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シャンタル・アケルマン『オルメイヤーの阿房宮』 コンラッドのデビュー作を映画化

再評価の進む監督による、植民地小説の映画化

 

オルメイヤーの阿房宮(字幕版)

オルメイヤーの阿房宮(字幕版)

  • スタニスラス・メラール
Amazon

先日、ジョゼフ・コンラッド『闇の奥』を紹介する記事(こちら)を書いている際、コンラッドの最初の小説である『オルメイヤーの阿房宮が2010年に映画化されていることを知り、Amazonプライムビデオで配信されていたので見ることができた。(スターチャンネルEXへの登録が必要)

監督はベルギー出身のシャンタル・アケルマン(1950~2015)。寡聞にして知らない監督だったが、ゴダールジョナス・メカスなどの影響を受けた映画監督で、近年再評価が進んでいるらしく、日本では昨年開催された「シャンタル・アケルマン映画祭」でまとめて初公開されたらしい。フェミニズム映画の先駆的存在とされることもあるようだ。

 

映画の筋書きはかなり単純なものだ。東南アジアのどこかの国、いつとも知れぬ時代に、オルメイヤーという白人男性が密林に囲まれた河畔の粗末な小屋に住んでいる。彼は金鉱の採掘権と引き換えに元上司の養女である現地人女性のザヒラと結婚したが、金鉱は一向に見つからず、無為の日々を過ごしている。

妻とも心を通わせることのない彼にとって唯一の愛する対象が、一人娘のニナだ。オルメイヤーと元上司(義父)はニナを寄宿学校に入れ、白人として育てようとする。やがてニナは寄宿学校を抜け出すが、父であるオルメイヤー、そして白人社会に反発し、そこから離れていく。

 

1895年に発表された原作小説では舞台はボルネオ島、主人公オルメイヤーの設定はオランダ商人、時代は19世紀であり、基本的にはこれは東南アジアがヨーロッパの植民地であった時代の物語である。しかしそのことは映画では明言されず、現代の都市で撮影されたシーンもあることから、この映画は無時間的な、どこか寓話的な雰囲気を帯びている。

しかしそれでも、この映画は明らかに植民地の物語である。現地人と結婚し、生まれた娘を溺愛しながらも、ヨーロッパ人であることの内に留まり続ける男。そしてそのような男の矛盾と限界を冷ややかに見つめ、自分の人生を生きようとする妻と娘の物語だ。

 

要約すればほとんど一言で済んでしまうこの物語を、監督のシャンタル・アケルマンは、ゆっくりと時間をかけて映し出す。

一見して強く印象に残るのは、ほとんどのシーンを構成する長回し撮影だ。長回しとは、カメラを止めずに(カットを割らずに)、一つのシーンを一続きの連続した映像として撮影する手法のこと。長回しで撮影されている間は、そこに映っている俳優はその映像と同じだけの時間、演技をし続ける。

この映画では、登場人物たちの姿、東南アジアの河と密林、そしてニナが彷徨う夜の街などが、たっぷりと尺を取った長回しで映し出される。粗末な小屋に暮らすオルメイヤーの無為と失意は、何も起こらない長い映像によって容赦なく引き伸ばされる。
彼を取り巻く自然もまた、美しくも容赦がない。どこまでも深い森、静かに陽光を反射し続け、時には激しい雨に波打つ河面、金鉱を探すオルメイヤーの行く手を遮る果てしない灌木。そのような風景が、これでもかと画面を埋めていく。

そして、息詰まる寄宿学校を抜け出たニナは、煙草に火をつけ、夜の街をあてどなく彷徨う。雑多な通りをひたすら歩き続けるニナの姿を、カメラが横からえんえんと追い続けるシーンは印象的だ。

長く長く引き伸ばされた、ほとんど退屈とも言える映像を見るときに、我々は初めて「時間」というものを知覚する。そしてその中で静止し、あるいはゆっくりと動くカメラは、物語に奉仕しない、むき出しの空間を映し出す。このシンプルだが濃密な映画は、植民地の寓話を強烈な時間と空間の存在感によって語っている。

 

 

そのうち読みたい

 

原作小説はこちらに収録されているようです。

 

ジョゼフ・コンラッドの代表作『闇の奥』についてはこちらの過去記事をどうぞ。

pikabia.hatenablog.com

 

そのうち見たい

 

シャンタル・アケルマンの映画はだいたい配信で見られるようです。

アンナの出会い(字幕版)

アンナの出会い(字幕版)

  • オーロール・クレマン
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