もう本でも読むしかない

仕方ないので本でも読む。SF・文学・人文・漫画などの書評と感想

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寅年なのでボルヘス「Dreamtigers──夢の虎」を読もう

虎と言えばやっぱりボルヘス

 

新年あけましておめでとうございます。寅年ですね。

虎と聞いて真っ先に思い出す文学者と言えば、虎が大好きなアルゼンチンの巨匠、ホルヘ・ルイス・ボルヘスです。膨大な知識と緻密で複雑な構成による短編作家として有名なボルヘスですが、なんか虎の話になるとすごく直球になるのがちょっと可愛いんですよ。

詩と短い散文を集めた『創造者』鼓直訳・岩波文庫)に収録された「Dreamtigers──夢の虎」の冒頭部を引用します。

 

 

幼いころ、わたしは熱烈に虎にあこがれた。 パラナー河のホテイソウの浮洲や入りくんだアマゾン川の奥地に棲息する、斑のそれではなく、戦士でさえ象の背に築かれた城からのみ立ち向かうことのできる、縞模様の、アジア産の 、王者のごとき虎にである。 わたしは、動物園の檻の前にいつまでも立っていたものだ。 大部の百科事典や博物学の書物も、挿画の虎の出来の良し悪しで評価した。(「Dreamtigers──夢の虎」ボルヘス『創造者』(鼓直訳・岩波文庫)所収)

 

どうでしょう、この愛の深さ。この詩は文庫で2ページ分だけの短いものですが、この後さらに虎への愛が美しく語られております。私が一番好きなボルヘスの文章かもしれません。ぜひ読んでみてください。

 

 

ボルヘスの虎愛は半端ないので、虎の詩は他にもあります。思潮社の海外詩文庫から出ているボルヘス詩集』には、「群虎黄金」という詩が収録されており、こちらもとても良いです。

 

またこちらの写真つき詩文集『アトラス』には、晩年のボルヘスがついに虎と対面した時の写真が収められており、必見です。この本は、晩年のパートナーであるマリア・コダマが撮影したスナップ写真にボルヘスの短文を添えた、ボルヘス流の旅行記のような本です。

 

 

それでは今年もよろしくお願いいたします。

 

 

※追記

ボルヘスの小説ガイドを作成しましたので、ぜひご覧ください!

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台湾日記:ビルの谷間の夜市と雞肉飯

台湾と言えば夜市が有名だが、夜市もいろいろある。台北に住み始めて間もない頃、仮住まいの周辺を徘徊しているうちに、ひとつの小さな夜市を見つけた。

 

その周辺を私はすでに何度も何度も通り過ぎていたのだが、道を一本曲がったらビル街の間に夜市があるなどと予想もしていなかった。(後からよく見たら通りに看板が出ていたのだが、最初はたいていの看板が何なのかわからない)
新生北路シンシェンベイルーとの交差点から民權東路ミンチェンドンルーを西に少し行くと、雙城街シュアンチャンジエという小さな通りが北に伸びている。ビルとビルの間に隠れるようなその通りを北上すると、やがてビルの谷間の小さな公園が通りの左右に現れ、その中心を抜けるとそこが雙城街夜市シュアンチャンジエイエシーだった。

 

奥の木々の間を抜けると雙城街夜市

 

台湾の夜市というと、有名な士林夜市シーリンイエシーのような、大規模できらびやかなものを想像する人が多いだろう。そのような夜市はよく観光夜市などと呼ばれ、その名の通り観光客が多く訪れる。私の仮住まいの近所にあった雙城街夜市は少し違って、小規模で地元の住民が集まる夜市だ。
観光夜市には巨大な揚げ鶏やマンゴーかき氷など祝祭感のある食べ物が多くあり、またゲームコーナーなどもあって縁日のような雰囲気がある。そしてすごく人が多い。
対して地元の小さな夜市は、台湾の人々が普段から普通に食べているものばかりが小さな屋台で並んでおり、その辺にテーブルと椅子が置かれ、気楽に食べることができる。

 

しかし小規模とは言え、住処の近くとしては圧倒的な物量であった。1ブロック分の通りに、背中合わせに2列になった小さな屋台が連なっている。その通りを挟んでいる路面店もだいたい飲食店だ。台湾では人々の外食の頻度が非常に高い。どんな店でも持ち帰り(打包ダーバオという)ができるので、家に買って帰って食べる人も多い。夜市などでなくても、とにかく街のいたるところに小さな飲食店や屋台があり、人々はそこで自分や家族の食事を調達する。

 

私は雞肉飯ジーローファンが食べたかった。これは薄味で煮込んだ鶏肉を、ダシと一緒にご飯にかけたものだ。そういう、優しい味のものが食べたかったのだ。このようなローカルな店では、中国語で注文するしかない。路面店なら記入式の注文用紙もあるが、屋台にはない。
中国語はイントネーションが命だ。言葉は間違っていなくても、イントネーションが違えば通じないことが多い。そしてイントネーションを正確に伝えるには気合が必要だ。「雞ジー」は一声。高く一定の音程をキープ。「肉ロウ」「飯ファン」はともに四声。高音から低音へと一気に下降する。注意しなければならないのは、「肉」でいったん下がった音を「飯」の出だしでもう一度最高点まで上げなければならない。中国語は上下運動がものを言うのだ。ゆえにそれは歌っているようにも聞こえる。

 

私はご飯ものを揃えた屋台に並んで、自分の番が来ると「ジー!ロウ!ファン!」と叫ぶように注文した。

 

 

 

台湾のローカルフードに関しては最近刊行されたこの本が詳しい。詳しいというか、圧倒的。

 

 

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國分功一郎『暇と退屈の倫理学』 ミステリ小説のように読める哲学、そしてフェアプレイ感

私の哲学との出会い

 

國分功一郎『暇と退屈の倫理学が、10年の時を経ての文庫化である。この機会にみんな買ってほしい。最初は2011年に朝日出版社から、次に増補新版が2015年に太田出版から出ている。このご時世に、哲学の本が10年で3バージョンも出るというのもそうそうないことだと思う。私が哲学というものを読んでみようかなと思った頃にちょうど出たのが著者のデビュー作スピノザの方法』みすず書房)で、それを読んで「哲学ってすごく面白いな!」と思った私は同年に出た『暇と退屈の倫理学』も迷わず手に取ったわけだ。

 

 

なぜ人は自由な時間を得たのに退屈してしまうのか?


『暇と退屈の倫理学』のテーマはその名の通り「暇と退屈」である。人間は歴史の中であれほど努力して自由な時間を獲得したのに、なぜ自由な時間があるのに暇と退屈を感じてしまうのか、という素朴な疑問が、人間に関する驚くほど深い思索に繋がっていく。人はなぜ退屈するかという理由を古今の書物から探るうちに、我々が生きる上でとらわれているものや、我々の考えを方向付けているものが次々と暴き出されていく様はスリリングで興奮する。
著者は、目的を達成してやることがなくなってしまうと人は不幸になると主張するバートランド・ラッセルの言葉を引用した上で、こう述べる。

そう、ラッセルの述べていることは分からないではない。だが、やはり何かおかしい。そして、これをさも当然であるかのごとくに語るラッセルも、やはりどこかおかしいのである。(略)やはり私たちはここで、「何かがおかしい」と思うべきなのだ。(序章「「好きなこと」とは何か?」)

 

探偵小説のような哲学の本


國分功一郎の本はいつも少しミステリっぽい。最初に著者は疑問を抱き、大きな謎が提示され、そして探偵のように手がかりを集め、分析していく。その際、重要なのはフェアネスだ。ズルをせず、誤魔化さず、ちょっと気になったことをスルーせず、先人たちが残した手がかりを批判的に検討することによって導き出される結論を提示すること。それが読みやすさと説得力をもたらすのだ。私は著者の『スピノザの方法』と『暇と退屈の倫理学』を読んで、哲学とは、物事の根本にある仕組みをフェアな論理によって説明する試みだということを知った。(ただしこのことは、その結論が絶対に正しいということを意味しない) 
そしてこの本は、結論だけ抜き出して読んでもあまり意味がない。意味がないというか、あまり面白くないと思う。哲学の本はだいたいそうだが、この本もまた、著者の考える道筋を体験することに面白さがある。結論に至る道筋そのものが、読者の認識を組み換え、読者に影響を与えるのだ。

 

かつては労働者の労働力が搾取されていると盛んに言われた。いまでは、むしろ労働者の暇が搾取されている。高度情報化社会という言葉が死語となるほどに情報化が進み、インターネットが普及した現在、この暇の搾取は資本主義を牽引する大きな力である。
なぜ暇は搾取されるのだろうか? それは人が退屈することを嫌うからである。人は暇を得たが、暇を何に使えばよいのか分からない。このままでは暇のなかで退屈してしまう。だから、与えられた楽しみ、準備・用意された快楽に身を委ね、安心を得る。では、どうすればよいのだろうか? なぜ人は暇のなかで退屈してしまうのだろうか? そもそも退屈とは何か?(序章「「好きなこと」とは何か?」)

 

次の一冊


『エチカ』を著した17世紀オランダの哲学者スピノザのエッセンスを、その「方法」に求めた研究が著者のデビュー作スピノザの方法』みすず書房)だ。この本もまた、最初に提示された「謎」を解明していくうちに、いつの間にか読者はスピノザの哲学を体感することになる。わりと歯ごたえのある本だが、なんなら第二章のデカルトの話を飛ばして読むという手もある。

 

 


上記の本はさすがに手が出ないという人にも安心、著者はスピノザの新書も出している。『はじめてのスピノザ 自由へのエチカ』講談社現代新書)は「NHK100分de名著」のテキストをもとに増補改訂されたもので、自由と喜びを重んじるスピノザ哲学のエッセンスが平易に語られている。お勧めです。

 

 

 

さらに読みやすいのがこの人生相談本『哲学の先生と人生の話をしよう』朝日文庫)。メールで寄せられた人生相談のテクストに「書いていないこと」を著者が読み取っていく様はまさに探偵。本音を隠して探りを入れる相談には厳しく、抑圧されて本音を言えなくなっている相談には優しい。

 

 

追記:同著者の『近代政治哲学』についてブログで紹介しました。あわせてご覧ください。

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映画「シャン・チー」でケイティがシャン・チーの名前をなかなか発音できないシーンの解説

中国語の発音は難しいぞ

 

「シャン・チー テン・リングスの伝説」は初めてアジア系ヒーローが主人公となったMCU映画なわけだが、特に印象的だったのが、主人公シャン・チーの親友ケイティがなかなかシャン・チーの名前を発音できないシーンだ。
私も中国語を勉強していたので、今回はこのシーンの会話を詳細に見てみよう。

 

 

 

以下はDisney+の各国語字幕を書き起こしたもの。マカオに向かう飛行機の中で、シャン・チーが自分の本名をケイティに明かす場面だ。
なお仮の名前であったショーン(Shaun)は漢字では「尚恩」となっているが、これは当て字で、この漢字が発音に対応しているわけではない。(あえて漢字の通りに発音すればシャン・アンまたはシャン・ウンみたいになる)

 

「僕の名前はショーン(尚恩/Shaun)じゃないんだ」
「じゃ何?」
「シャン・チー(尚气/Shang Chi)」
「ショーン・チー(尚恩-气/Shaun-chi)」
「違う、シャン・チー(尚气/Shang Chi)」
「ショーン・チー(尚恩-气/Shaun-chi)」
「シャン(尚/Shang)」
「シャン(山/Shan)」
「S・H・A・N・G、シャン(尚/Shang)」(人差し指で、音が高音から低音に下がる仕草)
「シャン(尚/Shang)?」
「そう」


ケイティは「尚」がなかなかうまく発音できない。
この難しさはよくわかる。特に後半で出てくる「山/Shan」と「尚/Shang」の違いはかなり難しい。


まず中国語には四声という四種のイントネーションがあり、これを守らないと通じない。尚/Shangは第四声という上から下に下降する音程で、だからシャン・チーはジェスチャーでそれを指示している。その前にケイティが言った「山/Shan」は第一声といって、高めの音を一定に保つ。
そして子音の部分、「ang」と「an」の違いはさらに難しい。「an」は軽く「アン」という感じなのだが、「ang」は「アォーン(グ)」のような、アとオの中間で最後にンのようなグのようなニュアンスが加わる。この区別は正直言って私もあまりできていない。


こういう、英語とは違う中国語の発音のこだわりが、あの飛行機の中の短い(しかし名前を伝えるだけにしてはけっこう尺を取った)シーンで表現されているわけだ。
(なお私は映画館で中国語字幕で見たのだが、映画館の字幕ではもっとたくさんの漢字が当てられていて楽しかった)

 

ケイティのチャイニーズ・ネーム


もうひとつ、中国語に関して印象深かったのは、シャン・チーの父親で敵役のウェン・ウーがケイティに中国語名を尋ねるシーンだ。
殺し合いを経てウェン・ウーに連れていかれ、秘密結社テン・リングスの本拠地でのどかに食卓を囲んでいるという微妙な空気の流れるシーンで、ウェン・ウーが不意にケイティの中国語名(チャイニーズ・ネーム)を尋ねる。


ケイティは戸惑ってシャン・チーと顔を見合わせた後、「ルイウェン(Ruiwen/瑞文)」と答える。
英語圏で暮らす中華系の人々は、中国語名と英語名の両方を持っていることが多い。ケイティも普段はケイティとして過ごしているが、ルイウェンという中国語の名前も持っているのだ。
それを聞いたウェン・ウーはケイティに対し、「名前は神聖だ、自身だけでなく先人とも繋がる」と告げる。

サンフランシスコを舞台とする序盤のシーンで、ケイティの家には中国語を話す祖母が登場した。清明節(祖先を祀る伝統行事)に死んだ祖父にお供えをする祖母の考え方を古いと言いたげなケイティに対して母親が「米国人の発想」とたしなめ、それに対してケイティが「ママは米国人でしょ!」と返していたのが、ここで思い出される。

とはいえ、これは別にケイティが祖先に対する敬意を失っているということではない。ただ、自分たちのルーツに対する考え方が、ケイティとケイティの祖母、シャン・チーやウェン・ウーの間でそれぞれ違うのだ。

 

これら一連のシーンは物語に対してそんなに大きく影響するわけではない。しかしここには、世界中で暮らす中華系の人々のアイデンティティのあり方について、複数の視点が現れている。こういう部分が、MCU初のアジア人ヒーロー映画の「シャン・チー」の魅力のひとつだと思う。

ベンヤミン入門におすすめの文庫はこれだ!多木浩二『「複製技術時代の芸術作品」精読』

この本がベンヤミン入門に最適だと思う理由

 

私はヴァルター・ベンヤミンがとても好きなのだが、何せ読みづらい文章を書く人なので、なかなか人に勧めづらい。

入門書もあまり出ていない。

そんな中で数少ない、「これを最初に読めばいいんじゃないかな……」と思える本が、多木浩二によるベンヤミン「複製技術時代の芸術作品」精読』である。

岩波現代文庫なので、紙と製本も最高だ。撫でるだけで半分くらい元が取れる。

 

 


この本は何が素晴らしいかというと、ベンヤミンが書いた「複製技術時代の芸術作品」本文と、それに関する多木浩二の詳細な解説が一冊に収まっているところだ。

ベンヤミンのかっこいいけどややこしい文章を、丁寧な読解付きで読むことができる。

ちなみに2000年発行だ。いつまで生き残っているかわからないので、新刊で手に入るうちに買ってほしい。

 

ベンヤミンの代表作「複製技術時代の芸術作品」


さて、「複製技術時代の芸術作品」というのは、おそらくベンヤミンが書いたものの中で一番有名なもののひとつだと思う。

そう、あのアウラが出てくる文章だ。生の芸術作品が持っている「アウラ」というものを、複製芸術は持っていないというあれである。

ところが、これはしばしば勘違いされがちな部分なのだが、ベンヤミンは「複製芸術はアウラが無いからダメ」と言っているわけではないのである。

かと言って、「やっぱりもう複製芸術の時代なんで、アウラとか古いですよ」と言っているわけでもない。ベンヤミンはどちらかというと引いた目線で、これから複製技術などなどによって世の中が変わって行きそうですよ、ということを淡々と分析しているのだ。

ベンヤミン本人はおそらく、古い時代に愛着を持っている人だと思う。しかし批評家としての彼は、二十世紀初頭の世界を見て、時代が不可逆的に変わって行くことを冷静に見ていたんだと思う。
そして大事なことは、ベンヤミン時代が変わると人間自身が変わると言っていることだ。

人間は不変ではなく、技術や社会が変化すると、人間の知覚そのものが変化していく。人間の、「本来のあり方」のようなものはなく、人間は外界の影響でどんどん変わって行くのだと言っているところが、「複製技術時代の芸術作品」の特に好きな部分だ。

 

ファシズムが利用する芸術・ファシズムに抗する芸術


さらに、ベンヤミンは何について話していても、だいたい常に政治の話をしている。

複製技術と芸術の話も、行きつくところはファシズムとそれの関係だ。ファシズムは大衆を動員するために、芸術的な価値を「政治の美化」に利用するベンヤミンはいう。

その政治の思惑を把握し、ファシズムに対抗するために、ベンヤミンは芸術に関する知覚の変化を分析しているのだ。(複製技術による知覚の変化とファシズムによるその利用の関係はわりと複雑な話なので今後の課題とします)


ベンヤミンの文章ははっきり言って難しいが、この本であれば多木浩二が詳細に解説してくれる。多木浩二は美術や写真や建築についてたくさんの本を残した人で、ユルさの無い、なんというかりりしい文章が魅力だ。

彼(ベンヤミン)の関心は、当時の社会的諸条件のもとで「芸術」と、それを受け取る人間の関係がどんなに変わったか、その傾向を捉える諸概念を探求することであった。この変化はたんなる趣味の変化とか流行の問題ではなかった。もっと根本的な歴史の変動であった。この歴史的変動を無視し、すでに効果を失っている「芸術」に関する伝統的な諸概念(「創造性や天才性、永遠の価値や神秘の概念」)を温存するなら、「芸術」はファシズムによって巧みに利用されてしまうと彼は考えたのである。(多木浩二ベンヤミン「複製技術時代の芸術作品」精読』「2 芸術の凋落」)

 

次の一冊

 

実は同じシリーズで今村仁司によるベンヤミン「歴史哲学テ-ゼ」精読』というものが出ており、こちらもすごくお勧めなのだが、どうやら入手困難のようだ。古本で探してください。

 

 

ベンヤミンは短い文章ばかり残していて、生前に本にまとまったものがあまりない。

ちくま学芸文庫の『ベンヤミン・コレクション』シリーズが網羅的だが、分厚い上にたくさん出ていて敷居が高いので、最初に買うなら一冊で有名な文章がまとまった河出文庫ベンヤミン・アンソロジー』(山口裕之編訳)が便利。

 

 

ベンヤミンの入門書としては、2019年にようやく新書で出た柿木伸之『ヴァルタ-・ベンヤミン 闇を歩く批評』が読みやすいと思う。これはベンヤミンの人生を辿りながら主要な仕事を紹介してくれる。

 

追記:多木浩二の他の著書についてもブログで紹介しました。ぜひこちらもご覧ください。

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2023年9月に開催された「第三回かぐやSFコンテスト」に投稿した短編SF小説が、選外佳作に選ばれました。近未来のパリを舞台としたクィア・スポーツSFです。

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こちらはカクヨム公式企画「百合小説」に投稿した、ポストコロニアル/熱帯クィアSF。

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『ひらいて』ほか、綿矢りさのバキッとした文体が好き

祝・『ひらいて』映画化

 

(※注意)いきなり中盤のネタバレあり。

綿矢りさ『ひらいて』新潮文庫)がいつの間にか映画化していた。

綿矢りさ『インストール』からわりと読んでるけど、『ひらいて』は一番好きかもしれない。主人公の女子高校生が、同じクラスの男子に片思いしてるんだけどどうにもならず、弾みでその男子の彼女と一線を越えてしまうという話だ。

主人公による、「わたし、あんたの彼女抱いたよ」というモノローグは忘れがたい。

 

 

 

簡潔で、エモーショナルだが甘くない文章


綿矢りさの好きなところはとにかく文章自体だ。

短く簡潔でバキっとしていて、エモーショナルだが甘くない。どこか乾いている。ザクザクと論理的でしかも官能的。そういうところのバランスがすごくしっくりくるのだ。

人間誰しも感情と理性の間で揺れ動いて生きていると思うが、その両者の間での引き裂かれ方やバランスの取り方が、作者の文体から登場人物にも反映されているような気がする。

 

過剰を戒める彼の声は、逆に私を過剰へと誘う。過剰さは悪、退廃、点滅、夢見てはいけない堕落。山の頂きは信仰の対象なのに、高すぎる人工の塔は、満足感と同時に人間をうっすら怯えさせる。禁忌なんていい加減な、人によって程度の差のある概念なのに。私がもし何にも怯えずに暗闇を走り続ければ、過剰さも悪も混ざり合い、うすべったくなって、最後には消えてくれるかもしれない。
ぬるい水で何倍も希釈された薄くけだるい午後の授業のなか、私の身体の真ん中の熱く固い矢じりは、終業のベルばかり待ち望むクラスメイトたちの合間を縫い、窓際へ、彼へ、急激に引き寄せられる。強い磁力で、じりじりと、抗いがたく。(綿矢りさ『ひらいて』)


この小説のクライマックスでも、主人公の大胆な行動によるダイナミックな、でもどこか突き放したような結末が訪れる。

一気に読まされるそのクライマックスは本当に素晴らしくて、読み終わった後に台風が過ぎたような感じがした。

 

次の一冊


最初の『インストール』と『蹴りたい背中』で、ピリリと辛い軽妙な青春小説を印象づけた作者が次に『夢を与える』を出してきた時にはみんな驚いていたように思う。いきなり重厚でドロドロな芸能界ものとは。

でもこの小説を読んだ時に、綿矢りさって自分が想像してたのよりもさらにすごい作家なのかもしれないと思った。そしてその予感は当たっていたのだと思う。

重厚でドロドロといっても、そこは綿矢りさなので、ドロドロさに溺れないというか、沼地を冷たい風が切り裂くような感じがある。

 

 


2021年に芥川賞を獲った宇佐見りん『推し、燃ゆ』河出書房新社)を読んだ時、冒頭の疾走感と乾いた感じが綿矢りさに似てるなと思った。

しかし読み進めてみると実は少し違って(別人なので当たり前だが)、これはもっと自分自身が抱えるものの重さと必死に格闘しているような小説だった。

冒頭の疾走感はその重さからのつかのまの脱出だったのかもしれず、その後も重さと軽さの相克が続いていく。(綿矢りさの小説に重さが無いという話ではない)

 

 


さらに関係ない話になるが、綿矢りさになんとなく文章が似ていると思うのが阿部和重だ。

作風が違いすぎて何言ってんだこいつと思われるかもしれないが、ダイナミックな物語を簡潔で乾いた文章でザクザク書いていく感じ、そしてそれを読んでいる時の快感が似てるような気がする。しませんか?

阿部和重を何か読むなら、講談社文庫のクエーサーと13番目の柱』をお勧めしたい。パパラッチがとあるアイドルの動向を追ううちになんかとんでもないことになる話。J.G.バラード『クラッシュ』へのオマージュでもある。

 

 

 

そのうち読みたい

 

この『私をくいとめて』朝日文庫)も、のん主演で映画化されていて評判がすごく良いですね。というか綿矢りさは映画化したタイトルが多い……

 

 

 

 

 

 

 

アガンベンのスリリングな政治哲学を読もう! 「ホモ・サケル」とは何か

大人気!ジョルジョ・アガンベン

 

イタリアの哲学者ジョルジョ・アガンベンはいま最も邦訳がたくさん出ている海外の哲学者の一人だと思うが、最近また一冊入門書が出たので紹介しよう。

最近絶好調な感じがする講談社選書メチエから出たアガンベンホモ・サケル》の思想』だ。

著者はイタリア哲学と言えばこの人、そしてアガンベンの翻訳も多く手掛けている上村忠男。この本は著者が今までにアガンベンの本に書いた解説などに書き下ろしを加えたもので、アガンベンの仕事の全体像をざっくり知ることができる。(そしてわりと突っ込んだことまで書いてあるので読み応えもある)

 

 

 

ホモ・サケル」って何?


さて、アガンベンを読んだことがなくても「ホモ・サケル」という言葉はなんとなく聞いたことがあるかもしれない。この言葉はアガンベンのキモなので軽く解説してみる。

ホモ・サケルのホモはホモ・サピエンスのホモなので「人間」、サケルは英語だとsacredなので「聖なる」、つまり「聖なる人間」である。これは古代ローマ法が定める特殊な罪人だそうだ。例えば親を傷つけるなどの特殊な罪を犯した者が、「聖なる人間」として普通の罪人とは違う扱いをされる。いわく、殺しても罪に問われず、そして、犠牲として神に捧げることもできないらしい。殺しても良いなら神に捧げようかなと思ってもそれはダメ。しかし殺すこと自体は問題なし。

この「神に捧げてもいけない」の部分のニュアンスは難しいのだが、こちらの部分はその後もあまり語られない。どうも重要なのは「殺しても罪に問われない」ことの方らしい。
つまりホモ・サケルは法の中の例外である。ある種の罪を犯した罪人が、通常の法の適用外とされる。そしてここからがアガンベンの決め台詞なのだが、ホモ・サケル「共同体から例外として排除されながら、同時に共同体の中に取り込まれる」存在なのだ。

 

排除しながら囲い込み、囲い込みながら排除すること

 

つまり例外だからといって追放されるのではなく、例外という形で、共同体の内部と外部の境界線上に拘束されるのである。

私はこれは、身近な物事に例えるならいじめの話だと思う。いじめというのは対象を追放することではなく、共同体の中に囲い込んだままで排除することだ。追い出してしまっては意味がない。
そしてそのホモ・サケルが一体何なのかというと、つまりアガンベンはこれが「政治」そのものの起源だと言っているのである。

共同体の中で、何者かを囲い込んだままで排除することが、政治の始まりだというのだ。陰鬱な考え方だと思うが、私はこの考えに強い印象を与えられ、気になってこの哲学者の本を何冊も読んでしまっている。

アガンベンは、ホモ・サケルのような存在を「剥き出しの生」と呼ぶ。

なかでも真摯に受けとめて省察に付されてしかるべきだと思われるのは、主権と「剥き出しの生」の〈排除をつうじての包含〉関係についての「生政治」論的問題視点に立ったところでつかみとられた、近代のデモクラシーと現代の全体主義的支配体制のあいだに存在する緊密な連関性にかんして、同書(アガンベンホモ・サケル 主権権力と剥き出しの生』のこと)の序論でなされている指摘である。

 

(上村忠男『アガンベンホモ・サケル》の思想』プロローグ)

 

「近代のデモクラシー」と「現代の全体主義的支配体制」という、相反するかと思っていたものの間には、実は共通のルーツがあるのではないか、というのがアガンベンの指摘なのだ。

 

次の一冊

 

上記のホモ・サケルについて書かれたアガンベンの一番有名な本が、その名もホモ・サケル 主権権力と剥き出しの生』である。

イタリアの哲学者が書いた本なのでサクサク読めるというわけにはいかないが、ページ数が意外と少ないので挑戦してみてほしい。第二部「ホモ・サケル」だけ読んでも面白いと思う。

 

 

 

アガンベンの本で私が読みやすいと思っているのはこの『涜神』。短めの文章が集められており、それぞれ単独で読める。

芸術や文学に関する文章も多いので、政治哲学の話よりもとっつきやすいかもしれない。それでいてこの哲学者の入り組んでいて魅力的な文章の妙も楽しめる。

 

 

 

なお、私が一番好きなアガンベンの入門書は岡田温司アガンベン読解』なのだが、これはもうすぐ平凡社ライブラリーに入るらしいのでまた別途紹介します。

追記:ブログで紹介しました!

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2023年9月に開催された「第三回かぐやSFコンテスト」に投稿した短編SF小説が、選外佳作に選ばれました。近未来のパリを舞台としたクィア・スポーツSFです。

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こちらはカクヨム公式企画「百合小説」に投稿した、ポストコロニアル/熱帯クィアSF。

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