頭、ある登場人物が足の右と左に重心をかけて見せ、その結果としての靴底の減り方を見せる。そして仲間の靴底の減り方をチェックする。 これ以降彼らはひたすら歩き続ける。最初のシーンで、これは歩くことに関する映画だということが示されているのだ。 地面に立つこと、重心を移動させて歩くこと。主人公はいつも少し内股に歩く。

とにかく彼らはひたすら歩き続ける。 パリの街路で、夜のセーヌ川のほとりで、さらに家の中でも。 下半身のみを映したショットも多い。そしてその歩調は常に一定だ。音楽のほとんど流れないこの映画の中で、路上に、敷石にコツコツと、軋む床にギシギシと響く足音を観客はひたすら聞き続ける。

彼らの歩みに迷いは一切ない。 まるで決められた道を歩いているかのよう。一様に憂いを帯びて僅かに俯いたその視線は、まるで地面の上に、彼らにしか見えない徴が示されており、そこから踏み外さないように歩き続けているかのようだ。運命によって歩く道が決まっているよう。この映画の最初の画面は新聞記事で、そこで最後に起こることが予告される。その意味では、この映画は確かにある運命に向けて一直線に進んでいく映画なのだ。

そしてひとたび歩みを止め、部屋で椅子に座り、ベッドに横たわり、教会の講堂に腰かければ、そこには何かを悟りきったような表情とともに、あまり動きのない、神秘的な視線の交錯が起こる。

 

宗教画のような映画

 

ブレッソンの映画の画面はいつも宗教画のように見える。それもバロック以前の静謐なルネサンス、あるいはジョットのような中世の宗教画だ。間違ってもロマン主義のような激しい感情や動作は無い。登場人物は常に直立し、背筋を伸ばして座り、あらかじめ決められているかに見える運命を見据えながら話し、沈黙し、歩く。三浦哲哉『映画とは何か』当ブログで紹介しています)によれば、ブレッソンは俳優(その多くは職業的な俳優ではない)に何度も繰り返し演技をさせ、その行動に作為が一切なくなるまで繰り返させるという。そのようにして撮られた、ある種の不自然で強固な様式を持った映像が、他では見たことのないような、まるでアニメーションとして描かれたかのような人工的な人体の運動を映し出す。その、完全にコントロールされた、しかしそれでも不安定な人間の動きでしかありえない動作、定められた運命に完璧に従がおうとしながらそれでも微細な揺らぎを孕みつづける動作が、映画を全編にわたって満たしている。このような官能は他では味わったことがない。

映画のほとんど全編を満たす規則正しい足音、その足音が乱れるのはおそらく二度。まずは中盤、ある登場人物たちが、銃声を聞いて急いでその方向へ走るシーン。そしてもうひとつはラストシーンだ。ある決定的な出来事が起こった後で、ある登場人物が徐々に足を早め、やがて駆け足になって闇に消えて行き、そして映画も幕を閉じる。

 

物語は、死への誘惑に取りつかれた若者である主人公が、仲間たちと一緒に反社会的な集会に参加したり、教会で討論したり、夜の河畔で拳銃を弄んだり、環境問題について考えたりしつつ(水俣の映像も使われている)、仲間たちと近づいたり離れたり、心配されたりしながら、ある運命に向かってゆっくりと歩んでいくという内容だ。

言ってしまえば何の変哲もない、悩める若者の物語が、圧倒的に静謐できめ細やかな映像によって映し出される。ぜひ映画館で見てほしい。そして、スチルを見ればわかる通り、抑制された演出で撮られたこの若者たちの姿はため息が出るほど美しい。

 

2022年3月末現在は新宿シネマカリテで公開中。その後全国で順次公開予定。

lancelotakuma.jp

 

ロベール・ブレッソンの映画については、当ブログの下記記事でもいろいろ書いています。

pikabia.hatenablog.com