もう本でも読むしかない

仕方ないので本でも読む。SF・文学・人文・漫画などの書評と感想

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2.5次元ミュージカルとしての『ジギー・スターダスト』 架空のキャラクターとして歌うということ

架空のキャラクターを演じるデヴィッド・ボウイ

 

 

以前、いわゆる名盤と呼ばれるような、ロックやポップスの歴史的に有名なアルバムをひととおり聴いてみた時期があったのだが、デヴィッド・ボウイ『ジギー・スターダスト』というアルバムはいまいちピンと来なかった。

単純に音楽的なスタイルがその時の興味に合っていなかったというのもありそうだが、それとは別に、「ジギー・スターダスト」という有名なコンセプト自体を呑み込めていなかったのだと思う。

デヴィッド・ボウイの『ジギー・スターダスト』、正式なタイトルを『The Rise and Fall of Ziggy Stardust and the Spiders from Mars』というこの1972年発表のアルバムは、普通のロックのアルバムとは少し違う。これはデヴィッド・ボウイが、「ジギー・スターダスト」という架空のアーティストを名乗って演じるアルバムである。ここに収められた曲を演奏し歌っているのはボウイとそのバンドではなく、ジギー・スターダストとそのバンド「スパイダース・フロム・マーズ」なのだ──という設定なのである。

 

そもそもボウイについて特に詳しくなかったこともあり、初めて聴いた時にはこのコンセプトがよくわからなかった。だいたい初めて聴くボウイのアルバムがこれだったわけで、「ジギー・スターダスト」と普段のボウイとの違いもわからない。

その後しばらく経って私はボウイのベスト盤を改めて聴いてみたりして、『ダイアモンドの犬たち』『ロウ』といった他のアルバムを好きになったりしたのだが、相変わらず「ジギー」のことはよくわからない、と思っていた。

 

そんな折、ひとつの転機が訪れる。

以前、とある2.5次元ミュージカルの配信を見る機会があった。(ちなみに言うと「刀剣乱舞ミュージカル」)

その配信を見ている時、特にミュージカル本編が終わった後のフィナーレのショー部分を見ている時に、ふと、「あれ?ひょっとしてジギー・スターダストってこういうことでは?」と閃いたのである。

 

一応説明しておくと、2.5次元ミュージカルとは、生身の俳優が、アニメや漫画やゲームのキャラクターに扮して演じるミュージカルのことである。(ミュージカルではない舞台の場合は「2.5次元舞台」) 2次元のキャラクターと3次元の俳優の中間に成立する表現ということだろう。

そこでは、それぞれの芸名を持って活動している生身の俳優が、架空のキャラクターとして舞台に立ち、役を演じ、歌っている。デヴィッド・ボウイというアーティストが、ジギー・スターダストという架空のキャラクターとしてステージに立つというのも、これと同じような出来事なのではないか。

そう考えた時、私は「ジギー・スターダスト」というコンセプトの意味が、なんとなくわかったように感じた。このコンセプトによって発生する、ボウイというアーティストとジギーというキャラクターの間の距離。そしてその距離によって可能になる表現。

 

舞台俳優が架空の人物を演じるように、ミュージカル俳優は架空の人物として歌う。
ミュージカル俳優の多くは芸名を名乗っているだろう。だからかれらは本名/芸名/役名という三つの層を織り込みながら、ステージで歌っている。

そして2.5次元ミュージカルの場合、かれらが演じるのは2次元のキャラクター、アニメや漫画やゲームの世界から来たキャラクターだ。

デヴィッド・ボウイ/本名デヴィッド・ロバート・ジョーンズもまた、ボウイという芸名でロック・アーティストとなり、その上さらにジギー・スターダストという「宇宙から来たロック・スター」という奇抜なキャラクターを演じた。それは今の感覚で言えば、アニメのキャラクターと同じくらいに突飛なものだったと思う。

1970年代の世界におけるその距離感。本名とは別の名前を名乗ってパフォーマーとなり、さらに奇抜なキャラクターを演じながら歌うこと。そして、それに向けられるファンの視線。

そのような、「ジギー・スターダスト」という出来事。それがどんなものだったのかを、私は2.5次元ミュージカルのフィナーレのショーを見ながら、少しだけ理解した気がしたのだ。

(あとはまあ、2.5次元の中でも例えば有名な「テニミュ」、つまり『テニスの王子様』のミュージカルなどよりは、私が見た刀剣乱舞ミュージカルの方がジギー感があると思う)

 

 

それではここで、ボウイがジギー・スターダストとして出演した伝説のTV放送をどうぞ。

www.youtube.com

 


アルバム『ジギー・スターダスト』の物語
 

一応、『ジギー・スターダスト』というアルバムの内容についても紹介しておこう。
この40分弱のアルバムは曖昧にではあるもののストーリー仕立てになっていて、このアルバム自体が一幕のSFミュージカルのようでもある。

(曲名の和訳は、最初の日本盤発売時のもの)


アルバムは「Five Years(5年間)」という曲で幕を開ける。ニュースキャスターが泣きながら「地球にはあと5年間しか残されていない」と告げ、語り手は瀕死の地球に多様な姿の人々が住んでいるのを改めて知る。きらびやかな衣装を纏ったジギー・スターダストとそのバンドがいるのはこの終末の地球だ。

つづくSoul Love(魂の愛)」では新しい愛の形が歌われ、「Moonage Daydream(月世界の白昼夢)」では「私はアリゲーター/私は宇宙からの侵略者」と名乗る語り手が聴衆を白昼夢の世界へと誘う。そしてヒット曲Starmanでは、空で人々を待っている救世主のような存在が暗示される。

終末を間近にした地球で、人々が世界と魂の大きな変化を予感しながら、そこに宇宙からやって来るスターの存在が見え隠れしている。その後、地べたを這う人々が天国を見上げるような「It Ain't Easy」でA面が終わる。(もともとレコードなのでA面とB面があります)
 
「Lady Stardust」でB面が始まると、ブルージーンズに長い黒髪の、化粧をした男がステージに現れ、バンドとともに一晩中歌い続ける。そして「Star」では、世界を変えることができるロックンロール・スターが夢想される。

ジギーのバンドであるスパイダース・フロム・マーズが登場し、終わりのない演奏と狂騒の日々を歌うような「Hang Onto Yourself(君の意志のままに)」が終わると、ついにクライマックスのZiggy Stardust(屈折する星くず)」が始まる。

「ジギーはギターを弾いた」というフレーズから始まるこの曲は、バンドのメンバーからジギーを見た歌だ。宇宙から来たロックスター、ジギー・スターダストの圧倒的な魅力とカリスマ性が歌い上げられるが、ここにはすでに亀裂の予感がある。メンバーはジギーとの確執を歌う。「あいつの綺麗な手を砕いてしまったほうがいいかな?」

2コーラス目では凋落が始まる。ジギーは自分自身のエゴとセックスし、「らい病のメシア」のように自分の魂にはまり込む。そして何かが起こり、死が告げられ、バンドは解散する。「ジギーはギターを弾いたんだ……」と歌われて曲が終わる。
 

Making love with his ego
Ziggy sucked up into his mind, ah
Like a leper messiah
When the kids had killed the man
I had to break up the band
(「Ziggy Stardust」より)

 
ジギーの死を覆い隠すような激しいロックンロール「Suffragette City」(イギリスの女性参政権獲得運動「サフラジェット」とは直接の関係は無いと思われる)を挟んで、アルバムは最終曲「Rock'n'Roll Suicide(ロックン・ロールの自殺者)」へ。寂寥感と諦念に満ちた始まりから徐々に曲調が盛り上がり、最後には誰かが「君は一人じゃない」と何度も叫ぶ。しかし誰が? ジギー・スターダストはおそらくは死んでしまった。
 
あと5年で終わりを迎える瀕死の地球では、人々が愛とカリスマを求めている。そこにバンドを従え現れたのは、色とりどりの服を着た、美しいロックスター、ジギー・スターダスト。ジギーは人々を魅了したが、しかし自分自身と喰らい合うように堕ちていく。そしてスターがいなくなった世界で、残された誰かが「君は一人じゃない」と叫んでいる──

『ジギー・スターダスト』はそんな物語が曖昧に語られる40分弱のアルバムである。聴いたことがない方は、ぜひ一度聴いてみてほしい。

 

 

※驚くことに、英語版Wikipediaには「ジギー・スターダスト(キャラクター)」の項目がある。

Ziggy Stardust (character) - Wikipedia

※なおこの時期ボウイは「自分はバイセクシュアルである」と公言しており、そのことの是非ついては様々な議論と評価がある。

 

 

次の一冊

pikabia.hatenablog.com

ボウイについて詳しく知りたい方は、以前紹介したこちらの本をどうぞ。

 

もっと買いやすい本としては、音楽関連書の翻訳を多く手掛ける著者によるこちらの新書もお勧めです。

 

pikabia.hatenablog.com

こちらはボウイのドキュメンタリー映画の紹介。

 

奈落の新刊チェック 2024年4月 海外文学・SF・現代思想・歴史・ファンタスマゴリィ・羅刹国通信・暗黒の形而上学・ロシア宇宙主義・サルトル・古代技術・読書と暴動・セカイ系ほか

楽しいゴールデンウィークももう終わりですが、皆様いかがお過ごしでしょうか。本は読めるコンディションの時とそうでない時がありますが、新刊は無情に刊行され続け、ちょっと待ってくれという気もしますがまあ後から読んでも特に差し支えはないかと思われます。読める本も読めない本も一期一会……などと悟ったふうなことを嘯きつつ4月の気になる新刊です。

 

 

創元SF短編賞出身作家の、『感応グラン=ギニョル』につづく第二作品集。

 

2022年に急逝した津原泰水の「幻の傑作」が初の単行本化。2000~2001年に不定期連載された作品とのこと。

 

韓国の国際ブッカー賞作家ハン・ガンによる2021年の長編だが、ちょうど今年フランスの「エミール・ギメ アジア文学賞」を受賞。訳者はおなじみ斎藤真理子。
ハン・ガンの作品についてはこちらもどうぞ。

ハン・ガン『すべての、白いものたちの』 個人と都市の記憶が静かに交錯する詩的な小説 - もう本でも読むしかない

 

 

絶望名人カフカの人生論』で知られる著者の編集によるカフカの短編集が新潮文庫より。編者近著に『食べることと出すこと (シリーズ ケアをひらく)』『イライラ文学館 不安や怒りで爆発しそうなときのための9つの物語』『口の立つやつが勝つってことでいいのか』など。

 

上記編者の監訳による、カフカの日記が新版で登場。

 

ジョイスベケットの後継者とも言われたイギリスの作家による1971年の実験小説。2000年同社から刊行された単行本の復刊。訳者は他にケイト・モートン、ケイト・アトキンソンなど手掛ける。近訳書に『メキシカン・ゴシック』など。

 

新潮文庫からのサガンの代表作のひとつが新訳に。訳者は同文庫の『悲しみよ こんにちは』や『星の王子さま』も手がける。近訳書に『打ちのめされた心は』(サガン)『ロシアの星』など。

 

日本SF作家クラブ編による、現代のSF作家の対談やコラムを満載した最新SF読本が登場。気鋭のSFレーベルKAGUYA BOOKSよりの刊行。
KAGUYA BOOKSを運営するKAGUYA PLANETについてはこちらの記事をどうぞ。

SFファンは「かぐやSFコンテスト」とオンラインSF誌「Kaguya Planet」に注目を!(あと自作宣伝) - もう本でも読むしかない

 

2020年に『連続と断絶: ホワイトヘッドの哲学』でデビューした著者の二冊目。ホワイトヘッドに加えてメイヤスー、ハーマン、ラトゥールなどを参照した哲学のようです。

 

スピノザドゥルーズ研究に基づく大部の哲学書を何冊も刊行してきた著者による新著。近著に『残酷と無能力』『すべてはつねに別のものである:〈身体ー戦争機械〉論』『スピノザ『エチカ』講義: 批判と創造の思考のために』『アンチ・モラリア 〈器官なき身体〉の哲学』など。

 

連合の系譜

編集者としても著名なソシュール研究者・思想史家による1400ページ超えの大著。近著には『エスの系譜 沈黙の西洋思想史』『日本国民であるために: 民主主義を考える四つの問い』など。

 

現代思想・文化研究を中心に多彩な著作のある著者による2016年刊行のガタリ入門が「決定版」となって登場。著者近著に『[増補新版]アーバン・トライバル・スタディーズーーパーティ・クラブ文化の社会学』、訳書にハーマン『非唯物論: オブジェクトと社会理論』、ラマール『アニメ・エコロジー―テレビ、アニメーション、ゲームの系譜学―』など。

 

イタリア未来派と舞踊研究を専門とする著者による、未来派とダンス、そして機械の美学についての本格的な研究書。著者はこれが初の単著となるようです。

 

全体芸術様式スターリン』などで知られる美術批評家・哲学者ボリス・グロイス編による、19~20世紀ロシアの特異な思想・ロシア宇宙主義についての論集。

 

カリブ海のフランス領マルティニーク出身コンビ、グリッサン&シャモワゾーによる文学的マニフェスト集。グリッサンの近著に『マホガニー』、シャモワゾーの近著に『素晴らしきソリボ』など。グリッサンの翻訳を手がける訳者の近著には『環大西洋政治詩学: 二〇世紀ブラック・カルチャーの水脈』『第二世界のカルトグラフィ』などがある。

 

崇高をテーマとしたエドマンド・バークによる美学の古典が平凡社ライブラリー入り。もうひとつの代表作『フランス革命についての省察』も2020年に新訳が出ています。訳者近著に『美学イデオロギー』など。

 

表象文化論の第一人者が明治日本の表象を語り尽くした2014年の大著が三分冊で文庫化。毎月一冊ずつ出るようです。著者の共著『徹底討議 二〇世紀の思想・文学・芸術』も出たばかり。

 

世紀転換期の産業都市とアメリカ文学の成立を、遊園地の描写から読み解く野心的な文芸評論。著者はパトリシア・ハイスミスサスペンス小説の書き方』の翻訳なども手がける。

 

谷崎潤一郎細雪」についての博論の書籍化。著者はなんと1984年に文藝賞を受賞してデビューした作家で、近年は『迷子たちの街』『失われた時のカフェで』などモディアノの翻訳も。

 

こちらも博論本。前期サルトルの哲学に注目し、重苦しい哲学者というサルトル像の刷新を目指す。これが初の著書となる。

 

2002年刊行のヴェイユ研究の定番書が岩波現代文庫化。著者はヴェイユとトーヴェ・ヤンソンの翻訳でも知られる。著者近著に『人と思想 107 ヴェーユ』(Century Books)『ミンネのかけら――ムーミン谷へとつづく道』『ムーミンを生んだ芸術家 トーヴェ・ヤンソン』など。

 

哲学・文学を横断する戦後フランス思想を概観する入門書が中公新書より。著者はこれが初の単著で、訳書に『プロヴァンスの村の終焉(上)』『プロヴァンスの村の終焉(下)』がある。

 

森崎和江の思想に、後にインターセクショナリティと呼ばれることになるものの萌芽を見る。著者の共著に『軍事的暴力を問う』、共訳書に『ジーザス・イン・ディズニーランド (ポストモダンの宗教、消費主義、テクノロジー)』がある。

 

多数の著書のある刑法の専門家による刑法入門がちくまプリマー新書より。著者近著に『刑法総論 第5版』『刑法各論 第4版』『刑法の考え方〔第3版〕』など。

 

60年代から岩波書店で出版を手掛け、84年には雑誌『へるめす』を創刊した編集者と、より若い世代の同じく元岩波書店編集者が近代思想史について語る。著者らの近著に『津田青楓: 近代日本を生き抜いた画家』『哲学者・木田元: 編集者が見た稀有な軌跡』『なぜ友は死に 俺は生きたのか ─戦中派たちが歩んだ戦後─』など。

 

19世紀~20世紀に活躍した古典学の権威による、古代ギリシアの科学技術について語った古典がちくま学芸文庫で復刊。なんと初版は1947年。訳者は科学史についての著書も多い。近年復刊した訳書に『魔法: その歴史と正体』『復刻版 ギリシア数学史』など。

 

何かとわかりづらい神聖ローマ帝国の注文書が中公新書で登場。ドイツ史を専門とする著者の近訳書に『中世ヨーロッパ社会の内部構造』などがある。

 

第二次世界大戦最後の戦争である日ソ戦争についての、300ページ超えの中公新書。著者近著に『蔣介石の書簡外交 上巻: 日中戦争、もう一つの戦場』『下巻

日露近代史 戦争と平和の百年』『ソ連と東アジアの国際政治 1919-1941』など。

 

日本未公開映画の配給を行うグッチーズ・フリースクールによる、『USムービー・ホットサンド ──2010年代アメリカ映画ガイド』に続く映画本。今回は女性と映画がテーマ。

 

プーチン体制下のロシアで常に批判的活動を行ってきたパンクバンドにしてアクティヴィスト集団プッシー・ライオットの全貌を創設メンバーが語る。訳者は音楽・アート関連の翻訳が多く、近訳書に『NAÏVY』『女パンクの逆襲──フェミニスト音楽史』『社会を変えた50人の女性アーティストたち』デヴィッド・バ-ン『音楽のはたらき』、近著に『野中モモの「ZINE」 小さなわたしのメディアを作る』など。

 

批評同人誌が話題となった著者による、改めての「セカイ系」批評。商業出版ではこれが初の著書。

 

ではまた来月。

スティーブ・ロジャースはなぜ困った顔をしているのか 生贄としてのキャプテン・アメリカ

MCUキャプテン・アメリカについてまとめてみる

 

マーベル公式サイトより

 

なんとなく、どこかの時点で自分にとってのMCUについてまとめておこうと思っていて、しかしずっと継続して作品が出てくるのでまとめるタイミングが難しかったのだが、最近自分の中でちょっと一段落した気がするので書いてみる。

念のため説明すると、MCUというのはマーベル・シネマティック・ユニバースの略で、2008年の『アイアンマン』から続く一連のアメコミ映画のシリーズのことだ。

私にとってのMCUは主にキャプテン・アメリカなので、今回はその話になる。作品で言うとアベンジャーズ/エンドゲーム』までが範囲となり、後日談として『ファルコン&ウィンターソルジャー』の話も少し出てくる。

 

さて、MCUキャプテン・アメリカについてはすでに千言が費やされていると思うので、ここではこのキャラクターの概要や全体像よりも、本当に個人的な興味の行先について書きたいと思う。

いや、興味という言葉は少し婉曲的にすぎるかもしれない。もっと正直に、キャプテン・アメリカに向ける欲望と言うべきだ。

 

ヒーローとは何か

 

アメコミ映画というのはヒーローの映画なのだが、考えてみれば、「ヒーロー」というのは人々の欲望の向かう先だと思う。誰かをヒーローと、英雄と名指した瞬間から、私たちと彼らの間には圧倒的な非対称性が発生する。私たちはヒーローに期待し、彼らを欲望し、彼らを消費するだろう。それは「ヒーロー」の語源である、古代ギリシアの半神の英雄(ヘロス)たちの頃から同様だと思う。ヒーローというのはその起源から、私たちのための生贄なのだ。

そして私はこの、「ヒーローを見たいという私たちの欲望」という要素は、「ヒーロー論」を語るうえで必須の前提だと考えている。

(そのように考えると、「等身大のヒーロー」「共感できるヒーロー」のような概念を求めてしまう私たちの願望はなおさら業が深いと思う)

そのようなヒーロー性を、MCUにおいて最も色濃くまとっていたのがキャプテン・アメリカだったはずだ。

 

スティーブ・ロジャースの困り顔

 

キャプテン・アメリカことスティーブ・ロジャースは、いつも困った顔をしている。
それはたぶん、自分でももてあますほどの力、そこまでは望んでいなかったほどの力を得てしまったことに対して困っている顔だと思う。

それは、具体的な腕力や戦闘力のことだけではなく、彼がその身にまとわされた象徴的な力のことでもあるだろう。

というか、キャプテン・アメリカの力というのは、そもそもその大部分が象徴的な力であると思う。

 

もとよりMCUの世界において、「強さ」の比較というのは非常に大雑把なものなのだが、中でもキャプテン・アメリカの強さというのは不思議なものだ。

設定上、彼のヒーローならではの特殊能力というのは、「超人血清」を注射されたことによって得た、純粋に肉体的な能力である。要するに、「単にフィジカルが強い人」だ。

そのようなキャプテン・アメリカが、全身これ最新兵器のアイアンマンや、神話的世界からやって来た神であるソーや、なんでもできる魔法使いドクター・ストレンジや、巨大化できるアントマンなどと肩を並べて戦うというのは、冷静に考えるとおかしい。

そのようなことはヒーロー映画の、ひいてはアメコミの「お約束」なのであって、いちいち気にするべきではない、というのはその通りだろう。別に私も気にしていない。

そういう話ではなく、その「お約束」を成立させる力そのものが、つまりキャプテン・アメリカの「象徴的な力」なのだと言いたいのだ。

キャプテン・アメリカが振るうのは、象徴としての力である。彼は象徴としての力が誰よりも強いがゆえに、どんな強敵とも戦うことができる。そしてキャプテン・アメリカの映画とは、その象徴としての力を成立させるための装置であり、その力のために全てが演出されていると言ってもいいだろう。

 

わかりやすいエピソードがある。雷神ソーが持つハンマー「ムジョルニア(ミョルニル)」は、ソー以外には持ち上げることすらできない。アベンジャーズの面々が集まったパーティーで、力自慢のヒーローたちが持ち上げようと試みるのだが、ムジョルニアはびくともしない。しかしスティーブが力を込めると、それはピクリとほんの少しだけ動き、ソーは一瞬、驚愕の表情を見せる。このシーンは伏線となり、後に「エンドゲーム」のクライマックスにおいて、スティーブはこのムジョルニアを振るって宿敵サノスと戦うことになるだろう。

この、「ムジョルニアはソー以外には持ち上げることができない」という概念は、もちろん重さの問題ではない。このハンマーはソーのためだけにある、ソーにのみ使用を許された武器ということなのだが、ソーがムジョルニアに対してもつそのような神話的な権威・正統性に匹敵する象徴的な力を、キャプテン・アメリカは有しているということだ。

 

そのような、キャプテン・アメリカことスティーブが持っている象徴としての力の内実とは何なのか、一体彼は何を象徴しているのかということになれば、いろいろな解釈があると思う。

それはまず第一には、もちろんアメリカ」だろう。それも現実のアメリカというよりは、理念としての「アメリカ」だと思う。そのことは、ひいては彼をアメリカン・コミックのヒーローそのものの象徴にもするだろう。

あるいは、それは「ヒーロー映画」なのかもしれない。MCUの映画は、ヒーロー映画というジャンルそのものの力をキャプテン・アメリカに代表させるように作られている、という言い方もできるだろう。

 

とはいえ、キャプテン・アメリカが何の象徴なのかを考えるのはここでの目的ではない。ここで言いたいのは、とにかくキャプテン・アメリカの力というのはそのような抽象的な力であり、だからこそそれは映画の中でもっとも強大なのだということだ。

スティーブ・ロジャースとは、そのように強大な、個人の手にあまる力の受け皿となってしまった人物であり、だからいつも困った顔をしているのだ。

 

受肉した力

 

ティーブが持たされた象徴的な力は、その身体ひとつに宿っている。金髪碧眼の、筋骨隆々たる体躯。星条旗をあしらった衣装と盾。

彼はアベンジャーズのリーダーだが、アベンジャーズは決して彼の身体の延長ではないと思う。彼の象徴的な力、私たちが彼に持っていてほしいと望む力は、ただ彼の肉体のみに流れ込む。だから彼は常に戦場の最前線に立って、その身ひとつであらゆる敵と戦っていなければならない。

私たちが見るのは、見たいと望んでいるのは、彼の肉体の躍動であり、その躍動に象徴的な力が宿っているさまだ。理念としてのアメリカの力、望ましいものとしての正義の力、古代から受けつがれる英雄の力が、キャプテン・アメリカのうちに受肉するのを私たちは欲望する。その時、そこにスティーブ・ロジャースという個人はいるのだろうか。私たちはたぶん、いてほしいと望んでいる。巨大な象徴的な力を体現しながら、しかも自律した個人であってほしいと望んでいる。なんという暴力であろうか。

この時、スティーブはすでに困った顔をしていない。いざ戦いが始まれば、彼は唇を引き締め、決然と敵に向かうだろう。象徴としての力を、その受け皿であることを受け入れたのだ。私たちはその顔を見て歓びを感じ、自分自身が正義の側にいると感じる。

 

正義と言えば、古典的なヒーローであるキャプテン・アメリカというキャラクターへの批判的な観点もまた、MCUにはもちろん組み込まれている。金髪碧眼の健康なシスジェンダーヘテロセクシャルの白人男性という圧倒的なマジョリティの表象が、もはや現代の正義を代表して戦うヒーローとして相応しくないということを本人たちもわかっていて、それもまた、スティーブが常に困った顔をしている理由のひとつかもしれない。

そもそも、言うまでもないことだが「アメリカ」と「正義」の結びつき自体が批判されるべき最たるものなわけで、キャプテン・アメリカという古色蒼然たるヒーローは決してストレートに成立するものではない。シリーズの一作目『ザ・ファースト・アベンジャー』で描かれるように彼はもともと戦意高揚・国威発揚のためのマスコットであった。そのような屈託を抱えつつ、スティーブ・ロジャースは常に、仕方なくヒーローをやっているのだ。

そう考えると、キャプテン・アメリカの武器が「盾」であることは意味深長だ。それは本来は武器ではなく、飽くまでも防具であり、キャプテン・アメリカの装備は建前上は防衛のためにある。

専守防衛のための、星条旗をあしらった盾。世界最強の金属ヴィブラニウムで作られたその重く頑丈な盾が、圧倒的な力で投げられ、飛来する。アメリカを象徴する図像を持った最強の防具による物理的攻撃、というのはなんともシニカルなヒーローの必殺技だ。

 

しかし実際のところ、私たち観客にとって最も印象的なアクションは、盾を投げるキャプテン・アメリカの姿だろう。

筋骨隆々たるスティーブ・ロジャースが、古代ギリシア円盤投げ像のように、大きく振りかぶって盾を投げる。敵に命中した盾は、時にまっすぐ、時に弧を描いて戻ってくる。スティーブはその盾を、その重みを全身の筋肉で受け止める。

キャプテン・アメリカの象徴的な力、MCU映画の中でもっとも強大な力が宿るのは、そのようなアクションのうちにだ。であればこそ、後日談となる『ファルコン&ウィンターソルジャー』において、その盾を受け継いだファルコンことサム・ウィルソンは盾を投げる訓練に明け暮れるだろう。

そのような、キャプテン・アメリカの姿。常に口を半開きにして困った顔をしていたスティーブ・ロジャースが唇を引き締め、その身にまとわりつく矛盾を受け止めながらも振り捨て、身を守るはずの盾を力に任せて投擲し、そして戻ってきたそれの重みを受け止める姿。それをスクリーンに見るとき、私たちはある巨大な力がその姿のうちに受肉するのを感じる。そしてそれは、ほかならぬ私たちがそれを望むからだ。私たちの視線が、期待が、欲望が、スティーブという個人の肉体へと神話の力を流し込む。それを呼び込み、受け止めるに足る肉体とアクションを、MCUキャプテン・アメリカはスクリーンに映し続け、そして私たちはそれを享受し、夢を見ていた。

それは正義の夢であり、アメリカの夢であり、ヒーローの夢だ。それは私たちが見たいと望んだ夢であり、そしてそれは、私たちのスティーブ・ロジャースの肉体への欲望と深く結びついていたと思う。

そのような意味で、キャプテン・アメリカは私たちに捧げられた生贄であり、彼はその力を消尽してスクリーンから姿を消した。『エンドゲーム』の最後のカットは、償い切れない犠牲を彼に強いた私たちの罪悪感を、ほんの少し和らげるためにあったのかもしれない。

 

 

 

※ここに書いたようなことを、製作側もかなり自覚しているんだな、と感じたシーンがある。『エンドゲーム』で過去に戻ったスティーブが自分自身と戦って倒し、倒れている自分自身の尻を見るシーンだ。

過去のスティーブのヒーロースーツの尻を見たトニー・スタークとスコット・ラングが、「ケツがよくない、ダサい」「いや、かっこいいよ。〈アメリカのケツ(America's ass)〉って感じ」などと論評するのを受けてのシーンなのだが、ここでスティーブは、倒れた自分自身の尻をまじまじと見て、「〈アメリカのケツ〉か(That is America's ass)」とひとりごちる。

言うまでもなく、この「アメリカのケツ」という概念こそ、スティーブ・ロジャースの肉体によって象徴的に表現された、理念としてのアメリカを指すものである。

 

次の一冊

pikabia.hatenablog.com

私たちの生贄としての身体ということであれば、やっぱりこの本をご一読ください。

 

 

(追記)
この記事、完全にMCU映画をすでに見ている方に向けて書いておりましたが、未見の方が読まれるころもあるかもしれないと今さら思い、お勧めタイトルを追記します。

キャプテン・アメリカが出てくるMCU映画を見たいという方は、とりあえず以下のうちどれかを見てみるのが良いかと思います。

個人的に一番好きなのは『キャプテン・アメリカ/ウィンター・ソルジャー』です。
あまり細かいことを気にされない方であれば、いきなりこれを見てしまっても大丈夫です。

波戸岡景太『スーザン・ソンタグ 「脆さ」にあらがう思想』 知性とバッシングが衝突する地点で考える

一味違うソンタグの入門書

波戸岡景太スーザン・ソンタグ 「脆さ」にあらがう思想』は、ソンタグの著書『ラディカルな意志のスタイルズ』の翻訳も手がけた著者による、ソンタグ入門として書かれた新書だ。

スーザン・ソンタグは1933年に生まれ、2004年に没したアメリカの批評家にして作家である。『反解釈』『写真論』などの著書で特に知られ、またベトナム戦争から9・11に至るまで、社会問題についても積極的な発言を行っていたという。また60年代のデビュー時にはスター的な存在となり、さらにその私生活は波乱万丈で、世間のゴシップ的な興味を常に掻き立てるものだった。

私はソンタグの本を数冊読んだことがあり、この著者の書いたものについてもっと知りたいと思って本書を手に取ったのだが、しかし実際にはこの本は、私が期待していた「入門書」とは少し違うものだった。

多くの読者は、有名な著者についての入門書を読む際に、その著者の人生や代表作の内容についての過不足ない要約を期待するのではないだろうか。しかし本書はまず、ソンタグという著者に向けられていた「誤解と偏見」についての話から始まる。

 

知性とバッシングが衝突する地点

 

本書の著者はまず、ソンタグという人物が、いかに大きなバッシングに遭ってきたかという点に触れる。

その最大のものは、晩年である2001年、9・11の直後に起こった。その時ソンタグは、事件から一週間と経たないタイミングで、テロリストではなくアメリカを批判したのだ。

またその死後においても、ソンタグの伝記的事実や私生活のゴシップがたびたび掘り起こされ、その度にバッシングが起こっているという。近年にはソンタグ──その生涯と仕事』と題された評伝がベストセラーとなり、その話題は尽きることがない。

著者はソンタグという人物の「知性」のあり方について考える際に、これらの出来事を無視することはできないという立場をとる。私生活が死後にもゴシップ化する一方で、鋭敏な警句に満ちたソンタグの文章は、今も多くの場で引用され続けている。著者はそのことを、ソンタグの文章がもともとの文脈から外れ、機械の部品のように利用されている(マシーン化している)とする。

 

かくして、ゴシップ化する私生活と、マシーン化するその知性は、ソンタグの意志や感情や苦痛や快楽といった、まさしく生身の人間の抱える限界と責任を置き去りにするかたちで、世の中におけるスーザン・ソンタグ像を作り出してしまった。
もちろん、こうした身体性と知性の分離は、なにもソンタグに限ったことではなく、およそ偉人と呼ばれる存在を語り継ぐ際には、避けて通れないことではあるのかもしれない。
だが、本書がここにあえて語ってみたいのは、知性とバッシングが絶えず衝突する地点に立ち続けたソンタグが、その虚実のあわいでいったいどのようなことを考え、どのような人生の指針を打ち立ててきたかということ──すなわち、その「挑発する知性」の成り立ちについてなのである。
(「第一章 誰がソンタグを叩くのか」より)

 

つまり、「ソンタグの思想の、面白いところをかいつまんで知りたい」という私のような読者をも、本書は挑発しているのである。そのような態度は、ソンタグという人間が苦闘とともに練り上げた「知性」を、評価の定まった、安全な知識として活用したいという都合のいい態度にすぎないのだと。

このように本書は読者を、ソンタグが立っていた「知性とバッシングが絶えず衝突する地点」に巻き込もうとする。そのような方法によってしか、ソンタグの「知性」の姿はとらえられないというのが著者の態度なのだ。

 

「脆さ」と「苦痛」にまつわる思考

 

本書は、ソンタグの代表作の数々を読み解きながら、同時にソンタグ自身の人生、そしてそれに対する世間の反応を語っていく。

それはとても平易な言葉で書いてはあるものの、とても複雑な行程だ。著者はソンタグの思想をいくつかのキーワードに代表させつつ、それがどのように成立しているのかを、著作の中の記述と現実世界での出来事の間を行きつ戻りつしながら語る。

ソンタグを一躍有名にした、「キャンプ」という価値についての分析。写真や映像の役割や効果についての鋭利な批評。癌に冒されたことをきっかけとする、病の隠喩への批判。レニ・リーフェンシュタール三島由紀夫にまつわるファシズムの美学の分析。

このようなソンタグの著名な仕事の数々が、本人の人生と、その世間における語られ方と常に関連付けられる。読者はソンタグの「知性」の産物を落ち着いて楽しむことを許されず、むしろ常にその危うさと直面させられるかのようだ。

 

本書の大きなキーワードのひとつが、副題にもある「脆さ(ヴァルネラビリティ)」である。

 

ソンタグがその生涯をかけて探求してきたテーマは、端的に言って、人間存在が抱える「脆さ」(ヴァルネラビリティ)と、それが表出する際に身体と精神を襲う「苦痛」(ペイン、サファリング)であった。そしてそれは、機械と人間という二項対立が揺らぎを見せる場所──たとえば写真や映画──においてはっきりと観察されるものであり、だからこそソンタグは、時代を何歩も先取りするかたちで、メディア空間を生きる私たちの「生」を論じてきたのである。
(「第二章 「キャンプ」と利己的な批評家」より)

 

そしてそのテーマは、前述のような長い紆余曲折を経て、より繊細な言葉で語られる。

 

「人間の脆さとはなにか」であるとか、「それを暴き立てる暴力の本質とは何か」といった問題設定も、ソンタグによっては魅力的なものではあったのかもしれない。だが、そうした真理の探求めいた議論よりも、ソンタグはむしろ、「死すべき運命にあるもの同士は、芸術のどのような表現活動を通じて、いかにして互いの存在にアプローチしているのか」といった、不可逆的な時の流れに身をさらしている者たちの関係性を明らかにする議論を好んだ。
つまり、たとえば写真を撮る者と撮られる者がいたとして、そこには確かに非対称な関係があるのだろう。しかし、その関係性をただ問題視すればよいかといえば、そうではないはずだ、というのがソンタグの立場なのである。もちろん、一度ならず、二度三度その関係性を転倒させてみることは大事だろう。だが、そうやって「関係性」というものそれ自体をためつすがめつ眺めてみたならば、私たちはきっとそのどちらが本当に強いのか、分からなくなるはずなのだ。
(「終章 脆さへの思想」より)

 

一足飛びに終章を引用してしまったが、この本にとって(あるいはソンタグにとって)重要なのは、この終章にたどり着くまでの過程だと思う。危うく、落ち着かない知性の遍歴に戸惑いながら、ぜひその過程を体験してみてほしい。

 

次の一冊

pikabia.hatenablog.com

ソンタグの代表作のひとつについて、内容を紹介した過去記事。この本では、新聞やテレビで流通する、戦争や災害の写真・映像とどのように向き合えばいいのかという問題が扱われている。

 

pikabia.hatenablog.com

この記事で紹介した本も、ある批評家の仕事を、単純な紹介ではない形で記述した本と言える。今回紹介した本と通じる部分があると思う。

 

そのうち読みたい

 

著者の近著いろいろ。

ジーン・ウルフ『デス博士の島その他の物語』 謎に満ちた語りと美しい文章に魅せられる技巧派SF短編集

未来の文学」シリーズの定番短編集

 

以前このブログでジーン・ウルフの傑作SFケルベロス第五の首』(およびそれを含む国書刊行会未来の文学」シリーズ)を紹介したことがあるが、同シリーズから出ている、同じくジーン・ウルフの短編集『デス博士の島その他の物語』が重版されたという知らせが届いた。

 

 

これは2006年に刊行されたハードカバーの本で、遠からず刊行20年を迎えることになるが、そのような本が判型を変えることもなく版を重ねているというのはとても稀有なことだと思う。この本が(そして「未来の文学」シリーズが)より多くの読者を得られることを願って、当ブログでも紹介することにする。

 

以前の記事はこちら。

pikabia.hatenablog.com

 

ジーン・ウルフは1931年に生まれ2019年に没したアメリカの作家で、1965年にデビューし、多くのSF、ファンタジーを発表した。日本ではファンタジー方面の代表作新しい太陽の書シリーズが1980年代に翻訳されていたが、現在における人気を決定づけたのは、「未来の文学」シリーズから刊行された前述の長編ケルベロス第五の首』(1972年発表)、そして70年代に書かれた短編を集めたこの『デス博士の島その他の物語』の二冊だと思われる。70年代に書かれた作品群が今世紀に紹介され、多くの新たな読者を獲得したというわけだ。

(「未来の文学」シリーズは、他にも多くの過去の作品をこのように紹介してくれている)

 

 

ではこの短編集に収録された作品群を紹介しよう。

中核をなすのは、「島シリーズ」などと呼ばれる一連の中短編群だ。

 

  • The Island of Doctor Death and Other Stories 「デス博士の島その他の物語」
  • The Death of Doctor Island 「アイランド博士の死」
  • The Doctor of Death Island 「死の島の博士」

 

よく見てもらえばわかる通り、これらの作品の題名は全て、「死」「島」「博士」の三語を並び替えて作られたものだ。

と言っても、これらの作品はそれぞれ完全に独立したもので、内容については互いに何の関係もない。また、最初からこの三作が計画されていたわけでもなく、順番に「じゃあ次は……」と書かれたものらしい。このような遊び心に満ちた、あるいは冗談みたいな題名で、しかしいずれも劣らぬ傑作を書いてしまうところがジーン・ウルフの恐ろしさなのだ。

 

「デス博士の島その他の物語」

それぞれ簡単に内容を紹介しよう。この表題作の主人公(主人公だが、地の文によって「きみ」と呼び掛けられる)はタックマン・バブコックという少年だ。タックマンは母親と二人で海辺の古い家に暮らしているが、母親と周囲の大人たちは様々な問題と思惑を抱えている。

印象深い書き出しを引用しよう。

 

落ち葉こそどこにもないけれど、冬は陸だけでなく海にもやってくる。色あせてゆく空のもと、明るい鋼青色だった昨日の波も、今日はみどり色ににごって冷たい。もしきみが家で誰にもかまってもらえない少年なら、きみは浜辺に出て、一夜のうちに訪れた冬景色のなかを何時間も歩きまわるだけだ。砂つぶが靴の上を飛び、しぶきがコーデュロイの裾を濡らす。きみは海に背をむける。半分埋まっていた棒をひろい、そのとがった先っぽで湿った砂の上に名前を書く。タックマン・パブコック、
それから、きみは家に帰る。うしろで大西洋が、きみの作品をこわしているのを知りながら。

(「デス博士の島その他の物語」より)

 

 

孤独と寄る辺なさの中で生きるタックマンは、手に入れたパルプ小説「デス博士の島」に夢中になる。不穏な日々の中で、やがて小説の登場人物たちが少年のもとを訪れるようになる。逞しいランサム船長や獣人のブルーノ、そして妖しくも美しいデス博士

やがて少年の生活には大きな事件が訪れ、その中でタックマンは、もう本の続きを読みたくないとデス博士に告げる。本を読み終われば彼らは去ってしまうからだ。それに応えるデス博士の言葉は、多くの読書家の心に刻まれた名文句となっている。ぜひ読んで確認してほしい。

 

さて、このようにまとめるとごく単純な話に思えるし、実際そのように読むこともできるのだが、しかしジーン・ウルフは厄介な作家として知られている。

ウルフの小説はほとんどの場合「信頼できない語り手」によって語られており、その描写は多くのことを隠し、また複雑な含意を持ち(あるいは持っているように見え)、多くの事柄が曖昧な謎のままにされる。

しかし、それは決してウルフが曖昧な小説を書く作家という意味ではない。むしろその小説は飽くまでも緻密に構成され、しかしその全貌を書かない、という方法で成り立っているのだ。

この「デス博士の島その他の物語」に対しても多くの読解が行われているので、興味のある向きは調べてみてほしい。

 

いずれにせよこの短編は、孤独な少年にとっての読書の意味だけでなく、作中作として書かれるH.G.ウェルズ(「モロー博士の島」)へのオマージュと、そのような古典冒険小説とその後の時代との対比、また70年代のアメリカ社会、特にドラッグ・カルチャーが残したものの明暗、といった様々な要素が、凝りに凝った技巧によって盛り込まれた傑作だと思う。

 

「アイランド博士の死」

島シリーズ二作目のこちらは、ネビュラ賞ローカス賞を受賞している。

舞台は打って変わって、木星軌道上にある小さな人工星。その閉鎖空間内に作られた島は、ある種の医療施設として、「病気」とされた人々を収容している。

この島へ送り込まれた少年ニコラスに、波や風の音、あるいは鳥や動物の声を使って何者かが話しかける。その言葉の主こそはこの人工島そのもの、この医療施設そのものであり、自らを「アイランド博士」と名乗る。

この中編では、少年ニコラスの奇妙だが理にかなった振る舞いや、互いを探るようなアイランド博士との対話、そして宇宙に浮かぶ人工島の豊かな自然とそれを取り巻く機構の姿とが、美しく流麗な文章で描かれる。ジーン・ウルフは非常な名文家でもあるのだ。

 

地面はかなり急傾斜の登りになった。とある林間の空地で少年は立ちどまり、後ろをふりかえった。 今、その下をくぐって登ってきた密林が、池の面をおおう藻のように緑の膜を張り、そのむこうに海が見える。左右の視野はまだ葉むらにふさがれ、行く手にはまばらに木の生えた草地が、(少年は気づかなかったが、ちょうど彼が最初にくぐり出てきた四角な砂のハッチのように)斜めに立てかけられたかたちで、見えない頂上に向かって険しくのびている。足もとでほんのかすかに山腹がゆれているような気がした。とつぜん、少年は風に問いかけた。
「イグナシオはどこだ?」
「ここにはいない。もっと浜の近くにいる」
「じゃあ、ダイアンは?」
「きみがおいてきた場所にいる。このパノラマが気にいった?」
「きれいだけど、地面がゆれてるみたいだ」
「そのとおり。わたしはこの衛星の強化ガラスの外殻に、二百本のケーブルでつなぎとめられているが、それでも潮の干満と海流がわずかな振動をわたしの体に伝えてくる。この振動は、いうまでもなく、きみが高く登るにつれて大きくなっていく」

(「アイランド博士の死」より)

 

人工の自然の中で、ニコラスはイグナシオという青年、ダイアンという娘と出会う。彼らもまたこの島で治療されている者たちだ。読者はニコラスとともにこの謎めいた人工島を探検し、アイランド博士と対話し、二人の人物に恐る恐る近づいて、自分と世界の有様を探っていくことになる。

ここでも作者の企みは冴えわたり、読者は美しい文章に酔いながら、少しずつこの島の秘密を知っていく。そして最後には残酷な事実が明らかにされ、ニコラスと読者はともに置き去りにされるかのようだ。描写と叙述の力をこれでもかと駆使して語られる、残酷な物語である。

 

「死の島の博士」

私にとって最も謎めいているのはこの三作目だ。正直言って、何が書いてあるのかしっかり読めている自信はない。

今作の主人公もまた閉じ込められている(ちなみに、以前紹介した長編『ケルベロス第五の首』の主人公の一人も幽閉されていた)。殺人罪終身刑となり、末期ガンに罹患したことにより40年間の冷凍睡眠処置をされていたアランが目覚めるところから物語が始まる。40年後の世界では人々は老いを克服し、事実上の不死を獲得していた(事故や怪我によっては死ぬ)。

アランはかつて発明家で、本の表紙に回路を埋め込むことにより「スピーキング・ブック」を生み出した。現在この種の本は世界を席巻し、本はもはや読むものではなく、会話しながら聞くものとなっている。アランが殺したのは、この事業のパートナーだった。

 

物語は、アランが収容されている刑務所病院の様子、40年後の未来世界の有様、そしてアランの過去などの要素が、行きつ戻りつしながら、少しずつ語られる。叙述は一直線には進まず、情報は小出しにされ、この世界は何なのか、一体アランに何が起こったのか、ほんの少しずつしか見えてこない。

病院の用務員やカウンセラー、謎めいた医師、生き長らえていた妻などの登場人物が意味ありげに登場し、それぞれ印象的な形でアランと関わっていく。いまだ終身刑のなかにある自分の行く末を、何故かアランは楽観しているようだ。

やがて外の世界では、スピーキング・ブックにまつわるある異変が起こり始める──

 

こうやって概要を書き起こしていても、「あの描写は何だったのか?」「あの人物は結局何物だったのか?」「このシーンでは何が起こっていたのか?」などと疑問がどんどん出てくる。

しかし、それは決して不満ではない。むしろさらに興味をかき立てられ、すぐにでも再読したい気分になってくる。このような読後感は、ウルフのほとんどの作品に共通するものだ。

 

その他収録作と、必読の「まえがき」

この短編集には、上記三篇のほかに、文明崩壊後のアメリカを舞台にしたアンチ・ミステリ的なSFアメリカの七夜」オズの魔法使いを題材にした、目が見えない少年の冒険譚「眼閃の奇跡」の二篇の中編を収録している。これらもまたたいへんに印象深い傑作で、なんなら別の記事で紹介したいほどだ。

そして本書の冒頭には、上記「島シリーズ」三作が書かれた経緯を語る「まえがき」が収録されているのだが、実を言うとこの「まえがき」も大きな読みどころだ。意外な経緯を面白おかしく語りつつ、あっと驚くような仕掛けが、この「まえがき」自体に仕込まれているのだ。洒脱としか言いようのないこの仕掛けを、ぜひ味わってもらいたい。

 

久しぶりにこの中短編集を読み返したが、あらためて読むとジーン・ウルフの作品には、いかにもニューウェーヴSFという感じの捻りや実験精神、スタイルへの野心とともに、オーセンティックな、大文字の「文学」への帰依のようなものを感じた。ニューウェーヴ的なものと、もっとエスタブリッシュメントとしての文学的なものの同居と言おうか。(もともとニューウェーブSFは、大衆小説としてのSFから離れ、現代文学との同時性を目指したジャンルでもあるのだが)

ウルフはSF、ファンタジーの枠を超えて、「現在最高の英語作家」と称されたこともあるというが、その理由はこのあたりにもあるのだろうか。

(またウルフは、「カトリックの作家」として語られることも多い。ウルフの小説のカトリック的な要素というのも気になる話題だ)

 

次の一冊

 

同じく「未来の文学」シリーズから出ている短編集。こちらはより短い作品が集められており、比較的気軽に読める。収録された短編全てが、何らかの記念日にちなんだものとなっている。

 

こちらはウルフの長編。アメリカに住むとある老人の回想という体裁の小説なのだが、長編だけあって謎の量も段違いに多く、読者はひたすら眩惑され、今読んでいる文章に何か隠された意味があるのではないかと疑いながら読むことになる。私も一読後、他の人の読解を見て驚愕しながら読み返した。

 

 

 

奈落の新刊チェック 2024年3月 海外文学・SF・現代思想・哲学・嘘つき姫・ブルックナー譚・見ることの塩・少女小説とSF・アンチ・ジオポリティクス・ゾンビの美学・ピラネージほか

暑くなったり寒くなったりしつつ早いもので世の中は新年度ですが、まだまだ旧年度の新刊が睨みを利かせています。年度の切れ目など、人類そして宇宙の歴史の前では何の意味も持たぬ区切りにすぎない……人類の営みとは……などと紋切り型の詠嘆をたわむれに捻りつつ、2024年3月の気になる新刊をどうぞ。

 

2020年より、SFを中心とした様々なコンテストに入賞してきた新鋭の初の単行本が登場。岸本佐知子小山田浩子・斜線堂有紀という豪華作家陣が推薦コメントを寄せている。

 

今年2月に『東京都同情塔』で芥川賞を受賞した作者の、昨年の野間文芸新人賞受賞作が前後して単行本化。

 

2022年に芥川賞候補となった筋トレ小説が文庫化。昨年の『我が手の太陽』も芥川賞候補。

 

2012年に刊行された金井美恵子の話題作が満を持しての文庫化。

 

小説、評論、アンソロジストとして活躍する高原英理による、作曲家ブルックナーの「評伝と小説のハイブリッド」とのこと。同著者についての過去記事はこちら↓

高原英理『ゴシックハート』 抑えた筆致で語る、反逆の美意識 - もう本でも読むしかない

 

なんと、新潮文庫安部公房に新刊が登場。比較的近年に発見された初期作などを集めたもののようです。

 

アンゴラ生まれのポルトガル人作家による移民小説。訳者はパウロ・コエ-リョやジョゼ・サラマーゴなど手掛け、近訳書にアグアルーザ『過去を売る男』サラマーゴ『象の旅』など。

 

レムのメタ・ミステリと不条理小説を合わせて収録した、ファンには嬉しい一冊。訳者は同シリーズのレム『FIASKO‐大失敗』のほか、アダム・ミツキェーヴィチ『コンラッド・ヴァレンロット』など手掛ける。

 

パレスチナ生まれの詩人ダルウィーシュの詩集が、四方田犬彦訳でちくま文庫より刊行。エドワード・サイードにも影響を与えた詩人とのこと。

 

 

続いて、2005年に刊行されていた四方田犬彦の『見ることの塩 パレスチナセルビア紀行』が二分冊で河出から文庫化。タイトルがそれぞれ「イスラエルパレスチナ紀行」と「セルビアコソヴォ紀行」に変更になっている。著者近著に『人形を畏れる』『サレ・エ・ぺぺ 塩と胡椒』『いまだ人生を語らず』など。

 

博士論文をもとにした、本格的なミラン・クンデラ研究。著者はこれが初の著書となる。共訳書に『美術館って、おもしろい! 』アンナ・ツィマ『シブヤで目覚めて』。

 

現代の映画におけるシェイクスピアの翻案を辿りつつ現代人のルネサンス的心性を探る本のようだが、最初に取り上げられるのがなんと『エイリアン:コヴェナント』。著者には他に『パブリック圏としてのイギリス演劇: シェイクスピアの時代の民衆とドラマ』、訳書にラロック『シェイクスピアの祝祭の時空 エリザベス朝の無礼講と迷信』など。

 

世代を超えて集まった少女小説作家によるSFアンソロジー日本SF作家クラブ、嵯峨景子編。編者の近著には『氷室冴子とその時代 増補版』『少女小説を知るための100冊』などがある。

 

日本SF精神史【完全版】』著者による、70~80年代のものを中心としたSF少女マンガの歴史。著者近著に『萩尾望都がいる』『独身偉人伝』『日本回帰と文化人 ――昭和戦前期の理想と悲劇』など。

 

地政学ブーム喧しい中、「反地政学」のタイトルを持った大著が登場。著者はこれが初の単著となる。これまで『交差するパレスチナ: 新たな連帯のために』『惑星都市理論』などの論集に参加、訳書にメッザードラ『逃走の権利: 移民、シティズンシップ、グローバル化』、共訳書にベラルディ『ノー・フューチャー: イタリア・アウトノミア運動史』など。

 

博士論文をもとにした本格ゾンビ研究。著者の初の著書となる。参加論集に『ヒューマン・スタディーズ 世界で語る/世界に語る』『モダンの身体: マシーン・アート・メディア』、共訳書にブライドッティ『ポストヒューマン 新しい人文学に向けて』クロンブ『ゾンビの小哲学: ホラーを通していかに思考するか

 

ケアの倫理とエンパワメント』『世界文学をケアで読み解く』等の著者によるゴシック文学論。

 

建築家、版画家ほか様々な顔を持つピラネージの作品と生涯をたどる。著者は建築関連の著書・訳書多数。近著に『つれづれ日記: 五輪の巻』『小さな家の思想 方丈記を建築で読み解く』『ピラネージ〈牢獄〉論: 描かれた幻想の迷宮』、訳書に『ルタルイー近代ローマ建築』各巻など。

 

決定論と自由についての哲学。著者はこれが初の単著で、専門は分析哲学とのこと。

 

フランス現代哲学を専門とする著者による倫理学入門。著者近著に『いかにして個となるべきか?: 群衆・身体・倫理』『死の病いと生の哲学』『現代思想講義――人間の終焉と近未来社会のゆくえ』など。

 

ショック・ドクトリン: 惨事便乗型資本主義の正体を暴く <a href=*1 (岩波現代文庫 社会 344)" title="ショック・ドクトリン: 惨事便乗型資本主義の正体を暴く *2 (岩波現代文庫 社会 344)" />
ショック・ドクトリン: 惨事便乗型資本主義の正体を暴く <a href=*4 (岩波現代文庫 社会 345)" title="ショック・ドクトリン: 惨事便乗型資本主義の正体を暴く *5 (岩波現代文庫 社会 345)" />

日本では東日本大震災の年に刊行されたナオミ・クラインの代表作が文庫化(原著2007年)。著者近著に『地球が燃えている : 気候崩壊から人類を救うグリーン・ニューディールの提言』『楽園をめぐる闘い: 災害資本主義者に立ち向かうプエルトリコ』など。訳者はほかにメイ・サートン、スティ-ヴン・ピンカ-など手掛ける。

 

副題にある通り、言語哲学法哲学の立場からヘイトスピーチを論じた論集。

 

多くの著者を集めた、アナキズムの現在を見渡す論集。編者は『アナキズム入門』の著者で、近著には『死なないための暴力論』『もう革命しかないもんね』など。

 

私にはいなかった祖父母の歴史―ある調査―』『歴史家と少女殺人事件―レティシアの物語―』などの著書で数々の賞を受賞しているフランスの歴史学者によるマチズモの歴史。訳者は同著者の翻訳のほか、著書に『近代科学と芸術創造: 19~20世紀のヨ-ロッパにおける科学と文学の関係』『グラン=ギニョル傑作選: ベル・エポックの恐怖演劇』などがある。

 

トリニダード・トバゴ生まれの歴史社会学者による帝国研究の書。近年は「帝国→国民国家」という単線的な歴史観が見直されているそうです。他にかなり古いが『予言と進歩』『ユートピアニズム』の邦訳あり。訳者には『スペイン・ポルトガル史 上』『』『スペイン史10講』『歴史のなかのカタルーニャ: 史実化していく「神話」の背景』などスペイン関連の著書が多い。

 

イギリス史を中心に多数の著書のある著者による君主制入門。『教養としてのイギリス貴族入門』『女王陛下の影法師 ──秘書官からみた英国政治史』『貴族とは何か―ノブレス・オブリージュの光と影―』『ハンドブックヨーロッパ外交史:ウェストファリアからブレグジットまで』など近著も多数。

 

小アジアを中心とした、帝政ローマ時代のギリシア都市の研究。これが著者の初の著書のようです。

 

種村季弘の2006年の文庫が新装復刊。タネムラが東京の裏町30をめぐる。

 

昨年復刊されたバルトルシャイティス幻想の中世』の翻訳者でもある著者の2001年刊の芸術論が復刊。ほか近著に『チェコ・アヴァンギャルド: ブックデザインにみる文芸運動小史』『ことばとかたち: キリスト教図像学へのいざない』『雲の伯爵: 富士山と向き合う阿部正直』など

 

2022年『ショットとは何か』に続く蓮實重彦の映画批評集。単行本未収録のものを集めた本のようです。

 

野心的なキュレーターによる初の著書で、芸術史・思想史も含めたパンクの歴史をまとめる。

 

 

ではまた来月。

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丹下和彦『ギリシア悲劇 人間の深奥を見る』 理性の価値と、その困難を描いた普遍的な物語

ギリシア悲劇への入門に最適の新書

 

丹下和彦『ギリシア悲劇 人間の深奥を見る』は、2006年刊行の中公新書。著者は1942年生まれで古典学を専門とし、多くのギリシア悲劇を翻訳している。

もともとギリシア悲劇に興味があり、また最近関連する本を読むことも多かったところに、ちょうどロシア文学者で西洋演劇史を教えている上田洋子がこの本を紹介していたので読んでみた。

本書はまずギリシア悲劇とは何か」と題された序章で、ギリシア悲劇についての基本的な事項を紹介し、その後に続く各章で計11本の作品を実際に読解していくという構成になっている。

 

序章において、著者はギリシア悲劇の特性として、〈宗教性〉〈文芸性〉〈社会性〉の三つの要素を挙げている。

まず〈宗教性〉だが、まずギリシア悲劇というものは、葡萄酒の神ディオニュソスを祀る大ディオニュシア祭において、アテナイのアクロポリスにあるディオニュソス神殿にて上演されるものである。その起源についてははっきりとはわかっていないものの、少なくともディオニュソスを祀る儀礼、その際の合唱と関連があるらしい。ほとんどの作品がギリシアに伝わる神話を題材にしていることも含めて、悲劇はもともと宗教的な起源をもつということだ。

続いて〈文芸性〉について。ギリシア悲劇が発展するにつれて様々な工夫が生み出される。まず当初は合唱隊による合唱のみで構成されていたところに、悲劇の祖とされるテスピスという人物が、台詞を話す俳優という概念を導入した。最初は一人だけだった俳優の数は、やがて三人となり、この人数はギリシア悲劇の全歴史を通じて守られることになる(登場人物が多い場合は、この三人が複数の役を演じる)。

また他にも役柄を表す仮面の着用、背景画や様々な舞台設備の発展、合唱と対話が交互に行われる劇の構成など、様々な要素が発明されていく。最古の悲劇論とされるアリストテレス詩学においては、もはや悲劇の宗教的要素についての言及はなく、もっぱら文芸、芸術として悲劇が語られるという。

最後の〈社会性〉とは何かと言えば、つまり古代のアテナイにおいては、悲劇の上演そのものが社会の構成において大きな役割を果たしていたということだ。

大ディオニュシア祭における悲劇の上演は同時に悲劇競演会という競技であり、これは国家が主催し、アテナイ全市民が参加する行事だったという。合唱隊には市民から選ばれた者も参加し、競演会の優勝作品を決める審査員も市民たちから選ばれる。
そしてここで上演される悲劇の内容は、当時のギリシアの人々の精神と密接に結びついたものだった。

 

前四八〇年に来寇したペルシア軍を破ったギリシア、なかでもアテナイは、以後約半世紀にわたって繁栄を謳歌することになるが、その文化的社会的躍進の原動力として彼らアテナイ市民が認識していたのは、自らに固有のものと自認する〈自由〉〈法〉〈勇気〉〈知〉という四つの価値観だった。わたしたちはこうした価値観のさまざまな形での表出を、共同体の伸長とともに発展してきた悲劇という芸術ジャンル、その各作品の中に看取することができる。悲劇は市民の精神生活を写し出す鏡となったのである。

(「序章 ギリシア悲劇とは何か」より)

 

古代ギリシアの人々は自分たちの精神のありようを悲劇として表現し、またその上演を通して社会の紐帯を形作っていったのだ。

 

ギリシア的な価値を表現する作品たち

 

さてこの後、本書は具体的な作品の紹介と読解に入っていく。取り上げられた全作品について、基本的な筋立てが詳しく解説されるので、もともとの作品を読んでいなくても問題ない。

本書の前半で読解されるのは、先の引用にもあった、アテナイ市民が自らに固有のものとしていた価値、すなわち〈自由〉〈法〉〈勇気〉〈知〉などを表現する作品たちだ。

 

例えばペルシアとの戦争を題材としたアイスキュロスペルシア人では、ペルシア軍を撃退し、大帝国への隷従を免れたギリシア人たちの〈自由〉の観念が、異国人であるペルシア人との対比の中で称揚される。

また親から子へ受け継がれる復讐の連鎖を描いた、同じくアイスキュロス『オレステイア』三部作(『アガメムノン』『供養する女たち』『慈しみの女神たち』)では、「目には目を」という氏族社会の秩序に沿った復讐行為が、最後にはアテナイの〈法〉によって調停される様を描く。父の仇を討つために実の母を殺したオレステスは、そのことによって自身が復讐の対象になるが、最後にはギリシア社会に確立された「法の正義」によって罪を免れる。

そしてソポクレス『アンティゴネにおいては、人間的な迷いを抱きつつも死者の名誉のために戦うアンティゴネの英雄的な姿が、同じくソポクレスのオイディプス王においては、苛酷な運命に対しても知ることを恐れない〈知〉の価値が描かれる。

 

神の気まぐれとしか思えないような理不尽で苛酷な運命そのものは、オイディプスは問題にしようとしない。神の計画そのものを非難することはせず、その計画に知らずして乗せられて犯した我が罪を、彼はすべて引き受けようとする。ただ恐ろしい禍に遭うために生かされてきたその身を全的に肯定するのである。神の強大な力を知りつつも、また神に憎まれた存在であることを知りつつも、なお生きて禍=罪の意識に堪えようとするところに、わたしたちはオイディプスの人間としての存在理由を見出すことができるように思われる。

彼は、すべてが解明され神の計画が明らかになったとき、知の象徴としての目を潰す行為(未熟な知への懲罰)に出た。このことは、そこで彼が神に 帰依し、神への信仰に一挙に走るのではなく、自分を知の地平に置くことで人間としての我の存在の証しを立てようとしたことを意味している。いわば世界を知の地平から捉えようとするのである。世界を人間の理性の中に取り込もうというのである。たとえ自分が神の手になる世界構造に繰り込まれている身であるとしても、その中に自らの位置を設定しようとするのである。神だけで計画し、事を成就し、結末をつけることは許されない、世界の出来事を神だけの手に委ねることは許さない、というのである。人間の未熟な知による過失をわざわざ持ち出し、その責任を取ろうというのである。オイディプスがこのあとも惨めな姿を晒し続けること自体が、理不尽な神の計画に対する無言の非難であり、異議申し立てであり、また神に対する人間存在の不逞な自己主張でもあると言えるのではないか。

(どちらも「第四章 知による自立 ソポクレス『オイディプス王』」より)

 

アテナイ社会の翳りと知の衰退

 

このように、本書の前半では、古代のギリシア人たちが生み出した様々な価値や理念が輝かしく打ち立てられる様を眩しく見ることができるが、しかし後半になるとその様相は変化する。

紀元前5世紀はじめ、ギリシア世界はペルシアを撃退しその全盛期を迎えたが、その時期は50年ほどで翳りを見せ始める。シチリア遠征における敗北やギリシア都市国家間における内戦(ペロポネソス戦争)などがアテナイの国力を弱め、同時に社会においても、先に述べたような理念が信じられなくなっていく様が、当時の作品に記録されているのだ。

 

後半の主役になるのは、「人をありのままに描く」と評されたエウリピデスだ。『メデイア』『ヘレネ』『キュプロクス』『オレステス』『バッコスの信女』といった作品が紹介されるが、ここでは理性に対する非理性的なものの力、伝統的な価値観の衰退、法秩序への反乱などが描かれる。

ここには本書の前半に見られたような、ギリシアの伝統としての理念や価値、そして知性への信頼はすでにない。いくつかの作品においては、ホメロスが描いたオデュッセウスの冒険やトロイア戦争への批判や揶揄すら登場するのだ。社会状況の変化によって、かつて信じられていた価値が失墜していく様は、現在の私達にとっても非常にリアルに感じられる。

 

本書は、前5世紀という100年間のアテナイの精神史を刻んだものであるギリシア悲劇が、その地域性と歴史性にとどまらない普遍性をもつゆえに、多くの人々に読まれ続けていることを確認して終わる。

ここに収められた11篇の作品は、さすがに2000年以上にわたって読み継がれているだけあり、その物語だけ見ても大変に面白く力強いものだ。本書は各作品の筋立てを詳細に語ってくれるので、それを知るだけでも十分に楽しめるだろう。その上で、これらの作品に込められた理念と価値、そしてその受け皿となる社会の変化の有様は、確かに現在の読者にとっても切実なものだと思う。

 

次の一冊

 

ギリシア悲劇のいくつかは文庫で手軽に読むことができる。

ちくま文庫ギリシア悲劇』シリーズは全4巻で作者別。

 

pikabia.hatenablog.com

過去記事で紹介したこちらでは、法の起源としてのギリシア悲劇の読解を読むことができる。

 

そのうち読みたい

 

丹下和彦の、ギリシア悲劇に関する単行本。