もう本でも読むしかない

仕方ないので本でも読む。SF・文学・人文・漫画などの書評と感想

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台湾日記:中山國小近くの八方雲集、そして星巴克

台北での最初の数か月間、私は一人で中山國小チョンシャングオシャオ近くのサービスアパートメントに滞在していた。
中山國小というのは中山小学校という意味で、東西に伸びる民権東路ミンチェンドンルーと南北に伸びる新生北路シンシェンベイルーの交差点あたりに建っており、その交差点に同名のMRT(地下鉄)の駅がある。(台北は京都と同じような、碁盤の目になった街だ)辺りはわりと繁華街で、私の滞在していた場所の前は高架下のちょっと暗い通りなのだが、南に下って民権東路に出るか、一本西に入って林森北路リンセンベイルーに出れば夜でも賑やかな街が広がっている。

とはいえ台湾に来たばかりの私には、ローカルなお店で食事をするのはハードルが高かった。慣れてしまえばたいていの店では置いてある紙にボールペンで記入して渡すだけで済むのだが、最初はそのような勝手がわからない。
台湾では英語や日本語が通じる場所も多いが、あまり外国人が来ないゾーンではそんなに通じない。私は周辺をうろうろして、メニューがわかりやすく書いてある店を探した。
ここで頼もしかったのはチェーン店だ。チェーン店には標準化されたメニューがあり、入り口に大きく表示してある。私が見つけたのは八方雲集バーファンユンジーという、麺と点心のチェーン店であった。水餃スェイジァオ(水餃子)や抄手シャオショウ(ワンタンの一種)、各種の面類を扱っている。
私はそこで何度も水餃と紅油抄手ホンヨウシャオショウ(辛味ワンタン)と芝麻麺ズーマーミェン胡麻味噌麺)を買って帰って食べた(店内で食べるのはなんとなく敷居が高かった)。
後に私は、餃子も麺もチェーン店ではない個人経営の小さな店の方がはるかに美味いということを知るのだが、台湾に来たばかりの私にとってはそれが初めての台湾の味だった。部屋で一人でそれらを味わいながら、台湾に来たなあと思ったものだった。

農安街にある八方雲集。

わからんことだらけの初仕事の日々をやり過ごすと休日が来る。人は異国で暮らし始める時、拠点が必要になる。私はカフェで本を読むのが趣味なので、カフェに行かなければならない。
少しうろちょろしただけでも、台北にはすごく多くのカフェがあることがわかっていた。その頃(2017年)の少し前からカフェブームだったらしい。私は民権東路まで南下し、店がたくさんありそうな西側へ向かった。
民権東路は目抜き通りで、東に少し行けば有名な寺院である行天宮シンティエンゴンがあり、西に行って中山北路チョンシャンベイルーを南に折れてしばらく行くと台北の中心、台北車站タイペイチャージァン台北駅)に行ける。
中山國小の交差点からカフェやらブティックやらちょっとした商業ビルやらを眺めながらしばらく西に歩くと、果たしてそこにそれはあった。スタバだ。
カフェは他にもたくさんあったが、私の足はスタバに向かった。なぜならスタバの注文の仕方はだいたいわかる。メニューもだいたい同じはずだ。スタバならなんとかなるはずだ。 スタバは私を裏切らなかった。そこでは価格もメニューも注文方式も全て日本と同じだった。グローバル・スタンダードの威力に打ちのめされつつ、しかしせめて覚えたての中国語でアメリカーノを注文した。

美式咖啡メイシーカーフェイ!」
「Hot? or ice?」
「ホット」

スタバは英語が通じる。台湾ではスターバックスのことを当て字で星巴克シーバークーと呼ぶ。


ストリートビューで見たら、そのスタバはもう無かった。

 

佐藤亜紀『ミノタウロス』 容赦のない「歴史」の手触り、そして機関銃付き馬車。

祝・復刊!佐藤亜紀ミノタウロス

 

 

 

長らく品切れ状態だった佐藤亜紀ミノタウロスが、角川文庫から復刊された。めでたい。『スウィングしなけりゃ意味がない』が出て以来、入手困難だった佐藤亜紀の本がどんどんKADOKAWAから復刊されているのでありがたい限りである。どんどん読まれてほしい。
この小説は雑誌「本の雑誌」による2007年に出た本のベスト1に選出され、また第29回吉川英治文学新人賞受賞も受賞している。私が読んだのは話題になってからずいぶん後、講談社文庫版が出た頃だったと思う。

 

20世紀初頭のウクライナ、内戦サバイバル小説


物語の舞台はロシアの帝政が崩壊した直後のウクライナ。主人公は地主の息子ヴァシリ。地主の息子なので要するに田舎のボンボンという感じなのだが、このボンボンが内戦のただ中に放り出され、手段を問わずサバイブしていくという小説だ。
佐藤亜紀の小説は容赦がない。とは言っても、露悪的だったり、エロスや暴力がことさら強調されていたり、「人間の……暗黒面!」などがこれ見よがしに強調されているとかいうことではない。容赦がないというのは、「歴史」というものがどういうものなのかを、上記のようなロマンを排して淡々と語るところだ。淡々と語るだけで、歴史は必然的に容赦がなくなる。なぜなら、ロマンや理念を排した歴史は、権力と暴力の連鎖でしかないのだから。

 

生々しい「歴史」の手触り


ミノタウロス』はフィクションだが、私たちが好き勝手にロマンを投影した歴史、英雄や偉人のものではない歴史の手触りを感じることができる、気がする。それはひょっとすると、多くの歴史書を読むよりも生々しい手触りなのではないかと思う。そしてそれを読む読者は、私たちが歴史について語ることの難しさを知るだろう。
個人的な小説のハイライトは、主人公が機関銃付き馬車を手に入れるくだりだ。機関銃付き馬車というものの身も蓋もない威力をこれほど教えてくれる小説は他にはないのではないだろうか。

 

 ぼくは時々、地主に成り上がる瞬間に親父が感じた眩暈を想像してみる。親父がまだヴォズネセンスクにいて、農機具店で働いていた頃のことだ。ぼくが生まれるより二十年も前の話だ。

 独学で身に付けた簿記と、腰の低さと、お愛想笑いが生活の手段だった。三十を過ぎても独り身だった。爪に火を灯すようにして僅かばかりの給金を貯め込む小男に嫁ごうという女はいない。日の当らない店の奥で青白く面窶れはしていても病気一つしなかったし、重い鉄床をちょっと踏ん張るだけで抱え上げるくらい頑丈だったが、女たちは親父を宦官か何かのように考えていたらしい。(佐藤亜紀ミノタウロス』冒頭)

 

佐藤亜紀の小説には生活が書かれている。そして生活の中にしか歴史はないのだと思う。

 

次の一冊


ミノタウロス』を読んだらきっと他の小説も読みたくなると思うが、勧めやすいのは前述の『スウィングしなけりゃ意味がない』だろう。ナチス政権下のハンブルクで、禁じられた音楽であるスウィング・ジャズに熱狂する悪ガキたちの物語だ。この小説でも同じような「歴史」の手触りを感じることができる。

 

 

 

かつて講談社から出ていた『吸血鬼』がすごく好きなのだが、こちらは現在電子書籍でしか手に入らない。Kindleで読んでください。

吸血鬼

吸血鬼

Amazon

追記:復刊されました!!

pikabia.hatenablog.com

 

そのうち読みたい

 

最近は角川文庫がどんどん佐藤亜紀作品を復刊してくれており、ありがたい。この『天使・雲雀』も復刊した初期作品で、第一次世界大戦前夜を舞台にした、心が読める青年のスパイ小説とのこと。

 

 

『ゴールデンカムイ』には「世界の全体」と、「映画のファンタスム」が描いてある。

「全部ある漫画」

 

別にこんなところで紹介しなくてもだいたいみんなもう読んでると思うのだが、野田サトルゴールデンカムイ集英社ヤングジャンプコミックス)は本当に面白い漫画ですよね。

私はおそらくアニメ化記念の100話無料公開の時に読み始めたら止まらなくなって全巻買ってしまった。

 

 


ときどき、これは「全部ある漫画」だな……と思う漫画があるんだけど、ゴールデンカムイも「全部ある漫画」のように感じる。すなわち……何でしょう、全部というのは、例えば「愛」と「欲望」と「暴力/権力」と「生命」と「歴史」とかでしょうか。

つまりこの漫画は具体的なあらすじを述べれば「アイヌが隠したという金塊をめぐって、軍人や元囚人や少数民族の人々が入り乱れて旅をしたり戦ったりする」漫画ということになるのだが、その過程において、なんというか「世界の全体」みたいなものが描いてあるように感じるわけです。

おそらくそれは、世界を構成する主要な要素(前述の愛とか欲望とか)が、限定された物語の中に凝縮されているように感じるということだと思う。杉本やらアシリパさんやらその他大勢のキャラがくんずほぐれつしつつ動物を狩ったり殺し合ったりするのを見て、「あ~、“世界”だな~」と感じるわけです。

 

映画の中にだけ出現するもの(ファンタスム)


もうひとつ強く思うのは、とても「映画」だなー、ということです。

これは具体的に映画からの引用が多いという意味でもあるんだけど、それ以上に、映画で実現されているものを描きたいと思ってる漫画なんだろうな、という意味です。

映画というのは当然、まず現実の空間があって、その中を人間やモノが物理的に運動している。それが映画に映っている。そういう、現実の空間をモノが物理的に運動することによって発生する、しかし幻想的なもの。特撮や特殊効果という意味ではなく、現実のモノと運動を撮影することによって表現される、なにかファンタスティックなもの、そういうものを漫画で再現しようという欲望を強く感じる。映画だけが持つファンタスムを、漫画で描き出そうとしているような。(「ファンタスム」は直接的には「幻想」という意味ですが、ここでは映画の中に現出する魅力的な「何か」くらいの意味で読んでください)

ゴールデンカムイで描かれるキャラクターの大胆なアクションや画面構成は、そういうことを目指しているような気がする。
完結までもう少し、どうなるか楽しみです。ちなみに好きなキャラは二階堂です。

 

次の一冊


こういう、「全部ある漫画」だなーと他に最近思ったのは、石田スイ『東京喰種』でしょうかね。どっちもヤングジャンプですね。新作の『超人X』も楽しみです。

 

 

 

私はこの漫画に出てくる二階堂浩平がとても好きなのだが、このキャラクターからは非常にダダ的なものを感じる。戦争と機械と不条理の申し子としてのダダ、そして二階堂浩平である。

ダダ、ダダイズムというのは第一次世界大戦の時代にヨーロッパで始まった反・芸術運動であり、意味や理性の転覆を目指した。この本の表紙の絵は機械の絵ばかり描いていたフランシス・ピカビアによるもので、これも二階堂っぽい。

 

 

 

20世紀初頭の前衛芸術運動とゴールデンカムイの関連について書かれた文章とかすごく読みたいので誰か書いてください。

岡田温司『西洋美術とレイシズム』ほか 芸術は政治でしかありえない

西洋美術の歴史に潜在するレイシズム

 

岡田温司は私が最もたくさん読んでいる著者の一人だ。著書が多すぎてぜんぜん追いつけないのだが。

この著者の仕事には大きく分けて、イタリア現代思想の紹介と、美術史・芸術批評のふたつのカテゴリーがある。(もちろん同時に両方にまたがるものもある)

今回は美術関係の方を紹介しよう。


安価で読みやすい新書をたくさん書いてくれるのが岡田温司のいいところだが、まずは近作の『西洋美術とレイシズムちくまプリマー新書)から紹介してみる。

 

 

この本はタイトルの通り、西洋美術の歴史に潜在的に流れているレイシズムの要素を拾っていくという内容だ。

本書が扱うのは主に聖書に書かれている主題だが、様々なエピソードや人物が絵に描かれる上で、その表現に特定の人種や民族の特徴が付与されることがあるという。抑圧される立場に置かれたり、罪を問われて追放されたりする聖書の登場人物が、本来は人種や外見の描写が無いにも関わらず、例えばアラブ人、ユダヤ人、黒人などの姿で描かれるということだ。著者はそのような例を数多く紹介する。

西洋絵画の歴史はそのようにして、言葉にしないレイシズムを意識的あるいは無意識的に表現し、それが現代の人々にも潜在的に影響を及ぼしているということである。この本は図版がオールカラーなのだが、テーマを考えれば全ての図版をカラーで見せる意味は明白だろう。

 

イメージは、必ず政治的な力をもつ


岡田温司の本は、美術や絵画について語る時に、常にその政治的な側面を問題にする。

イメージが人々に与える政治的な影響を抜きにして芸術を語ることはできないということだ。私がこの著者の本を読み続ける理由もたぶんそこにある。(またそれは、著者が紹介するイタリア現代思想にも当てはまる。そこでは政治と宗教と美学が不可分なものとして扱われる)

 

(西洋美術とレイシズムは)密接につながっている、これが小著の主張するところである。とりわけ、そのつながりがさまざまな様相を見せるのは、西洋美術の根幹をなすキリスト教美術の長い伝統においてである。三つの一神教、すなわちユダヤ教キリスト教イスラム教は、いずれも旧約聖書聖典と仰ぐことで一致している。が、あえて極端な言い方をするなら、そこに語られるいくつかのエピソードを、レイシズム的に読んで絵画にしてきたのは、実のところキリスト教だけである。

ほぼ二千年にもわたるキリスト教美術の歴史の中で、人々が目にしてきたものが、ほとんど無意識的な記憶となって残存し続ける、小著が、これまで抑圧されてきたその無意識に気づくためのささやかな手引きになるなら幸いである。(岡田温司『西洋美術とレイシズム』「はじめに」)

 

次の一冊


岡田温司の新書には他にも面白いものがたくさんある。

岩波新書デスマスクは、一冊まるごとデスマスク(死に顔)の話だ。ヨーロッパの人々は死者の顔というものに人々が何を見、何を託し、何を恐れてきたのかを豊富な例とともに語る。

祖先の肖像、王や教皇の似姿、英雄や天才を描いた絵画なども含め、死者の顔というのはイメージの中でも最も強いもののひとつであり、そこには宗教と美学と政治の強い力が宿る。死のイメージ史だ。

 

 


中公新書ではキリスト教関連のイメージに関するものが何冊も出ている(品切れのものもあるが、電子版でも読める)。

そのうち一冊マグダラのマリア エロスとアガペーの聖女』は、マグダラのマリアという聖女が、聖なる愛と官能的な愛、苦悶と悦楽など両義的なイメージを託して描かれる様を詳しく教えてくれる。

他にも『キリストの身体』『処女懐胎』『アダムとイブ』、岩波から『黙示録』も出ている(全て新書)。

 

 

 

新書以外のものも挙げておこう。

人文書院から出ている『イメ-ジの根源へ 思考のイメ-ジ論的転回』は、著者の基本的なテーマをまとめた論集と言える。

一言で言えば「イメージの学」ということになると思うが、絵画を始めとした芸術論、様々なメディアの特徴を考えるメディア論、さらに人間がものをどのように感じ取るかという感性論などを横断して考える学問だろう。イメージと概念の間、「見えるもの」と「思考されるもの」の間のスリリングな関係は、芸術や表現が好きな人なら好奇心を刺激されるはず。

 

 

 

岡田温司のイタリア現代思想に関する仕事は、また別の記事で紹介する。(→追記:紹介しました!)

pikabia.hatenablog.com

 

さらに追記:岡田温司の著作リストを作成したので、ぜひ合わせてご覧ください。

pikabia.hatenablog.com

ジーン・ウルフ『ケルベロス第五の首』 緻密に構成された不確かさ。

最高のシリーズ「未来の文学」が完結した。

 

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国書刊行会未来の文学〉シリーズ

 

国書刊行会未来の文学」シリーズがついに完結したらしい。
未来の文学」シリーズは大好きなシリーズだった。60年代、70年代の知られざる名作SFを、美しい装丁でたくさん刊行してくれた。
どの作品もとても面白そうに見えたし、とにかく装丁がかっこいいので何冊も揃える楽しみもあった。
私はSFの中でもニューウェーブ期のSFが特に好きなのだが、このシリーズがその好みに影響を与えているのは間違いない。
また、このシリーズは単純にSFとは言い切れない雰囲気の作品が多く選ばれていた。SFと、SFではない文学との境界線上に位置するような作品と言おうか。
その越境性は、ほとんど伝説としてしか知らない、ありし日のサンリオSF文庫もこんな雰囲気だったのだろうか、と思わせてくれた。

 

未来の文学」シリーズと言えばジーン・ウルフ。どんな作家?


最初のインパクトは、やはりジーン・ウルフだった。ケルベロス第五の首』『デス博士の島その他の物語』は、二作連続で早川書房の「SFが読みたい!」にランクインしており、そのタイトルのかっこよさもあって強烈に興味を惹かれたのを覚えている。
正解がわからないとイライラする向きにはお薦めできないが、魅力的な謎と戯れるのが好きな人には自信を持ってお薦めできる。奥深く、美しくて、人を幻惑するような謎に、何回読んでも出会い直せるということは、私にとっては最後に正解が判明することよりも楽しいことだ。

 

代表作『ケルベロス第五の首』


ここでは「未来の文学」シリーズの第一弾であったケルベロス第五の首』を紹介したい。ちょうど先日重版されたそうだ。

 

 

ウルフの代表作として知られるこの小説は三部構成になっている。
第一部は表題作「ケルベロス第五の首」。惑星サント・クロアに住む語り手が、少年の日々を回想する話だ。
第二部は「『ある物語』ジョン・V・マーシュ作」。マーシュという人物が採集した、とある惑星の民話が綴られる。
そして第三部が「V・R・T」。幽閉されている、とある囚人の尋問記録である。
それぞれの部分は一見独立した小説として書かれていて、相互の繋がりはあまりはっきりしていない。だが、通読するうちにそれぞれの関連性がおぼろげに浮かび上がってくる(が、はっきりとした因果関係は見えそうで見えない)という感じだ。
物語そのもののモチーフはクローン、あるいは自分とそっくりな何かだ。語り手とそのクローン、信用できない記憶、双子惑星とその住人などなど、自分の鏡像となるものの存在の不確かさ、そして自分自身の不確かさが、精緻に組み上げられた複雑な語りと、端正な文章によって、「不確かなままに」描き出される。これは、不確かさを巡る、それ自体が不確かな──しかし、それは驚くべき技巧で構築された不確かさ──小説なのだ。

 

 子供のころ、デイヴィッドとわたしは眠かろうが眠くなかろうが早くベッドに入らねばならなかった。とりわけ夏には就寝時間はしばしば日没前になった。わたしたち兄弟の部屋は館の東翼にあり、中庭に面した広い窓は西を向いていたので、ときには何時間も、強烈なピンクがかった光を浴びつつ、横になったまま、まだらに剝げた姫墻に座り込んでいる父の片輪の猿を眺め、あるいはベッドの間で言葉に出さずジェスチュアで話を交わしていたものだった。

ジーン・ウルフケルベロス第五の首』冒頭)

 

次の一冊

 

もしこの小説が気に入ったら、何の疑いもなく短編集『デス博士の島その他の物語』を手に取ってほしい。期待が裏切られる心配はほとんどないと思う。

 

 

 

さらにもう一冊!という場合はもう一冊の短編集『ジ-ン・ウルフの記念日の本』をどうぞ。アメリカの様々な記念日にちなんだ短編が集められた、洒脱な(でもちょっと怖い)短編集だ。

 

 

 

未来の文学」シリーズで好きな本は他にもいろいろある。このアンソロジー『ベータ2のバラッド』はどの収録作もすこぶるかっこいい。特に静かに鋭いキース・ロバーツ「降誕祭前夜」と、エネルギッシュなハーラン・エリスン「プリティ・マギー・マネーアイズ」が好きだ。

 

 

 

そのうち読みたい

 

そして、「未来の文学」シリーズ最後の一冊がこの『海の鎖』。SF読者なら知らない者のいない翻訳者、伊藤典夫が独自に編纂したアンソロジーとのこと。表題作は「破滅SFの傑作」だそうな。面白そうです。

 

 

 

※宣伝

ポストコロニアル/熱帯クィアSF

kakuyomu.jp

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本のブログはじめます。

こんにちは、こうすけXです。

今までに読んだ本や最近読んだ本の感想などをアウトプットしようと思い、ブログを始めることにしました。

漫画、SF、日本文学、海外文学、現代思想、哲学、批評、歴史などが中心になると思います。

映画やその他のジャンルのことも、思いついたら書くかもしれません。

 

更新に追われるのもつらそうなので、のんびり書いていけたらと思います。

よろしくお願いいたします。