もう本でも読むしかない

仕方ないので本でも読む。SF・文学・人文・漫画などの書評と感想

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佐藤亜紀『吸血鬼』 われらの凡庸さという怪物

英雄的でない「歴史」について書くということ

 

入手困難だった佐藤亜紀の傑作、『吸血鬼』が待望の文庫化である。私が読んだ佐藤亜紀作品の中では一番好きな作品なのでとても嬉しい。ぜひ多くの人に読んでもらいたい。

舞台は19世紀のポーランドの僻地の村である。しかし実のところ、19世紀にポーランドという国は存在しない。プロイセンオーストリア、ロシアの三国による三度にわたる「ポーランド分割」により、ポーランドという国は消滅していたのだ。再度の独立は第一次世界大戦終結を待たなければならない。

この作品の舞台となる村は、上記のうちオーストリア帝国領に位置する。村に新任の役人として、主人公ゲスラとその妻が赴任して来るところから物語は始まる。ゲスラーは善良な、理想に燃える役人だ。帝国の名代として、村人をよく統治し、帝国臣民に相応しい健康で秩序だった暮らしをさせたいと願っている。また文学好きの彼は、詩人であるこの地の領主クワルスキとの交流も楽しみにしていた。

しかし彼が赴任してから間もなく、村では人々が奇妙な死を遂げることが相次いだ。村人たちは迷信に捉われ、吸血鬼の暗躍を恐れる。そして恐怖にかられた村人たちは、ゲスラーにとっては耐えがたい、ある慣習的な儀式を要求する……

老人の脇に坐って、役人は訊ねる。
──誰の葬式だ。
──産後の肥立ちが悪い女が一人死んだだけだ。わざわざ来てみたんだが、これじゃ無駄足だ。後でもう一度来てみるがね。
──何故。
──嫌な風が吹いてるだろう。墓の中で死人が目を覚ますにはうってつけだ。
役人は平静を繕おうとするが、目には動揺が浮かぶ。老人は憫笑する。
──勿論、お役人様は信じやしないだろうがね。
──町育ちなのでね。元はプラハだ。
──おれはクラカウだ。尤もクラカウなんて四十年も拝んじゃいないが。
老人は後ろの二人に何か叫ぶ。二人は馬車の御者に土地の言葉で保ちそうかどうかを訊ね、大声でその答を伝えてくる。老人は馬を少し急がせる。役人は両手で御者台の縁を掴む。
──まともに喋れもしない、死人が夜になるとうろつくと信じているような連中と四十年だ。まあ畑も買ったし、孫までいるんじゃ全くのどん百姓なんだが、今だに余所者だよ。渡りの仕事を引き受けてあちこち出張る方が余程いい。
──どんな仕事だね。
──墓を暴いて、死人の首を刎ねる、と老人は愉快そうに言う。──余所者の仕事さ。(「Ⅰ」より)

 

本当に恐ろしいものは何か

 

これはある程度ネタバレになってしまうかもしれないが(なので全く白紙の状態で読みたい方は先に小説を読んでもらいたいが)、この小説は怪奇小説ではない。この小説は佐藤亜紀の多くの作品と同じく、やはり歴史小説である。それも、このように「歴史」の姿を描いた小説はそう簡単には見つからないだろうと思うほどの。

この小説は怪奇小説ではないが、しかし確かに恐ろしい小説である。だが恐ろしいのは、例えばタイトルにある「吸血鬼」ではない。本当に恐ろしく、陰惨で、残酷なものは、ほかならぬ我々自身なのだ。しかも、それは例えば我々の中に秘められた「狂気」や「暗黒面」のような極端さではない。むしろ我々の誰もが持つ凡庸さ、我々の誰もが抱く恐れ、我々の誰もが克服できない弱さこそが最も恐ろしいものであり、歴史の陰惨さそのものなのだ──この小説はそのようなことを、濃密で芳醇な文章によって語っていく。

ここには痛快な物語も英雄的な登場人物も全く存在しないが、それこそが歴史に関する小説なのだということは、これまでも作者が繰り返し描いていることである。そして、痛快でも英雄的でもなく、凡庸で愚かであるがゆえに、この小説の登場人物たちはまさに生きているかのように複雑で、生命力に満ちているのだ。

 

次の一冊

 

佐藤亜紀の他の作品については、下記の記事もぜひご覧ください。

pikabia.hatenablog.com

 

この小説の舞台となっているオーストリア帝国についても、過去にブログで紹介したこの本が詳しいです。

pikabia.hatenablog.com

奈落の新刊チェック 2022年8月 日本文学・海外文学・現代思想・歴史・プレBL・非暴力・ポスト資本主義・アフロフューチャリズムほか

さてさて暦ももう9月、夏も終わりでいよいよ読書の秋に突入しつつありますが、新刊攻勢はとどまるところを知らず、欲しいものリストだけが膨張し続ける日々。しかし毎月やっていると本当に日本の出版文化はすごいなと思うわけですが、みんなキツい中でやってるでしょうし、いろいろな方向から支えがないとなあと思う次第です。では8月に出た新刊を見てみましょう。

 

 

入手困難だった佐藤亜紀の傑作がめでたく文庫復刊。19世紀ポーランドの片田舎で起こる惨劇とは……? これは傑作なのでみんな読もう。

 

現代思想入門』がベストセラーとなっている千葉雅也の初の小説が文庫化。野間文芸新人賞受賞・芥川賞候補作。

 

夭折した変格ミステリ作家の、没後の2016年に刊行された短編集が文庫化。石動シリーズ好きです。

 

萩尾望都の永遠の名作『トーマの心臓』の森博嗣による小説版、2009年の刊行から数えてなんと4バージョン目の登場です。

 

東京創元社からの刊行がなくなった後に、めでたく竹書房で続行中の年刊ベストSFアンソロジー大森望編。

 

耽美で幻想的な小説を多く遺した須永朝彦による、平安・鎌倉期の古典幻想文学アンソロジー。同シリーズで『江戸奇談怪談集』も出てます。

 

マゾヒズムの語源となったザッヘル・マゾッホの代表作が光文社古典新訳文庫で登場。翻訳はクラシックやオペラに関する著書も多い許光俊ヴェルヴェット・アンダーグラウンドの同名曲も有名ですね。

 

さらに眼球譚』と並ぶバタイユの代表作の新訳が月曜社から。翻訳は『「テル・ケル」は何をしたか: アヴァンギャルドの架け橋』などの著書のある阿部静子。

 

ブッカー賞候補となった、中国出身アメリカ在住作家による小説。ゴールドラッシュ後のアメリカを舞台に書かれた中国系移民の物語とのこと。翻訳は最近面白そうな小説をたくさん手がけている藤井光。

 

「プレBL」という呼称はなるほどという感じだが、20世紀前半に書かれたBL以前のBLを集成。

 

オースターの2000年代の中編2篇を合本。翻訳は安心の柴田元幸

 

19世紀のコペンハーゲンで殺人事件が発生。容疑者はハンス・クリスチャン・アンデルセン!どういうこと? 翻訳は池畑奈央子。著者はデビュー作『楽園の世捨て人』も翻訳されてます。

 

トルコのノーベル賞作家パムクによる2008年作が文庫化。翻訳はパムクの翻訳をほとんど手がけ、『物語 イスタンブールの歴史』などの著書もある宮下遼。この小説もイスタンブールを舞台にした恋愛小説のようです。

 

精神医学の大家・木村敏の1973年の著書が新たに文庫化。これだけ読み継がれている本はそうそうない。ハマスホイの装画も美しい。

 

ジェンダー・トラブル』で知られるバトラーの、暴力に関する著書。佐藤嘉幸・清水知子訳。

 

資本主義リアリズム』はすごいインパクトがあったマーク・フィッシャーが遺した最終講義を書籍化。原著2020年刊。翻訳はデリダやリー・マッキンタイア『ポストトゥルース』を手掛ける大橋完太郎。

 

カルチュラル・スタディーズ、メディア論について多くの著書が多ある吉見俊哉による、「空爆」についてのメディア論。ロシアのウクライナ侵攻までをカバーしている。

 

映画「ブラック・パンサー」の大ヒット時にもよくその単語を聞いた「アフロフューチャリズム」についての概説書がついに登場。著者はシカゴの批評家・映画作家とのこと。サミュエル・ディレイニーやジャネル・モネイのことも書いてあるようで気になります。翻訳は『シスタ・ラップ・バイブル』や『ディアンジェロ』などアメリカのポップカルチャーやブラックミュージックに関する訳書の多い押野素子。

 

主著『近代の正統性』や隠喩についての研究で知られるドイツの哲学者の初期著作。翻訳はニーチェなども手掛ける村井則夫。

 

ベンヤミンの翻訳や哲学・科学哲学に関する著作の多い山口裕之による、現在のメディア状況に対する哲学的考察。ここでもベンヤミンの議論が下敷きとなるようだ。

 

佐藤亜紀スウィングしなけりゃ意味がない』でも描かれたドレスデン爆撃について。著者はこれが初邦訳。訳者はナチスドイツ関連の翻訳が数点ある若林美佐知。

 

1918年に起こり、帝政ドイツの終焉ももたらしたドイツ革命について。ドイツ史を専門とする著者による、1988年刊行作の文庫化復刊。

 

ちくま学芸文庫よりヨーロッパの紋章入門が登場。カラー図版もあり。著者はイギリス史や紋章についての著書多数。

 

エジプトで出土したギリシアパピルスは古代地中海世界を今日に伝える重要資料だが、その本格的な研究書。著者はパピルス解読の第一人者だそうです。訳者の髙橋亮介はこれが初の訳書らしい。

 

これはひょっとして、往年の名作コミック『MADARA』の元ネタになった摩多羅神なのか……? 著者は日本の宗教思想史の大家で、特に神仏習合に関する著作が多い。

 

 

ではまた来月。

Horsegirlというバンドがすごいので、さりげなく紹介したい。

新たに発見されるもの

 

Horsegirlというシカゴのバンドの、このPVに衝撃を受けた。

www.youtube.com


まるで80年代から90年代のインディー・ロックではないか。なんでもこのバンドは2019年に結成していくつかシングルやEPなどを発表しており、その後名門レーベルであるマタドールと契約して、今年1stアルバムを発売したばかりとのこと。メンバーはまだ10代。

それにしても、曲だけでなく、この完璧な佇まいはどうだ。髪型、服装、仏頂面、ビデオの作り。完全に「あの時代」そのものだ。

いや、「そのもの」ではないのだと思う。たぶんここには何か決定的な新しさがあるのだと思う。そうであってほしい。10代である彼らとその同世代のファンにとって、これは30年も昔のロックとは似て非なるものであるに違いないと思う。

いや実際、メンバーはその当時のロックに深い影響を受けてはいるようだ。そのことはインタビューなどでもはっきり語られている。また彼らの世代にとっては、30年も前のロックというのは何かそれ自体がオルタナティヴな価値のあるものなのだという可能性も十分ある。

しかし私のような世代のロックファンは、ここで慎重になってしまう。彼らの音楽と佇まいには盛り上がらざるを得ないが、しかし彼らは決して自分のような世代のためにそれをやっているのではないはずだ。いやもちろん上の世代が盛り上がってもぜんぜん構わないのだろうが、その際に、何か「それはもともと自分たちの世代のものなんだぞ」という空気を出してはいけないと思う。というか、そういう空気を出されるのは迷惑だと思う。彼らは彼ら自身のためにそれを発見し、それをやっているのだから。

というわけで、まるで30年前のインディー・ロックが蘇ったかのように感じてしまうこのバンドを、しかし全く新しく独自のものとして、自分たちがよく知っているものではなく彼ら自身のものとして聴く、ということをこれからどうにかやっていきたいと思う。それが具体的にどういうことなのかはよくわからないのだが、できないことでもない気がする。

(実際にはこういう音楽は私よりも少し上の世代のものだと思うが、まあ10代から見たら誤差の範囲だろう)

 

6月にリリースされたデビューアルバム。

 

影響を受けた5曲をメンバーが語るインタビュー。

www.redbull.com

中谷礼仁『実況・近代建築史講義』は、美しい構成を持った理想的な講義の本だ

近代建築について知りたい!

 

私は建築に関してど素人なのだが、でも芸術の本を読んでいると建築のことがよく出てくるし、ちょっと建築、特に私は近代に関する本をよく読むので近代建築のことが知りたいなあと思っていた際にたまたま新刊で出ていたのがこの中谷礼仁『実況・近代建築史講義』だった。なんとも読みやすそうな体裁で、装丁もあまり大仰ではなく、実に手に取りやすい雰囲気の本であった。

この本は、実際に大学で行われた講義がもとになっている。ゆえに本文もですます調で、学生からの質問とそれに対する返答が組み込まれていたりもする。この形式も読みやすさの理由のひとつだ。2017年にLIXIL出版から刊行され、その後LIXILが出版活動を停止したため(残念……)、インスクリプトから復刊された。

 

本書を構成する三つの章


まずは構成を確認しよう。この本は三章からなるのだが、それぞれの章は単に連続しているというよりは、やや違った役割を持っている。

第一章「西洋近代―ルネサンスから産業革命へ」では、まずどのようにして西洋の近代建築が成立したいったかが簡潔に述べられることになるが、そこで大きなテーマとなるのは「様式」の発見だ。著者は中世末期、都市間の交通の発達によって人の移動が生じ、各地方の建築を比較するという見方を通じて初めて様式というものが発見されたとする。そしてルネサンスの時代、様々な意匠を様式として抽象化することによって初めて、人為的なデザインの選択が行われるようになった。中世までの建築は技術の自然的な成長によって変化してきたが、様式の発見によってその成長は止まり、その後現在に至るまでの「時間の宙づり」、つまり進化の終わりと人為的な〈モード(流行)〉の移り変わりが生じるのである。そしてその最初の〈モード〉こそが、ルネサンスにおけるギリシア・ローマの再興(古典主義)だったのだ。

その後、建築様式の変化は、問題の発見とその解決による様式の発見、そしてその様式が飽きられることによる新たな問題の発見──というサイクルを現在に至るまで繰り返すことになる。この第一章では以上の前提に従い、ルネサンスバロックマニエリスム新古典主義、折衷主義という各種の様式、そして産業革命万国博覧会という出来事を見ていく。

 

つづく第二章「モダニズムの極北―20世紀芸術運動と建築」ではいよいよ20世紀のモダニズム近代主義)建築について語られるのだが、ここで著者はやや大胆な方法を採る。モダニズムを包括的に紹介するのではなく、その実践の最も極端な形を抽出するのだ。モダニズムという運動の、いわば飛距離の最大値を示してくれるこの章はとてもダイナミックで、運動の一番面白いところを堪能できる。ミース・ファン・デル・ローエアドルフ・ロースル・コルビュジェ未来派、ロシア構成主義などの人名とキーワードがここでは登場するだろう。

またこの章では20世紀の建築が、同時代の様々な前衛芸術運動と関連付けられるのも面白い。ミース・ファン・デル・ローエによる、モダニズムの極北と呼ばれる究極の均質空間としての高層ビル〈フリードリヒ街のオフィスビル案〉が、同じくモダンアートにおける極北といえるカジミール・マレーヴィチのシュプレマティズム絵画と結び付けられる部分などは大変盛り上がる。

 

そして第三章「近代+日本+建築」は、前二章の内容を踏まえた上で、ではそれが日本でどのように展開されたのかを豊富な実例とともに紹介する。日本にとって近代建築とは、明治政府が「日本」という国家の主体を成立させるための方法のひとつであった。「近代」と「日本」という概念を同時に形としてまとめあげる方法として、西洋から建築という技術を取り入れたのである。この章では幕末から明治の建築、60年代の丹下健三、そして70年代以降、安藤忠雄から藤森昭信へと至る現代の日本建築を概観する。

 

駆け足で見て来たが、このように本書は、全体を構成する三章がそれぞれ「基本」「応用(それも極端な)」「日本でのローカライズについて語っており、この構成そのものが実に美しい。近代建築という大きな分野を語る際の、要素の整理の仕方としてとても理にかなっているし、なおかつ、なんというかエンターテインメント性がある。「これは理想的な『講義』の本だな~」と、読みながら幸せな気分になった。

このような構成を生み出すに至った、著者の基本姿勢を本の冒頭より引用しよう。

 

残念ながら私の講義では流れるような通史をお伝えすることはしません。それよりも、各時代のピークを表すような、問題提起的、あるいは象徴的な建造物とその背景をトピックとして説明していきます。点としての優れた建築的事象を、空間に置いていくようにお伝えします。
するとその点と点とがつながり、意味が生まれ、さらに点が増えると平面が出来、時には立体にもなる。その空間は次第に新しい事象を配置できる場となっていきます。それは建築の星座をつくることであり、私はそのためのガイドとなる基準点、ようはいくつかの印象的な点と粗い座標軸を提供しようとしています。(「歴史とは何か、近代とは何か」より)

 

SFファンはニヤリ

 

ところで余談なのだが、この本を読んでいると、ところどころで「この人、SFファンだな……」とニヤリとさせられる部分がある。この本では上記のように建築以外の分野との関連や照応関係についても触れられるのだが、そこで妙に頻繁にSFが登場するのだ。

特にすごいのはイギリスの折衷主義を紹介する部分で、折衷主義の美学の例としてフィリップ・K・ディック原作、リドリー・スコット監督の映画ブレードランナーが取り上げられるところだ。ここでは『ブレードランナー』のあの有名なビジュアルにおける文化と時間の混淆性が折衷主義の様式と関連付けて説明され、それは非常に納得のいく話なのだが、それにしても章のラストに敵キャラクターであるロイの、「いろいろな景色を見てきた お前たち人間には信じられまい」から始まる最後のセリフをまるまる引用するのは完全にやりすぎではないだろうか。

「いやこれ単にこのセリフを引用したいだけだろ!」と爆笑したが、私もそのセリフは大好きなので深く共感してしまった。(どんなセリフかご存じない方は、ぜひ『ブレードランナー』を見て確かめてください)

 

そのうち読みたい

 

かようにこの本を楽しみつつ、いざブログを書こうと調べた時に初めて、この姉妹編が出ているのに気づいてしまった。こちらでは古代ギリシアからルネサンスまでを扱っているということなので、今回紹介した近代編の前史ということになるだろう。当然読むしかない。

 

次の一冊

 

20世紀のモダニズム建築と、同時代の前衛芸術運動に深い関係があることは今回の記事でも触れた通りなのだが、そのような同時代の思想については例えばこの本などが面白かった。著者の塚原史はダダやシュルレアリスムなどのアヴァンギャルド芸術に関する本を多く書いている。この本では、全体主義ファシズム、無意味、未開、無意識といったキーワードと、20世紀の様々な芸術運動との関わりが論じられる。

 

 

近代、そして建築と言えばこのブログでも二度紹介した多木浩二。下記の記事も併せてごらんください。

pikabia.hatenablog.com

pikabia.hatenablog.com

岩﨑周一『ハプスブルク帝国』 とらえどころのない、1000年の大帝国

「名前の無い国」、ハプスブルク君主国

 

ご存じ、ドイツとオーストリアを中心に1000年続いたハプスブルク帝国についての新書が岩﨑周一『ハプスブルク帝国である。なにせ1000年の歴史があるので448ページとかなり分厚く、大変読みごたえがある。私もかなりゆっくり読んだ。

さて、「ご存じハプスブルク帝国」といっても、その実態はなかなか複雑である。ある意味、ハプスブルク帝国って結局どういう国なの?」というのが本書の眼目と言ってもいい。この本はハプスブルク家華麗なる一族とその偉大な歴史を書いた本というよりも、「ハプスブルク帝国」というものの非常にユニークなあり方を教えてくれるものだ。(そして後述するが、それは実をいうとそんなにユニークなものではないらしい。近年の歴史研究によれば、ハプスブルク帝国は、実際にはわりと「ふつうの国」なのだそうだ)

 

さて、この本のタイトルは「ハプスブルク帝国」だが、この国はどちらかというとハプスブルク君主国」と呼んだ方が正確らしい。それは神聖ローマ帝国オーストリア帝国との混同を避けるためだという。

私のような素人はここですでに混乱させられる。「ハプスブルク君主国」と「神聖ローマ帝国」と「オーストリア帝国」って別のものなの?

この辺が面白いところなので、ひとつずつ説明しよう。


ここまでの説明だけでもかなりややこしく、厳密に言うと間違っている部分もあると思うのでその辺はご容赦いただきたい。

ここで言いたいのは、ハプスブルク君主国は「国」と言っても現在の我々がイメージする「国」とはだいぶ違うということだ。領土も国民も政体も流動的で、貴族や聖職者、有力都市といった諸身分が大きな権限を持っており、王や皇帝と言えども好き勝手には統治できない。そして繰り返すが「ハプスブルク」というのは地域でも民族でもなく、王家の名前なのだ。この国は時に「名前のない国」とまで呼ばれるという。しかし近年の研究では、むしろそれが「ふつう」だったということが明らかになりつつあるらしい。

 

しかし近年の研究は、ハプスブルク君主国が思われているほど特殊な国家ではなかったことを強調する傾向にある。あえて言うなら、この国は性質や程度こそ異なれ、ヨーロッパ諸国と多くの特徴を共有する、「ふつう」の国だった。主権・領域・国民を具備した均質的・単一的な近代国民国家を理想とし、それに到達する進歩のプロセスとして歴史を描くスタンス(「近代史学」)が衰えた今日、ヨーロッパ史研究においては、多様性・複合性・流動性を前提として、他との比較や関係づけを通して諸国家のありようを考えるスタンスがスタンダードとなっている。(「はじめに」より)

 

してみれば、むしろハプスブルク君主国について知ることは、ヨーロッパ史の新しい考え方を知る近道かもしれない。

 

ハプスブルクを通して読むヨーロッパ史

 

実際、この本を読むと、ひとつの国の歴史としてここまでいろんなことが起こるのかと驚かされる。

ハプスブルク君主国の勢力範囲はヨーロッパのほとんど中部全域にあるので、ヨーロッパ史のあらゆる局面に深く関与している。中世都市の成立、大航海時代の始まり、スペインによる中南米の征服、東からのオスマン帝国の脅威、ルネサンスの勃興、宗教改革とそれに続く三十年戦争、そして近代主権国家の成立、などなど。

もちろんその中で、例えばアルチンボルド肖像画で有名なルドルフ2世、スペイン皇帝を兼ねたカール5世フェリペ2世「女帝」ことマリア・テレジア、そして悲劇の皇妃エリーザベトといったハプスブルク家の数々のビッグネームが登場する。

とにかく膨大な事項が書いてある本なので要約するのも無理なのだが、個人的に印象に残った点をいくつか挙げておこう。

 

まずはこのハプスブルク君主国が、その範囲内に膨大な民族と言語を抱えた国だということだ。ナショナリズムという概念が現れるはるか以前から広大な領域にわたって存在し、複雑な王位の継承と領地の授受を継続したことにより、現在でいうオランダやベルギー、スペイン、チェコハンガリー、そしてバルカン諸国の多くがハプスブルク君主国に含まれていた。ひとつの君主のもとに、現在からすれば考えられないほどの多様さがあったということであるし、それゆえ20世紀には特にバルカン半島で深刻な民族紛争が起こることにもなった。

また近世から近代にかけての市民革命、そして啓蒙主義の時代に、イギリスやフランス、またアメリカと比べても非常に複雑な経緯で社会の変化が起こっていたという点。もちろん上記の国々の事情も全く単純ではないのだが、民主主義と自由主義という近代の支配的な社会制度が、ハプスブルク君主国では君主制の中で行きつ戻りつしながら徐々に現れてきた様がこの本から窺える。近代の起源となった啓蒙主義というものの現れ方としてとても興味深かった。

そしてこの本の最終章はハプスブルク神話」と題されている。皇位継承者の暗殺で幕を開けた第一次世界大戦での敗北によってハプスブルク君主国が消滅した後、ハプスブルク家の統治に対する評価は変転していく。第二次大戦後にはハプスブルク文化の「復権」が起こり、ここでようやく、我々にとってのハプスブルク家のイメージが形成されてくるのだ。もちろんハプスブルク君主国に対する評価、各国の態度は一様ではなく、それを詳述することでこの本は終わる。

新書とはいえ、実に長大な印象の残る一冊である。

 

次の一冊

 

フランツ・カフカが生まれたのは現チェコプラハだが、当時のプラハオーストリア=ハンガリー帝国領であった。カフカハプスブルク君主国生まれのユダヤ人で、チェコ語母語とし、小説はドイツ語で書いた作家ということになる。ハプスブルク君主国の複雑さと多様さの一端がこのプロフィールからだけでも窺える。

 

ハプスブルク家についての神話を最も強烈に伝えるものの一つが、このミュージカルエリザベートだろう。1992年にウィーンで初演され大ヒットし、日本では1996年に宝塚歌劇団雪組によって小池修一郎の演出で上演され、その後宝塚と東宝ミュージカルで何度も再演されている。恋愛劇と歴史劇、史実と幻想の交錯し合ったパフォーマンスが圧倒的な迫力で繰り出される傑作ミュージカルだ。

リンクはトップ娘役、愛希れいかの引退公演となった2018年の月組版。

 

 

中世ヨーロッパの社会と近代国家形成の過程については下記記事もご覧ください。

pikabia.hatenablog.com

 

 

ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督『ブレードランナー2049』の限りのない寂しさ

名作の続編がまた名作だったという嬉しい驚き

 

リドリー・スコット監督ブレードランナーのファンであればあるほど、続編製作を知った時には「ええ~?」と感じた人も多かったのではないかと思う。私もそうだった。『ブレードランナー』という映画は私にとって非常に特別な感じのする映画で、続編を見てもどうせがっかりするだろうと思った。

しかし、ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督ブレードランナー2049』を見て、私はあっという間に掌を返し、映画館に二度行ったし、その後配信でも見た。今は、「ええ~?」とか思ってすみませんでした、素晴らしい続編をありがとうございます、という気持ちでいっぱいである。


一体人は、というか私は、ブレードランナーという映画に何を求めていただろうか。続編を作っても、何が継承されないだろうと疑っていたのだろうか。

それは一言で言えば、たぶん「寂しさ」である。「メランコリー」と言ってもいい。

私は、現代のアメリカ映画というジャンルが、あのような寂しい映画を作るイメージをあまり持っていなかったのだ。

 

一般的な現代のアメリカ映画は、だいたいにおいて、正統的な脚本術とでも言うべきものを守っている。映画の主人公は何か抱えていた問題を解決したり、潜在的に探していたものを見出したりして、その解決や発見が映画の終わりをもたらす。

もちろん現在のアメリカ映画は非常に多様であり、そのようではない映画もたくさんあるのだが、私はどうやら、それなりの大規模予算で作られたアメリカのSF映画という時点で、そのような「解決」を持った映画を想像していたんだと思う。

ブレードランナー2049』はそういう映画ではなかった。

 

見届けるものたち(この後ネタバレあります)

 

人造人間レプリカントとして過酷で無意味な任務に生きる主人公のKは、一時、奇跡的とも言える希望を抱いて、これまでとは全く違う世界に踏み出すかと思われる。物語はこの「奇跡」を巡って展開する。

「奇跡」とは何か? それは、本来なら生まれえないはずの、レプリカントが生んだ子供である。短命で一代限りの存在であり、ただ人間によって使役される道具にすぎない彼らは、この奇跡の存在に変革の兆しを見出す。

この奇跡の子──「The kid」と呼ばれる──は一応、実在する。するのだが、その実在によって何が変わるのかはわからない。何も変わらないかもしれない。ただその奇跡はレプリカントたちの希望となる。それが何を意味するかはわからず、結局は無意味かもしれないが、しかしその存在を知ってしまった以上、それは否応なく希望であり続ける……そんな希望だ。

(ゆえに、ともすれば「生殖」の神聖化に繋がりかねないこの物語は、しかし空虚であり続ける。物語を見ている我々は、そんな奇跡が存在するからといって世界に変革が訪れるなどとは思っていないのだ)

主人公のKは、その希望の源泉である「奇跡」に限りなく接近する。ある手がかりにより、自分がその奇跡そのものであるということを、疑いつつもやがて確信するのだ。この時世界の全てが変化する。無意味であった世界が初めて意味を持ったかのように。

しかし、その確信は偽の確信だったことが明らかになる。Kはこれまでに自分が考えていた以上のものではなかったことが判明する。何も変わらない。何も解決しない。何も見つからない。そしてそのまま映画は終わる。

 

いや、厳密に言えば、Kは何も見つけなかったわけではない。彼は「奇跡」が存在することを確認した。彼自身は何者でもなかったが、奇跡は起こっており、それは実在するのだ(前述の通り、それは無意味な奇跡かもしれないが)。Kはそれを見届ける。それを見届けることだけが、Kにできたことだ。

かつての『ブレードランナー』においても、主人公は見届けるだけの存在だったと思う。確かに、主人公デッカードレプリカントレイチェルと恋に落ち、共に過ごすことにはなる。ある意味でそれは、デッカードがレイチェルを手に入れる物語だ。

しかしこの映画で最も印象深いのはそこではない。デッカードの前で短い寿命を迎えて死んでいくレプリカントたちの方だ。人間のように生きようとあがき、しかし果たせずに消えて行く彼らの姿を、デッカード見ていることしかできない。(そしてその姿はレイチェルの未来をも予感させる)

ふたつの『ブレードランナー』に共通しているのはこの無力感だ。主人公たちは何もできない。確かに彼らはその時自分に与えられた役割を果たし、そのことによって誰かを救い、物語は一応の解決を見せる。しかしそのことよりもずっと印象に残るのは、彼らが変えられなかったことの方である。これが『ブレードランナー』の寂しさであり、メランコリーだ。

ブレードランナー2049』は、この部分を前作から過たず引き継いだ。そして、まるでレプリカントを演じるために生まれたのではないかと思ってしまうライアン・ゴズリングの演技と佇まいは、それを完璧に表現している。

もちろんこの映画は数多くの挑戦と創意と技術によって作られた傑作であり、そのことは前作とはあまり関係がない。『2049』は前作が傑作だからではなく、それ自身の力で傑作であると思う。だがそれはそれとして、『2049』は、私が『ブレードランナー』にとって最も大切だと思っていた部分を継承しているのだ。

 

過去と未来が交錯する「寂しさ」のイメージ

 

ブレードランナー2049』は全編が寂しく美しいイメージで彩られた映画だが、その中で最も寂しいと思うのは、砂漠化したラスヴェガスに打ち捨てられたカジノホテルのシーン、照明の落ちた真っ暗な劇場で、壊れたリールが巻かれる音とともにきれぎれに再生されるエルヴィス・プレスリーマリリン・モンロー立体映像だ。美しい過去、輝ける過去(しかしその背後にはもちろん暗い部分がある)を象徴するそれは、我々にとっての過去であり、『ブレードランナー』にとっての過去であり、「映画」というジャンルそのものにとっての過去である。それはハリウッドの古代の神々だ。多重の、そして両義的な過去が、ホログラムと音楽の断片となって廃墟の暗闇に束の間現れ、そして消えて行く。

他にもこの映画には、どこまでも続く瓦礫の台地、不毛の地に一本だけ残る枯れ木、Kの拠り所であるホログラムの女性、広告に溢れた街並み、レプリカントを製造するウォレス社の水紋が揺れる内部空間など、荒廃と虚像、美と権力をはらんだイメージが充満している。

そのこともまた、その斬新なイメージによって一時代を築いた前作の美意識を、形を変えて受け継いでいると思う。

 

そのうち読みたい

そのうち読みたいというか価格が税込14300円なのですが、関連書としてはこれが決定版なんだろうなと思う。日本語版の特典として「SFマガジン ブレードランナー2049特別版」という16ページ小冊子が付いているそうです。

 

次の一本

完全に前作を見ている前提で書いておりましたが、もし見てない方がいらっしゃいましたらぜひリドリー・スコット監督の前作もどうぞ。寂しくてメランコリックなSF映画の金字塔です。

 

ヴィルヌーヴ監督がテッド・チャンの名作短編を映画化したこちらも良かったです。原作本もすごい短編集なので合わせてどうぞ。ちなみに原作短編のタイトルがあなたの人生の物語で、その映画化タイトルが「Arrival」で、その邦題が「メッセージ」です。ややこしい。

 

でもって『2049』の後にヴィルヌーヴ監督の超出世作になったのがこちら。今回は打って変わって明快なエンタメ大作ですが、巨大帝国の権力を表現する美と暴力のイメージは圧巻です。全二部作。未読ですが原作もかっこいい新カバーで新訳復刊。

 

『2049』はとにかく映像が死ぬほど美しくてカッコよくて寂しいのですが、この映画でアカデミー撮影賞を受賞したロジャー・ディーキンスが同じく手掛けたのがこちら。この映画も大好きで何度も見てます。ダニエル・クレイグ版007の中で一番好きですし、007というシリーズに対する自己批評的な作品なので、むしろシリーズをよく知らない人に勧めやすい気がします。

 

 

 

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2023年9月に開催された「第三回かぐやSFコンテスト」に投稿した短編SF小説が、選外佳作に選ばれました。近未来のパリを舞台としたクィア・スポーツSFです。

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こちらはカクヨム公式企画「百合小説」に投稿した、ポストコロニアル/熱帯クィアSF。

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松浦理英子『ヒカリ文集』 「恋愛」の定義を増やすための小説形式

6人の視点から語られる、ひとりの女性

 

『ヒカリ文集』は、2017年の『最愛の子ども』に続く、松浦理英子の最新作である

『最愛の子ども』については以前に紹介したので詳しくはそちらの記事を見てほしいが、これは非常に特異な形式を持った小説であり、またその形式自体が小説の本質と言ってもいいような小説であった。この小説は一人称視点でも三人称視点でもない「わたしたち」視点によって語られ、その視点の主体、さらにはそこで語られることの真偽までもが曖昧なままで進むのだ。

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そして今回の『ヒカリ文集』はというと、前作ほど前衛的ではないものの、やはり非常に凝った形式の小説となっている。

今回の物語はある学生劇団に所属していた賀集ヒカリという女性を巡って展開するのだが、この小説そのものが、他の劇団員たちがヒカリのことを回想して書いた文章を集めた「文集」の形を取っているのだ。ヒカリについて書かれた文章を集めた文集、ゆえに『ヒカリ文集』というわけである。

賀集ヒカリのことを回想する人物は、男性3名と女性3名の計6名。この6名全員が、かつてヒカリとある種の恋愛関係にあったという設定である。大学を卒業し、劇団からも去っていった彼ら6名がある時集まり、長く会っていないヒカリのことを懐かしんだことをきっかけに、彼らはそれぞれのヒカリとの思い出を綴って文集を作ることを思い立つ。この小説は、この6名が書いたそれぞれの視点の物語の集合なのだ。

 

松浦理英子の「恋愛小説」

 

前作『最愛の子ども』には恋愛要素も確かにあったものの、決して恋愛がメインテーマではなかった。むしろ恋愛なのかそうでないのか、仮に恋愛であるように書かれていたとしてもそれが事実なのか妄想なのか、それすらわからないという小説だった。それに比べると、今作はかなり正面から恋愛を描いた小説と言える。もともと松浦理英子はそのキャリアにおいて多くの印象的な恋愛小説を書いてきたが、今作は、前作における形式の実験を経て、それを踏襲しつつ恋愛小説に回帰した作品なのかもしれない。

さきほど、語り手となる6名全員が、賀集ヒカリと「ある種の恋愛関係」にあると書いたが、松浦理英子の読者であれば、この「ある種の」という限定の部分にこそ重点があるのがわかるだろう。

この作家の小説では、恋愛というものがはっきりと形の定まった自明の何かであったことはおそらくない。今作もまた、6名の語り手がひとりの人物をそれぞれに恋愛の相手として語る、という形式によって、「恋愛」の定義は幾通りにも変化していく。恋愛小説と言っても、この小説において「恋愛」は少なくとも6通りの概念として登場するのだ。そのような豊かさを味わうことは、つねに松浦理英子の小説を読むことの喜びである。

 

恋人として過ごした最後の日、うちの近所の小さなレストランでディナーを取った後、近くの公園で別れようという時に、予想通りあたしは号泣してしまった。ヒカリもあたしの手を取って泣いた。でも、ヒカリの涙は演技の涙だったと思う。食事中からヒカリは3か月の約束を無事果たせたことにほっとしている様子で、あたしに背を向けたとたんに解放感で会心の笑みを浮かべて走り出しそうだったからだ。それでも泣いて嘘の恋をきれいに締めてくれたのだから何の文句もなかった。

ヒカリはほんとうに恋のできない人だったのだろうか。あたしの身近には30歳を越えてからようやく恋愛感情を知りそめた人もいるから、ヒカリだってあれからの長い歳月で恋に繋がる出会いがあったかもしれない。恋をしてほしいともしないでほしいとも思わないけど、ただ知りたい。(「小滝朝奈」より)

 

キラキラ文庫

 

ところで余談だが、以下のくだりは爆笑してしまった。

才気煥発なメンバーたちの間では、単色のグラデーションの表紙に金色か銀色で作品名を箔押しした、見るからに高尚そうで高価そうな文庫本がやりとりされていた。そのシリーズの文庫本は、角度によって金箔や銀箔がキラリときらめくので、劇団内ではキラキラ文庫とかキラ文庫とか呼ばれていて、値段が張るせいでそうそう買えないため、持っている者が読みたい者に貸す風習があった。(「小滝朝奈」より)

キラキラ文庫、高いですよね。

 

次の一冊

 

さっきも貼りましたが、他の松浦作品についてもこちらを参照ください。

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そのうち読みたい

 

まだ読んだことないのがこちら。代表作と言われることもありますね。

 

 

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