もう本でも読むしかない

仕方ないので本でも読む。SF・文学・人文・漫画などの書評と感想

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奈落の新刊チェック 2022年3月 海外文学・日本文学・現代思想・マラルメ・晩年の仕事・神話学・不良少女・ファッションスタディーズほか

いよいよ春ですが、新年度も読みたい本が多くて気の休まる暇もありはしないわけです。でも本は読めなくても、とりあえず買って積んでおくと、潜在的には読んでいる状態になると言えます。言えますよ。電子で積んでおくという手もあります。最高なのは紙と電子の両方を積むことでしょう。では今月もどんどん積んでいきましょう。

 

 

マラルメの代表作『賽の一振りは断じて偶然を廃することはないだろう』が新訳で登場。訳者の柏倉康夫は日本文学も含めた文学研究が専門で、同じ月曜社マラルメ『詩集』も翻訳してます。とりあえず手元に置いておきたくなる。

 

 

近年になって「再発見」された女性作家の、日本でも海外小説としてはかなりのベストセラーとなった短編集が文庫化。

 

 

アメリカの作家ダイアン・クックの2015年のデビュー短編集が白水社エクス・リブリスより。作者の2020年の小説『New Wilderness』はブッカー賞にノミネートされたそうです。ミランダ・ジュライも絶賛。

 

 

文庫がどんどん出ている佐藤亜紀の新刊が到着。今回の舞台はフランス革命前夜のベルギー。

 

 

こちらは本屋大賞にもノミネートされた、終戦直後のドイツを舞台とした歴史ミステリの文庫化。海外を舞台にした歴史小説本屋大賞の候補になるのは珍しいです。

 

 

さらに海外を舞台にした歴史SF小説。大戦中のドイツに不死の伯爵が登場。

 

 

大江みずからが「晩年の仕事(レイト・ワーク)」と呼ぶ、2000年の『取り替え子』以降の作品を読み解く評論。著者はフランス語翻訳と文学論で多くの著書のある工藤庸子。この時期の大江は自分がリアルタイムで読んでいたので気になります。

 

 

千葉雅也による現代思想の入門が満を持して登場。これを待っていた人も多いはず。デリダフーコードゥルーズからメイヤスーまで。

 

 

1985年に発表されたアガンベンのエッセイ集。33のテーマについて語っているそうだが、並んでいるテーマを見るだけでも盛り上がります。

 

 

こちらはドゥルーズフーコーラカン、バルトなどフランス現代思想の代表選手たちからアガンベンまでを取り上げ、その概念を抽出して語った本の模様。

 

 

ドゥルーズとの共同作業でおなじみ、だけど日本ではドゥルーズに比べてだいぶ知名度が低いガタリの最新論集。ガタリも知らなければ。

 

 

堀之内出版から2018年に出ていた『ハンス・ヨナスを読む』の解題文庫化。生命倫理・技術の哲学で知られるヨナスだが、文庫で読める入門書はたぶん初めて。著者はドイツ思想・技術の哲学が専門。

 

 

上記『ハンス・ヨナスの哲学』著者の単行本も同月発売。ハイデガーアーレントなどを引きながら、スマホやスマートウォッチなどのスマートデバイスに対する倫理的な検討を加える本らしい。面白そう。

 

 

批評理論への入門にぴったりなフィルムアート社の「クリティカル・ワード」シリーズにファッション編が登場。24のキーワードと11ジャンルのブックガイドを収録。

 

 

フーコー研究でおなじみの著者の新書。ホモ・エコノミクス(経済人)つまり「利己的人間」という、経済において理想とされる人間像はいかにして生まれたのかという研究。

 

 

反逆の神話〔新版〕 「反体制」はカネになる』の著者ジョセフ・ヒースの2014年の著書が文庫化。世界を「正気に戻す」ために啓蒙思想の再起動が必要、という話は沁みる。

 

 

2001年に同社から上下巻で出ていたものの新装版。独ソ戦の重厚なドキュメント。

 

 

「権力のイメージの変遷をたどる」と副題にもある通り、古今の皇帝のイメージから読み解く権力の表象分析。著者はケンブリッジの古典学教授で、「イギリス一有名な古典学者」と呼ばれているらしい。『SPQR ローマ帝国史I――共和政の時代』『舌を抜かれる女たち』など、近年邦訳が続いている。

 

 

晶文社からの神話研究の新シリーズ「神話叢書」第一弾。「性愛」と「暴力」をキーワードに世界各国の神話を網羅して読み解く。著者は宗教学を中心にいろいろな本を書いている。

 

 

ギリシア哲学について多くの著書のある著者による、和辻哲郎による建築論に着目した研究がちくま新書より。

 

 

ねじ曲げられた桜: 美意識と軍国主義 <a href=*1 (岩波現代文庫 学術 445)" title="ねじ曲げられた桜: 美意識と軍国主義 *2 (岩波現代文庫 学術 445)" />

 

ねじ曲げられた桜: 美意識と軍国主義 <a href=*4 (岩波現代文庫 学術 446)" title="ねじ曲げられた桜: 美意識と軍国主義 *5 (岩波現代文庫 学術 446)" />

2003年の単行本を上下巻で文庫化。特攻隊員の手記の分析から、軍国主義下において「桜」のイメージがどのように利用されたかを研究する。著者は2020年にも関連テーマを扱った『人殺しの花: 政治空間における象徴的コミュニケーションの不透明性』を刊行している。

 

科学者にして名文家である寺田寅彦の随筆集が平凡社ライブラリーから登場。一家に一冊。

 

 

ナショナルジオグラフィックによる、「奇書・偽書・稀覯書」を集めた本の邦訳。見るからに奇書がたくさん載っていそう。

 

 

書評・コラム・翻訳などで活躍する山崎まどかによる、21人の女性の生き様を描いた評伝集。2011年にアスペクトから刊行された『イノセント・ガールズ』の改題文庫化。

 

 

明治から昭和初期の時代に、良妻賢母の規範に逆らって生きた「バッド・ガール」たちの姿を伝える歴史書。2009年の単行本の文庫化。

 

 

ソウルの貧困層のルポ。韓国の話ではあるが、すごく他人事ではなさそう。

 

 

新作『アネット』の公開に合わせた、インタビューも含むカラックス論集。『ホーリー・モーターズ』ってもう10年前でしたか……

 

 

ではまた来月!

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ロベール・ブレッソン監督『たぶん悪魔が』 静謐で官能的な、運命的映像

ブレッソン"幻の傑作"

 

ロベール・ブレッソン監督の1977年の映画たぶん悪魔がを観た。日本初公開だそうだ。

 

一見するとリアルな人々と街の姿を捉えたかに見える映画だが、その実、この映画に映っている光景は決して現実的なものではない。あらゆる登場人物は直立し、一様に前か少し下を向いて、一定の、たゆまぬ足取りでコツコツと歩く。その動作には一切の迷いはない。例え立ち止まり、思いにふけりながら振り向いたとしても、それらの動作は全て計算され尽くしている。

 

運命へと向かっていく歩調

 

冒頭、ある登場人物が足の右と左に重心をかけて見せ、その結果としての靴底の減り方を見せる。そして仲間の靴底の減り方をチェックする。 これ以降彼らはひたすら歩き続ける。最初のシーンで、これは歩くことに関する映画だということが示されているのだ。 地面に立つこと、重心を移動させて歩くこと。主人公はいつも少し内股に歩く。

とにかく彼らはひたすら歩き続ける。 パリの街路で、夜のセーヌ川のほとりで、さらに家の中でも。 下半身のみを映したショットも多い。そしてその歩調は常に一定だ。音楽のほとんど流れないこの映画の中で、路上に、敷石にコツコツと、軋む床にギシギシと響く足音を観客はひたすら聞き続ける。

彼らの歩みに迷いは一切ない。 まるで決められた道を歩いているかのよう。一様に憂いを帯びて僅かに俯いたその視線は、まるで地面の上に、彼らにしか見えない徴が示されており、そこから踏み外さないように歩き続けているかのようだ。運命によって歩く道が決まっているよう。この映画の最初の画面は新聞記事で、そこで最後に起こることが予告される。その意味では、この映画は確かにある運命に向けて一直線に進んでいく映画なのだ。

そしてひとたび歩みを止め、部屋で椅子に座り、ベッドに横たわり、教会の講堂に腰かければ、そこには何かを悟りきったような表情とともに、あまり動きのない、神秘的な視線の交錯が起こる。

 

宗教画のような映画

 

ブレッソンの映画の画面はいつも宗教画のように見える。それもバロック以前の静謐なルネサンス、あるいはジョットのような中世の宗教画だ。間違ってもロマン主義のような激しい感情や動作は無い。登場人物は常に直立し、背筋を伸ばして座り、あらかじめ決められているかに見える運命を見据えながら話し、沈黙し、歩く。三浦哲哉『映画とは何か』当ブログで紹介しています)によれば、ブレッソンは俳優(その多くは職業的な俳優ではない)に何度も繰り返し演技をさせ、その行動に作為が一切なくなるまで繰り返させるという。そのようにして撮られた、ある種の不自然で強固な様式を持った映像が、他では見たことのないような、まるでアニメーションとして描かれたかのような人工的な人体の運動を映し出す。その、完全にコントロールされた、しかしそれでも不安定な人間の動きでしかありえない動作、定められた運命に完璧に従がおうとしながらそれでも微細な揺らぎを孕みつづける動作が、映画を全編にわたって満たしている。このような官能は他では味わったことがない。

映画のほとんど全編を満たす規則正しい足音、その足音が乱れるのはおそらく二度。まずは中盤、ある登場人物たちが、銃声を聞いて急いでその方向へ走るシーン。そしてもうひとつはラストシーンだ。ある決定的な出来事が起こった後で、ある登場人物が徐々に足を早め、やがて駆け足になって闇に消えて行き、そして映画も幕を閉じる。

 

物語は、死への誘惑に取りつかれた若者である主人公が、仲間たちと一緒に反社会的な集会に参加したり、教会で討論したり、夜の河畔で拳銃を弄んだり、環境問題について考えたりしつつ(水俣の映像も使われている)、仲間たちと近づいたり離れたり、心配されたりしながら、ある運命に向かってゆっくりと歩んでいくという内容だ。

言ってしまえば何の変哲もない、悩める若者の物語が、圧倒的に静謐できめ細やかな映像によって映し出される。ぜひ映画館で見てほしい。そして、スチルを見ればわかる通り、抑制された演出で撮られたこの若者たちの姿はため息が出るほど美しい。

 

2022年3月末現在は新宿シネマカリテで公開中。その後全国で順次公開予定。

lancelotakuma.jp

 

ロベール・ブレッソンの映画については、当ブログの下記記事でもいろいろ書いています。

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岩波文庫『カフカ短編集』で、『変身』だけじゃないカフカの魅力を堪能すべし

『変身』もいいけど……

 

カフカと言えばなんといっても『変身』が有名だが、私は他の短編の方が好きだ。

いや、もちろん『変身』は名作なのだが、なんというか……こう言ってしまっていいのかわからないのだが、その、わりと出オチっぽいというか……

こともあろうに『変身』を捕まえて出オチ呼ばわりは我ながらひどいと思うし実際には決して出オチではないと思うのだが、どうしても最初のシーンが最もインパクトがあるという点ではそんなに異論はないのではないか。いや、別に『変身』の出オチ感を語りたいわけではないのだ。当然『変身』も最高である。でももし『変身』しか読んだことがないという方がいたら、ぜひ他の短編も読んでほしいなあ、という話がしたいのである。

 

というわけで、ひとまずは定番の池内紀編訳『カフカ短編集』岩波文庫)を挙げてみよう。この一冊に20編も入っているので、それぞれは非常に短く、すぐに読める。寝る前などにちょっと読んだりするといい感じだ。

私が特に好きなのは、この中では「判決」流刑地にて」だろうか。

 

衝撃のシフトチェンジ「判決」

 

「判決」の主人公はゲオルクという若者。彼はロシアに行ったきり帰ってこない友人に向けて手紙を書いている。彼とこの友人との関係は今では微妙なものになっていて、ゲオルクはロシアで人生に失敗しているであろう友人をあれこれ思いやったり、あるいは見下したりしながら手紙の内容を思案している……

というのが前半なのだが、後半、ゲオルクが同居している老いた父の部屋に、友人に書いた手紙のことを報告に行ったところから、小説のムードや文章がガラリと変わるのだ。

これはもう本当に、驚くほどに変わる。並の小説のシフトチェンジとはわけが違う。われわれ読者はこの突然の変化と、そしてこの父親のあまりのインパクトに圧倒されたまま、このとても短い短編を一気に読み終わってしまうのだ。

このダイナミックさはなかなか味わえないほどのものなので、ぜひ体験してみてほしい。こうやって事前に種明かしをされていても、驚きはなお衰えないだろう。

 

これぞカフカ的不条理「流刑地にて」

 

次に流刑地にて」だが、個人的にはこれこそカフカの真骨頂という感じの内容だ。

「実にたいした機械でしてね」というセリフで始まるこの短編の舞台である流刑地の砂地には、あるひとつの処刑機械が置かれている。この機械こそがこの小説の主人公と言える。

機械にはまず《ベッド》と呼ばれる台座部分があり、囚人はここに寝かされて革紐で縛り付けられる。機械の上方には《製図屋》と呼ばれる動作部分があり、そしてここに設置された、《馬鍬(まぐわ)》と呼ばれる無数の針を備えた装置が、囚人の背中に判決を図面として刻み込むのである!

小説の筋は、この機械による処刑を監督する将校と、それを視察する旅行家とのやりとり、そして処刑の実行シーンからなる。この処刑機械のデザイン、それを使って行われる処刑の不条理さと、この処刑機械をめぐる奇妙な事情があいまって、不気味で強烈な印象を残す。

そしてこの短編は、『審判』『城』といったカフカの代表的な長編のエッセンスを凝縮したもののように感じられる。これらの長編で描かれる、巨大で不気味で複雑な不条理、巻き込まれた主人公を、静かな、しかし抗いがたい力によって追い込むあの不条理が、この処刑機械とそれを取り巻く一連の出来事の中に、圧縮された形で描かれているように思えるのだ。

 

この二編の他にも、様々な議論を呼び起こしている謎めいた寓話「掟の門」、そしてカフカ界随一のゆるキャラ〈オドラデク〉が登場する「父の気がかり」など、読みどころが満載の短編集である。

 

ちなみにカフカは現チェコプラハ生まれだが、当時のプラハオーストリア=ハンガリー帝国の一部であるボヘミア王国の首都であった。カフカはドイツ語を話すユダヤ人である。

 

次の一冊

 

言わずと知れたルイス・キャロル不思議の国のアリスは、時に「子どものためのカフカと呼ばれるという。確かに、一見楽しげなアリスの物語がはらむ容赦の無い不条理は、カフカの小説に通じるところがある。

種村季弘『ナンセンス詩人の肖像』ちくま学芸文庫・残念ながら新品では入手不可)に収められたルイス・キャロル論によれば、カフカとキャロルはその「裁判コンプレックス」において共通するという。すなわち、どちらも根本的な罪の意識を抱え、裁かれ罰せられることを恐れ、あるいは待ち望んでいるのだと。ここで紹介したカフカの二編も、確かにどちらも裁きに関する小説であった。

リンクを貼ったのは矢川澄子訳・金子國義新潮文庫版。とりあえず読むなら読みやすいこれか、注釈の豊富な河出文庫高橋康也がお勧め。

 

そのうち読みたい

 

絶対に読むべきだと何年も前から思っているのに読んでいないのがこのミシェル・カルージュ『独身者機械』東洋書林)である。

この本はシュルレアリスムの研究者である著者が、ある種の芸術と文学の中に連綿と受け継がれているあるイメージを、「独身者機械」と名付けて分析する。主役となるのはマルセル・デュシャン、そしてフランツ・カフカだ。

独身者機械とは、役に立たない機械、異形の人工物、人造人間、無機的で無性的な存在などのイメージにまるわる概念であり、「流刑地にて」における処刑機械はその代表例であろう。

 

 

 

 

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2023年9月に開催された「第三回かぐやSFコンテスト」に投稿した短編SF小説が、選外佳作に選ばれました。近未来のパリを舞台としたクィア・スポーツSFです。

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こちらはカクヨム公式企画「百合小説」に投稿した、ポストコロニアル/熱帯クィアSF。

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台湾日記:大安路一段で芝麻麺とか胡椒餅とかを食べる。

台北で仕事をしている間、南北に走る大安路ダーアンルーという細めの道の、東西に走る市民大道スーミンダーダオ忠孝東路ジョンシャオドンルーという大通りに挟まれた区間で、よく昼食を食べた。住所で言うと大安路一段と呼ばれる地域のうち一部である。


大通りと大通りの間にあるごちゃごちゃした区画に、小さな飲食店、カフェ、雑貨屋などがごちゃごちゃと犇めいている。台湾にはこういう場所がたくさんあり、安く食事をすることができる。

 

市民大道から見た大安路。

 

一番よく通ったのは小林麺食館シャオリンミェンシーグァン。麺類を中心にいろんな小吃シャオチー(小料理)を食べられる。一応、看板料理は牛肉麺ニョウロウミェンらしいのだが、私はもっぱら芝麻麺ズーマーミェン(ゴマだれあえ麺)と炸醤麺ジャージァンミェンジャージャー麺)に魯蛋ルーダン(煮卵)をトッピングして食べていた。ちなみに日本でジャージャー麺と呼ばれる炸醤麺だが、「炸」と「醤」は別に同じ音ではない。実際にはジャージァンミェンみたいな発音である。

とはいえこの手の店では料理の名前が言えなくても問題ない。カウンターに用意されたメニューの紙にチェックを入れて渡せばいいだけだ。会計を済ますと、店員が厨房に向かって注文を叫ぶ。この店では鉛筆で注文を記入することになっていて、会計が済むと店員が消しゴムで私の書き込みを消し、その紙は再利用される。なお全ての麺類は大と小から選ぶことができる。大も食べれないことはないのだがかなり腹がいっぱいになるので、私は小を頼んで煮卵を追加していたというわけだ。煮卵食べたいし。

 

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小林麺食館。

 

ところで台湾の人はよく食べる。私が小サイズの麺をズルズル食べている周りで、ほとんどの人は2~3皿をテーブルに並べている。麺を含む主食と、炒め野菜の組み合わせが多い。場合によってはさらにおかずを一品。炒め野菜は青菜チンツァイと呼ばれ、だいたい菠菜ボーツァイ(ほうれん草)か空芯菜コンシンツァイ豆苗ドウミャオである。シンプルなニンニク炒めなのだが、これが妙に美味い。油が美味しい気がする。この、単なる炒め野菜というメニューがだいたいどの店にもあるので、ちょっと野菜を足したい時に非常に便利だ。タン(スープ)を足す人も多い。そんなに具が入っていない安いスープが何種類かあるので、これもサイドメニューとしてちょうどいい。

芝麻麺の小は35元、魯蛋(煮卵)は10元。計45元。現在のレートで190円くらい。他の小吃もだいたいひとつ30元程度で食べられる。

ちなみにこの小林麺食館の好きなところは、半野外というところだ。通りに面した壁が全部開いており、歩道にも席がはみ出している。私は屋外で食事をするのが好きで、台湾にはそういう店が多い。不思議なのは、店の中でレジが一番外側に、ほぼ屋外にあるところだ。お金が入ってるんだから奥に置いた方が安全なのではないかと思うのだが……

 

小林麺食館の斜向かいのあたりには小さな市場のようなものがあって、これまた屋根と壁だけみたいな半野外のスペースに、朝は野菜が大量に売っている。その中の道沿いにいくつか屋台が設置してあって小吃が買えるのだが、そこの胡椒餅フージャオビンもよく食べた。屋台と言ったが、その胡椒餅を売っているところは屋台ですらなく、単に胡椒餅を焼く窯のようなものが道端にでんと置いてあり、焼きあがったらその上に並べて売るだけだ。ひとつ40元。

 

小さな市場。左端に胡椒餅の看板が出ている。

 

胡椒餅というのは肉と野菜を包んだ饅頭をわりとしっかり焼いたもので、中身はかなり胡椒が効いていてスパイシーだ。汁気も多いので、食べるときに気を付けないと服に肉汁が零れる。

 

台湾のこういう小さな通りは道端にいろいろなものがある。飲食店、文具や日用品やおもちゃを売っている雑貨屋、携帯電話の店など、だいたい店先から歩道、または車道にはみ出している。小吃店の前では、だいたい路上で野菜を切ったり餃子を包んだりしている。我々はそれを避けながら歩く。車道にはスクーターがたくさん走っているので、そちらにも気を付けないといけない。台北では交通事故も多いのだ。

 

 

 

台湾には粉ものの料理がすごく多い。麺、餃子、饅頭、餅、そしてもちろん小籠包。この本はそのものずばり「台湾小麦粉料理」のレシピ本だ。ちなみに中国語では小麦粉は「麺粉」、そしてパンは「麺包」。飽くまでも麺が先である。

 

 

 

ムアコック「エルリック・サーガ」で出会う暗黒ファンタジーと葛藤するヒーロー

はじめてのダーク・ファンタジー

 

 

 

フロム・ソフトウェアのエルデンリングが大人気なわけだが、ああいうダークな雰囲気のヒロイック・ファンタジーを見るとエルリック・サーガを思い出す。

 

中学生くらいの時に読んだマイクル・ムアコックによるエルリック・サーガ井辻朱美訳)のシリーズはたぶん私が初めて読んだ海外のヒロイック・ファンタジー(というか初めて読んだ大人向け翻訳小説かも)で、それまで日本製のファンタジーにしか触れたことのなかった私にはたいそうインパクトがあった。まず暗い。とても暗い。そして陰鬱である。これがヨーロッパの暗さなんだろうか……と思った。(後年『ベルセルク』を読んで「エルリック並に暗いぞ!」と思った)

主人公のエルリックは、かつて世界を支配したメルニボネ帝国の最後の魔術皇帝で、変わり者なので祖国の残虐な風習にあまり馴染めずに退屈な日々を送っている。また彼はアルビノで虚弱体質で、普段は特別な薬がなければろくに動くこともできないのであった。そんなエルリックだったが、愛する従妹を守るため、混沌の神が鍛えた黒い魔剣・ストームブリンガーを手に入れると事態は一変。斬った相手の魂を吸う魔剣の力により、エルリックは強力な剣士となって活躍するのだ。

とはいえもちろん代償があって、この剣は意志を持っており、うおんうおんと唸りながら勝手に動き、しばしば斬っちゃいけない人を斬ってしまうのであった。普段は虚弱体質のエルリックストームブリンガーで敵の魂を吸いながら最強剣士となって無双しつつ、だいたい終盤に剣が暴走して仲間とか友人を殺してしまい、その魂を啜った後でエルリック苦悶するというのがパターンである。

 

暗黒ファンタジー世界における理性の葛藤

 

基本的には不気味な怪物やらおどろおどろしい魔法やら恐ろしい神々やらが出てくる冒険ファンタジーなのだが、主人公エルリックとにかく苦悩している。だいたいいつも葛藤している。大人になってから読み返すと、それは近代人ぽい感覚を持ってしまったエルリックが無法の世界を生きる上での葛藤なんだなとわかる。暗黒ファンタジー世界でどうにか理性的であろうとするエルリックには共感してしまう。


作者のムアコックニューウェーブSFの旗手としておなじみJ.G.バラードと仲良しで、ムアコックが編集長を務めていたSF雑誌にバラードが小説を書いていたという関係だそうだ。だからムアコックの書くファンタジーも、ニューウェーブSFと通じる要素があるのかもしれない。ニューウェーブSFの特徴を「現代文学化したSF」とまとめてしまえば(異論あると思いますが……)、エルリック・サーガ現代文学に接近したファンタジーなのだろうか。
またエルリック・サーガは1960年代のイギリスで書かれているので、当時のカウンターカルチャーの要素も反映しているのだろう。この小説世界では法と混沌の神々が争っており、シリーズの最終話「ストームブリンガー」では実際に世界が崩壊してしまう。この黙示録的な感じも、時代の空気に関係があるような気がする。

 

どれから読めばいいの?順番は?


タイトルに数字が無いのでわかりづらいが、現在出ているものの順番は以下の通り。

  1. メルニボネの皇子
  2. この世の彼方の海
  3. 暁の女王マイシェラ
  4. ストームブリンガー

この後もさらに続くが、一応メインストーリーは『ストームブリンガー』で終了している。


後年知って面白かったのは、実はシリーズ各エピソードの発表順は作中の時系列と全然違うということだ。第2巻にあたる『この世の彼方の海』に収録されている「夢見る都」が一番最初に発表されたエピソードなのだが、これは2クールアニメで例えると、1クール目の終盤の話をいきなり書いてしまうような感じだ。そして物語の発端を語る「メルニボネの皇子」は、なんと最終エピソード「ストームブリンガー」よりも後に書かれているのだ。この辺、なんか自由でいいなあと思う。すでに読んだ方は発表順に再読してみるのも面白いだろう。英語版wikipediaに詳しく載っている。

https://en.wikipedia.org/wiki/Elric_of_Melnibon%C3%A9


このような事情で書かれているので、初めて読む人はなんなら『メルニボネの皇子』の表題作と『ストームブリンガー』だけ読んでしまうという手もあると思う。それでだいたいの話はわかるので。

 

これはメルニボネの最終陥落以前のエルリックの物語、かれが「女殺し」の異名を取る前の物語。これは従兄イイルクーンとの確執と、その妹サイモリルへの愛の物語。その愛ゆえに、エルリックは〈夢見る都〉イムルイルを炎上させ、〈新王国〉の人々の放恣な略奪の手にゆだねることになった。これはまた、ふたふりの〈黒き剣〉ストームブリンガーモーンブレイドの物語、剣がいかに見いだされ、メルニボネのエルリックの運命にいかなる役割を果たしたかを語る物語であり──

マイクル・ムアコック『メルニボネの皇子』表題作冒頭)

 

初めて読んだ時はこの、先の展開を予言する感じのプロローグにしびれたものだが、実際のところはこの話が一番最後に書かれているので単に先の展開は執筆済みなのであった。

 

 

美麗コミック版で読むという手もある

 

ちなみに2020年になって、突如フルカラーのコミック版が翻訳刊行された。海外ではグラフィック・ノベルと呼ばれるタイプの、デザインやビジュアルに凝ったものだ。ストーリーは原作にかなり忠実に、そして美しさとグロテスクさをともに強調したグラフィックが大変素晴らしい。続刊もぜひ出してほしい。(追記:二巻目を追加しました)

 

 

 

次の一冊


エルリックの序文でムアコックが勧めていたので読んでみたのが、かの有名な「英雄コナン」(宇野利泰・中村融訳)だ。いわく、「トールキンは説教臭くてあんまり好きじゃなかった。やっぱりコナンですよ」とのこと。コナンというといろんなところで「マッチョな主人公が活躍するシンプルなヒロイック・ファンタジー」と紹介されているのだが、実際に読んでみると意外と怪奇小説幻想小説の趣もあり、主人公コナンも意外と饒舌に自らの運命について語ったりするので驚いた。剣と魔法ジャンルのルーツと言うだけの面白さがある。(ただし1930年代のエンタメ作品だけあってポリティカル・コレクトネスのポの字もないのでそこはご注意) 全て短編なので気軽に読める。

 

 

そのうち読みたい

 

最近ネトフリで人気があるというので見てみたドラマの『ザ・ウィッチャー』も、たいへん暗くて重いダーク・ファンタジーという感じで「エルリックみたいじゃん!」と思いました。(ゲームも大人気なんですってね)ザ・ウィッチャーが好きな人もぜひエルリックに挑戦してみてください。

こちらは最近出た、ドラマ版シーズン1のエピソードを収録した短編集とのこと。

 

 

 

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2023年9月に開催された「第三回かぐやSFコンテスト」に投稿した短編SF小説が、選外佳作に選ばれました。近未来のパリを舞台としたクィア・スポーツSFです。

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不思議な映画『ダークナイトライジング』は、ノーランのゴシックおとぎ話だ。

好きにならずにはいられない、『ダークナイトライジング』

※この記事は全部ネタバレです。

バットマンの新作が公開されているわけだが、まだ見れてないので今回は私の好きなバットマン映画を紹介しよう。

傑作かどうかと言われるとよくわからないものの、妙に好きな映画、というのが誰にでもあるのではないだろうか。クリストファー・ノーラン監督のダークナイトライジング』は私にとってはそういう映画だ。これはノーラン版バットマン三部作の完結編となる映画である。

そもそも私はノーランのあまりいい観客ではない。何本か見ているが、すごく面白くはあるものの、どうにも乗れない感じがある。

そんな私が、「ノーラン、お前ってなんか、イイ奴だな……」と心から感じられたのがこの「ライジング」なのだ。(この時点ですでにどうでもいい話の感触が濃厚に漂っていると思われるが、興味のある方のみ続きを読まれたい)

 

ダークナイトライジング』は公開当時、わりと賛否両論が激しい映画という印象があったのだが、この記事を書くにあたってちょっと検索してみると絶賛評ばかり出てきて、なーんだ、公開から10年経って、こんなに愛される映画になってたのね……としみじみした。

当時は前作ダークナイトにおけるジョーカーのインパクトが強すぎてみんなどうしても不満が残っていた感があったのと、あとは脚本上のおかしなところがわりとあって、いろいろとツッコまれがちだったと思う。

私はむしろ、この映画の、ツッコミどころが多いところが好きだ。

とは言っても、それはいわゆる「バカ映画」として愛でる感じとは少し違う。この映画の、あまりガチガチに作り込みすぎない、ちょっと脇が甘い、でも監督のやりたいことだけはビンビンに伝わってくる感じがなんとも好きなのだ。(逆に言うと、他のノーラン作品はわりと息苦しく思うことがある。そこが魅力でもあるのだろうが)

ダークナイトライジング』には、おとぎ話のような雰囲気がある。考えてみればコスチュームを着たヒーローが活躍する映画なんて、そもそもおとぎ話なのかもしれないが。

 

では以下に、この映画のおとぎ話感のあるポイント(ツッコミ所でもある)を挙げていく。

  • 街のど真ん中で危ない核融合炉を開発している。(やめとけ!)
  • ゴッサムシティの地下道がすごい無法地帯になっている。(電気とか水道管とか大丈夫?)
  • おびき寄せられた三千人の警官が地下道に投入され、全ての出口を爆破されて全員閉じ込められる。(そんなことある?)
  • ゴッサムシティがわりと簡単に閉鎖されて無法地帯になる。(アメリカの大都市ですよね?)
  • バットマンが謎の巨大な縦穴(これ何?)に閉じ込められ、脱出のために縦穴の壁をよじ登るシーンがえんえんと描かれる。(何を見せられてるの?)
  • 数か月ぶりに地下道から解放された三千人の警察官、元気いっぱいで登場。(元気だな~)
  • 悪役のベイン、鎮痛剤付きマスク(弱点が剥き出し)を殴って壊されると痛みに苦悶する。(脆いな~)
  • 核融合炉が爆発しそうなのでバットマンが身を挺して遠くに捨てに行く。(だから言ったのに!)


だいたいこんな感じである。どうだろうか。なにか童話を読んでいるような感じがしてこないだろうか。

こんな感じの、言ってみれば夢幻的ですらある物語を映し出す映像は、しかし、とても美しい特に、外界から隔離されて無法地帯となったゴッサムシティのビジュアルは最高だ

雪の積もる、静まり返った摩天楼。車の走らない、瓦礫の散らばった道路。テロリストたちが牛耳る、倒した机を積み上げた大ホール。地下道に閉じ込められている、三千人の警官たち。

モノクロームな色調で描かれた無法のゴッサムシティは、まるでゴシック・ロマンスの舞台となる古城のようでもあり、フリードリヒの風景画のようでもある。

そして、どこかの砂漠にある謎の巨大縦穴だ(どこの国にあるの?誰か調べに来ないの?)。この巨大縦穴の底にはたくさんの囚人が閉じ込められており(誰が管理してるの?)、垂直の壁をよじ登った者だけがここから脱出できるのだ。一体誰が何のためにこんな縦穴を作ったのか全く不明だが、映画にとってそんなことはどうでもいいのである。

ノーランは、傷ついたバットマンことブルース・ウェインが暗い穴の底ではるか頭上に見える空を見て過ごし、脱出しようとえんえんと壁をよじ登るシーンを描きたかったのである。それこそが前作でジョーカーに勝ち切れなかったバットマンの再生なのだ。そのためにはこの謎の巨大縦穴監獄が必要なのだ。OK。納得した。

そしてシリーズ最大の敵・ベインである。トム・ハーディ演じる屈強なヴィランだ。こいつは常に機械でできたマスクで鼻と口を覆っており、そのマスクには鎮痛剤が入ったカプセルがいくつも剥き出しで刺さっており、そこを殴られるとカプセルが壊れて地獄の苦しみにのたうつのだ。迂闊だ……迂闊すぎる。なぜ最大の弱点となる脆い部品を顔面に晒しているのだ。

このベイン、本人の主体性の薄さもあいまって、なんとも神話的な趣がある。誰にも負けないほど強いが、弱点を突かれると一発で地獄の苦しみだ。おとぎ話の悪役にふさわしい。

 

どうだろうか。読者諸兄も、だんだん見たくなってきたのではないだろうか。

前作『ダークナイト』しか見てなかった皆様、あるいは『ライジング』を一度見たけどいまいちピンとこなかった皆様も、この、不思議なゴシックおとぎ話ダークナイトライジング』を改めて楽しんでほしいと思う。(アン・ハサウェイ演じるキャットウーマンも良いです)

 

それにしても、あの巨大縦穴監獄は誰がなんのために管理しているんだろう……どこから管理コストが出ているんだろう……どんな食事が出るんだろう……

 

 

ところで私はティム・バートン監督のバットマンも好きである。特に二作目のバットマン・リターンズはクリスマスになると無性に見たくなる。

バートン版もノーラン版もそれぞれゴシックな魅力があるが、バートンは可愛げでユーモアもあるけど裏腹に哀しみも深いゴス、ノーラン版は真面目で深刻で不器用なゴスという感じだろうか。

 

 

追記:新作、見れました!!

pikabia.hatenablog.com

檜垣立哉『ドゥル-ズ 解けない問いを生きる』 生きて変化することの肯定

生命哲学としてのドゥルーズ

 

10年ほど前、震災とそれに続く原発事故を遠くから経験した頃に、私はドゥルーズの哲学に出会った。ドゥルーズの哲学には、その時の私が必要としていたもの、すなわち生物・生命体である自分や家族がこの不確かな世界で生きていくことについての肯定があった。

それを私に教えてくれた本のうち一冊が、檜垣立哉『ドゥル-ズ 解けない問いを生きる』NHK出版→現在はちくま学芸文庫)だった。

 

ドゥルーズの哲学には様々な側面があるが、檜垣立哉のこの本は生命哲学としてのドゥルーズに注目している。

ドゥルーズの哲学にとって、世界の基本的な姿は「卵(ラン)」であるという。「卵」は生命がまだ形を持たない段階であり、そこからいかなる形にも変化できる。そしてまた、その変化の方向は必ずしもプログラムされたものではない。「多様なかたちをとるために、それ自身はまだかたちをなしていない力のかたまり(本文より)」それが「卵」であり生命である。

次に著者はこの概念を理解するための二つの要点を挙げる。まずひとつは、卵が様々な形に分化していく流れを、否定性によってではなく、ポジティヴに描くこと。もうひとつは、あらかじめ変化の方向が定められた「可能性」の論理ではなく、いかようにも変化しうる「潜在性」の論理によってそれをとらえること。

このような哲学のあり方を、著者は過去の様々な哲学者との比較、そしてドゥルーズによる著作の読解を通して、具体的かつ平易に語っていく。

このイメージは、ドゥルーズにとって、世界の原型といえるものである。世界とは卵である。そこで世界を記述するとは、未分化な卵とその分化のシステムを描き出すことである。そして世界を生きるとは、卵の未決定性を生き抜いていくことである。何にでもなりうるが、しかし安住すべき拠点もすっかり定められた目的もない、そうした生成でありつづけることである。(第一部・Ⅱより)

「賭け」としての生命

 

賭博/偶然の哲学』『哲学者、競馬場へ行くなどの著書もある檜垣立哉にとって、ひとつの重要なキーワードが「賭け」であり、ドゥルーズ哲学の中からもその要素を掬い出す。

つまり、生物として生きることは「賭け」なのだ。

いかようにも変化しうる「卵」から生まれ、不可避的に周囲の影響を受け、その影響によってまた変化する生命として生きること。確かにそれは賭けでしかない。ゆえに、賭けであることが肯定されなければならない。

この本では、生命の「変化する力」そのものが肯定される。生命は状況に応じて様々に変化し、その結果として病や奇形の発生もある。しかしここでは、その「変化する力」こそが、生命が生き延びるための力そのものだとされる。生きるから変化するのであり、変化するから生きられるのだ。

揺らぎであり、不純であり、偏っていて、幾分かは奇形であること。だからこそ、世界という問いを担う実質であるもの。それをはじめから、そのままに肯定する倫理を描くことが要求されている。(第一部・Ⅲより)

副題の「解けない問いを生きる」も、このことと関係している。

世界には解けない問いが無数にあるが、今ここにある生命というものは、あらゆる解けない問いに対して出された答えの形である。生命は出された問いに対して、その場でできる限りの答えとして、自分自身を賭けのようにして形作る。

我々はみな、解けない問いに対して賭けのように差し出された答えなのであり、そのこと自体が生きているということなのである。

 

この本は現在ちくま学芸文庫から増補新版として出ているが、実はその後半部分は全て書き下ろしである。(よって新版の前半だけ読んでもよい)

後半部分は、ドゥルーズがフェリックス・ガタリとの共同作業で書いた本の内容に即している。前半の「生命」に対し、後半のテーマは「政治」だ。ここでは主に二人の共著である『千のプラトー』を引きながら、マイノリティーとテクノロジーの関係、そこから導かれる「マイノリティーの政治」の哲学について語られる。

 

次の一冊

この本で語られたテーマを、著者が本格的に展開したのがヴィータ・テクニカ 生命と技術の哲学』青土社)である。この本では、もはやテクノロジーと不可分の関係にある我々の生命についてどう考えればいいのかということが、特にドゥルーズフーコーを中心に参照しながら探求される。

 

檜垣立哉は軽めの本も多く出しているが、やはり生命哲学に関するものではこの『食べることの哲学』世界思想社)がある。この本では我々の食文化と生命の関係という、古く困難な問題について丁寧に語られている。実際に行われた、小学校で食用の豚を飼育するという実験授業の話などは忘れられない。(今年の大学入試共通テストの問題に使用されたそうです)