もう本でも読むしかない

仕方ないので本でも読む。SF・文学・人文・漫画などの書評と感想

,

ボルヘスの小説はどれから読めばいい? 「迷宮の作家」ボルヘス文庫ガイド

ボルヘスの小説はこの文庫を買えばOK

 

 

ホルヘ・ルイス・ボルヘスを読んだことがなくても、名前を聞いたことがある人は多いのではないでしょうか。1899年、アルゼンチン生まれの作家。南米文学の巨匠、幻想と迷宮の作家、博覧強記の図書館長、長編をひとつも書かなかった小説家……その不思議で伝説的なイメージを語る言葉は多いです。

あるいは、かの有名な「バベルの図書館」の作者としてご存じの方も多いかもしれません。「バベルの図書館」とは、この世のあらゆる書物を収めるという幻想の図書館を書いた短編小説です。

世界文学幻想文学、あるいはSFのファンの中にも愛読者が多いボルヘスは、私にとっても最も好きな作家の一人なのですが、今回はその代表的な小説が収録されている文庫を紹介しようと思います。というのも、ボルヘスは日本でも長く人気のある作家なので、日本語での刊行点数も非常に多く、しかも詩集やエッセイ、評論や講演集などもたくさん出ていくため、ちょっと読んでみようかなと思ってもどれが代表作なのか、それ以前にどれが小説なのかすらわかりづらいのです。

というわけで、今回は文庫で出ているボルヘスの小説集を、勝手ながら私のお勧め順に紹介したいと思います。

といっても、なにせボルヘスは一篇たりとも長編小説を書かなかった作家ですので、その量は少ないです。手に入りやすいものに関してざっくり言いますと、基本的に4冊しかありません。

(追記:2023年12月に短編集『シェイクスピアの記憶』が岩波文庫より刊行されたので追加しました。)

 

①代表的作品集『伝奇集』/『アレフ

ボルヘスの代表作と言えば、やっぱりこの『伝奇集』。無限の図書館を書いた前述の「バベルの図書館」、庭園に作られた迷宮が登場するサスペンス「八岐の園」、架空の小説を評する形式の「アル・ムターシムを求めて」及び「『ドン・キホーテ』の著者、ピエール・メナール」、全ての出来事を記憶する男を書いた「記憶の人、フネス」など、技巧と幻想に満ちた代表的短編を読むことができます。暗号によって示された連続殺人事件を追うアンチ・ミステリ「死とコンパス」が好きです。鼓直訳。

収録作

トレーン、ウクバール、オルビス・テルティウス/アル・ムターシムを求めて/『ドン・キホーテ』の著者、ピエール・メナール/円環の廃墟/バビロニアのくじ/ハーバート・クエインの作品の検討/バベルの図書館/八岐の園/記憶の人、フネス/刀の形/裏切り者と英雄のテーマ/死とコンパス/隠れた奇跡/ユダについての三つの解釈/結末/フェニックス宗/南部

1993年 原著1944年

 

追記:こちらの記事で『伝奇集』の内容を紹介しました!

pikabia.hatenablog.com

 

 

『伝奇集』とどっちが好きか迷ってしまうもうひとつの代表作がこのアレフ。この短編集には、迷宮に住むミノタウロスの視点で書かれた「アステリオーンの家」、砂漠に作られた迷宮の秘密にまつわる「アベンハカン・エル・ボハリー、おのが迷宮に死す。」「二人の王と二つの迷宮」の連作など、「迷宮の作家」ボルヘスの迷宮小説がたっぷり味わえます。他にもホメロスの時代から生き続ける男の手記「不死の人」や、宇宙全体を含む小さな物体が登場するアレフなど、これぞボルヘスという短編がたくさん。こちらも鼓直訳。

なお白水uブックスから出ていた『不死の人』、平凡社ライブラリーから出ていた『エル・アレフ』と同じ本です。

収録作

不死の人/死人/神学者たち/戦士と囚われの女の物語/タデオ・イシドロ・クルスの生涯(一八二九 ― 一八七四)/エンマ・ツンツ/アステリオーンの家/もう一つの死/ドイツ鎮魂曲/アヴェロエスの探求/ザーヒル/神の書跡/アベンハカン・エル・ボハリー、おのが迷宮に死す。/二人の王と二つの迷宮/待ち受け/門口の男/アレフ/エピローグ

2017年 原著1949年

 

②比較的読みやすい『砂の本』

この『砂の本』は、ボルヘスの作品集の中では比較的後期に書かれたもの。実験的な作風の小説も多い上記二冊と比べると、普通の小説っぽい形式の作品が多い気がするので、できるだけ読みやすいものから入りたい方はこれから読むのがいいと思います。篠田一士訳。

読みやすいとはいえ、冒頭の「他者」は過去と未来の自分が出会って会話する話、表題作「砂の本」は始まりも終わりもない謎の書物に関する話ですので、ボルヘスならではの幻想は十分に味わえます。秘密結社での日々を回想する、ちょっと青春ぽい雰囲気もある「会議」が好きです。

併録されている「汚辱の世界史」ボルヘスが初めて発表した小説集で、これは悪名高い実在の人物たちの評伝の形をとっています。なんと吉良上野介も登場。「ばら色の街角の男」は、ボルヘスの故国アルゼンチンに生きた「ガウチョ」と呼ばれるならず者たちを描いた小説です。

収録作

「砂の本」

他者/ウルリーケ/会議/人智の思い及ばぬこと/三十派/恵みの夜/鏡と仮面/ウンドル/疲れた男のユートピア/贈賄/アベリーノ・アレドンド/円盤/砂の本

「汚辱の世界史」

ラザラス・モレル/トム・カストロ/鄭夫人/モンク・イーストマン/ビル・ハリガン/吉良上野介/メルヴのハキム/ばら色の街角の男/死後の神学者/彫像の間/夢を見た二人の男/お預けをくった魔術師/インクの鏡

2011年新版 『砂の本』(原著1975)と『汚辱の世界史』(原著1935)の合本

 

③異色作(でも小説としてはむしろオーソドックスな)『ブロディーの報告書』

この『ブロディーの報告書』ボルヘスの小説集の中では異色作。「鬼面ひとを脅すバロック的なスタイルは捨て...やっと自分の声を見いだした」と自分で言っているらしいのですが、その言葉の通り、ストレートな形式で語られた、実録・ドキュメンタリー的な短編が集まっています。多くの作品が、上記の「ばら色の街角の男」のような、アルゼンチンのガウチョたちの文化や生き様を書いており、ボルヘスが生きた世界の原風景を見るかのようです。アルゼンチンタンゴが聞こえてきそうな一冊。鼓直訳。

以前は白水uブックスから出てました。

収録作

じゃま者/卑劣な男/ロセンド・フアレスの物語/めぐり合い/フアン・ムラーニャ/老夫人/争い/別の争い/グアヤキル/マルコ福音書/ブロディーの報告書

2012年 原著1970年

 

④「ボルヘス最後の短編集」『シェイクスピアの記憶』

2023年12月に岩波文庫から刊行。表題作はこれが初訳だそうです。逝去の3年前に刊行された短編集。

収録作:

シェイクスピアの記憶 一九八三年八月二十五日 青い虎 パラケルススの薔薇

2023年 原著1983年

 

※実録評伝小説『汚辱の世界史』

こちらは集英社文庫『砂の本』に収録されている『汚辱の世界史』が単体で刊行されたものですが、マホメットの代役」「寛大な敵」「学問の厳密さについて」の三篇が追加されています。中村健二訳。

収録作

ラザラス・モレル―恐ろしい救世主 トム・カストロ―詐欺師らしくない詐欺師 鄭夫人―女海賊 モンク・イーストマン―無法請負人 ビル・ハリガン―動機なき殺人者 吉良上野介―傲慢な式部官長 メルヴのハキム―仮面をかぶった染物屋 薔薇色の街角の男 死後の神学者 彫像の間 夢を見た二人の男 待たされた魔術師 インクの鏡 マホメットの代役 寛大な敵 学問の厳密さについて

2012年 原著1935年

 

小説以外の個人的お勧め本

 

今回の記事は飽くまでボルヘスの小説を紹介するものですが、ボルヘスには小説以外の本もたくさんあるので、ここではほんの一部を紹介します。

 

これは原著が1960年に刊行されたボルヘスの詩文集。詩と短い散文、そしてごく短い小説が収録されています。もちろん詩もとても良いのですが、私はこの、2~3ページで終わってしまうボルヘスの短い小説とも散文ともつかない文章が特に好きで、「王宮の寓話」「ボルヘスとわたし」「Everything and nothing――全と無」など何度も読み返してしまいます。鼓直訳。

 

 

これはボルヘスが収集した、古今東西の幻獣、怪物、空想上の生き物に関する記述を集めた本です。圧倒的な知識を操るボルヘスの面目躍如たる本で、その出典はものすごく多岐に渡ります。ケンタウロスエルフ、あるいは八岐大蛇といったおなじみの名前から、カフカの想像した動物」や、「釈迦の誕生を予言した象」などの気になる存在、そして数多くの全く聞いたことのない幻獣が計120種網羅されています。ダンサーでもあるマルゲリータ・ゲレロとの共著。柳瀬尚紀訳。

 

 

なお、こちらは今年のお正月に、寅年を祝ってボルヘス「Dreamtigers──夢の虎」(『創造者』所収)を紹介した記事です。合わせてご覧ください。

pikabia.hatenablog.com

 

 

 

※宣伝

2023年9月に開催された「第三回かぐやSFコンテスト」に投稿した短編SF小説が、選外佳作に選ばれました。近未来のパリを舞台としたクィア・スポーツSFです。

pikabia.hatenablog.com

こちらはカクヨム公式企画「百合小説」に投稿した、ポストコロニアル/熱帯クィアSF。

kakuyomu.jp

pikabia.hatenablog.com

奈落の新刊チェック 2022年10月 海外文学・SF・現代思想・歴史・闇の奥・パラディーソ・スピノザ・布団の中から蜂起せよ・ゴシックハートほか

いよいよ月の数字も2桁になって年の瀬が近づいてきた感がましましですが皆様いかがお過ごしでしょうか。「7」を意味する「セプト」から7月がセプテンバー、「8」を意味する「オクト」から8月がオクトーバーという名前になったのに、手前にジュライとオーガストが割り込んだので9月10月にズレたという説明がいまいち納得いかないブログ管理人です。そんなにセプテンバーとオクトーバーを残したかった?

そんなわけでここに書く内容のネタ切れも甚だしいですが、10月に出た新刊チェックいきましょう。

 

藤野可織による最強のバディ小説が待望の文庫化。こちらの記事で紹介してますのでぜひご覧ください。

pikabia.hatenablog.com

 

ハヤカワ演劇文庫、いいですよね。今月出たのは「マレビトの会」の松田正隆

 

Deluxe Edition』に続く、阿部和重の訳10年ぶりの短編集。『オーガ(ニ)ズム』でついに完結した神町三部作はどれも重厚な長編でしたが、切れ味するどい短編も好きです。

 

なんと刊行予告から20年を経て国書刊行会より発売されたという、キューバの作家による「ラテンアメリカ文学不滅の金字塔」。『百年の孤独』のような何世代にもわたる長大な小説のようですが、一体どんな内容なのか…… 翻訳はガルシア=マルケスやバルガス=リョサほか南米文学をたくさん訳している旦敬介。

 

コンラッドの有名作が新潮文庫で登場。翻訳はヘミングウェイや「ハンニバル」シリーズのトマス・ハリスなど英米文学を多数訳している高見浩。光文社古典新訳文庫版とどっちで読むか迷う。

 

大英帝国時代のインドを舞台にしたE.M.フォースターの代表作が新訳文庫化。オーウェルやイシグロを手掛ける小野田健訳。

 

幻想的な作風の、戦後ドイツを代表する女性作家の短編集とのこと。翻訳は『犯罪』がベストセラーになったシーラッハからブレヒトまでドイツ文学を多数訳している酒寄進一。

 

岸本佐知子柴田元幸のセレクトによる現代英語圏異色短篇コレクションとなれば面白くないはずがない。

 

『猫語のノート』でおなじみポール・ギャリコのミセス・ハリスシリーズが映画化をきっかけに角川文庫より刊行開始。翻訳は旧版から引き続き、コナン・ドイルを手掛ける亀山龍樹。

 

田舎の農場に住む夫婦のもとに、夫が宇宙移住者の候補になったという知らせが届くというスリラー。気になります。作者はデビュー作『もう終わりにしよう。』でシャーリイ・ジャクソン賞の最終候補になったらしい。早川やヴィレッジブックスでミステリ系の訳書が多い坂本あおい

 

注目の批評家、高島鈴の初のエッセイ集がついに刊行。高島鈴の文章を読んだことのない方はこちらのWEB連載をどうぞ。

巨大都市殺し|かしわもち 柏書房のwebマガジン|note

くたばれ、本能。ようこそ、連帯。|webちくま

 

イギリスにおける当事者の生活の実像、どのような問題に直面しているかという現実の問題を、調査によって詳述した本。著者はこれが初の著書とのこと。翻訳は『極限の思想 ハイデガー 世界内存在を生きる』の著作もある高井ゆと里。

 

日本文学、クィアスタディーズを専門とする著者による初の著書で、トラウマを語ることをテーマとした文学批評。多和田葉子、李琴峰、大江健三郎などが取り上げられているようです。

 

1986年上海生まれでデリダの中国語訳も手掛けるという著者による魯迅論。しかも日本語で書いているらしい。

 

スピノザの方法』でデビューし、『はじめてのスピノザ』も書いている國分功一郎による、スピノザの全体像をまとめた決定版新書が登場。新書だけど400ページあります。

 

人間が人間でなくなるとき』などフッサールに関する著書のある岡山敬二による、「哲学とは、『わからなさ』を生きることだ」というテーゼによる哲学入門。

 

古代ギリシアの芸術をあらゆる芸術の理想像と主張して後の美術史に巨大な影響を与えたヴィンケルマンの主著が岩波文庫入り。

 

サン=シモンやフーリエなど、名前はよく聞く初期社会主義の思想家たちに関する新書が登場。政治思想史を専門とする著者には『サン=シモンとは何者か』などの著書もあり。

 

西ローマ帝国滅亡後は東ゴート王国の首都であり、のちにビザンツ帝国のイタリアにおける拠点となったイタリアの都市ラヴェンナ。「西の帝都」と呼ばれたこの都市がヨーロッパ世界の形成に果たした大きな役割を繙く大著。著者は初期キリスト教史、ビザンツ女性史が専門とのことで、他に『ビザンツ 驚くべき中世帝国』の邦訳あり。訳者の井上浩一には『生き残った帝国ビザンティン』などの著書もある。

 

1993年にNHK出版から出ていた若桑みどりの定番書がめでたく文庫化復刊。美術を読み解く方法のひとつであるイコノロジーの入門書はこれでばっちりでしょう。同じくちくま文庫の『イメージの歴史』もお勧め。

 

鏡と皮膚』『肉体の迷宮』『シュルレアリスムのアメリカ』などの著書がある美学者・批評家の谷川渥による、古代とバロックを行き来するローマ芸術論集。

 

小説家・文芸評論家の高原英理による2004年刊行のゴシックの基本図書が2度目の復刊。

 

1924年マカオ生まれの著者による、九龍城の歴史を詳細に記述した一冊。翻訳者の倉田明子は『中国近代開港場とキリスト教:』など近代中国と香港に関して著書・訳書あり。

 

横浜能楽堂芸術監督で、能に関する著書も多い著者によるわかりやすそうな能の通史。

 

タイムラインの殺人者』の邦訳もあるSF作家兼編集者兼ブロガーの著者による、ポンペイやアンコールなど古代都市の消滅に関する本。歴史書を多数手がける森夏樹訳。

 

それではまた来月。

中井亜佐子『〈わたしたち〉の到来』 三人のモダニズム作家から読む、「歴史」の書かれかた

コンラッド、ウルフ、C・L・R・ジェームスを読む

 

中井亜佐子『〈わたしたち〉の到来』は、主に三人の作家についての文芸批評である。 その三人はいずれも20世紀初頭のモダニズムの時代に活動し、英語で作品を発表した作家たちだ。

 

まず一人は映画『地獄の黙示録』の原作『闇の奥』を書いたポーランド人作家、ジョゼフ・コンラッド。 二人目はイギリスのモダニズムを代表する作家であるヴァージニア・ウルフ。 そして三人目はイギリス領トリニダードに生まれ、ハイチ革命についての舞台「ブラック・ジャコバン」を書いたC・L・R・ジェームスである。

(なお私は、この三人ともその作品をほとんど読んだことがない。それでも面白く読めるのが優れた文芸批評のいいところだ)

この三人は出自も立場も作品のスタイルも異なる作家たちだが、著者はこの三人の間にゆるやかな繋がりを見い出し 、三人の作品を並べ比べることによって、20世紀初頭のモダニズムの時代において彼らが共通して持っていた問題を抽出する。それは乱暴に一言で言えば、「いかに歴史を書くか」ということである。

誰もが知るとおり、歴史を書くというのは困難な行いである。それはたやすくそれを書く者にとっての歴史 、書き手にとって都合のよい歴史になったり、何かを隠蔽することによって語られた物語になりうる。アカデミックな文芸批評であるこの本は、まずは歴史を語ることについての批評的言説の概観から文章を始め、その後これらの作家たちの個別の表現に移っていく。

そこで分析されるのは、三者三様の社会的・歴史的な立ち位置であり、その場所での生き方であり、そして歴史というものとの向き合い方だ。

ポーランド人としてウクライナに生まれ、父の逮捕によってシベリアに送られ、やがて船乗りとなって世界中の植民地を巡ったコンラッド。「教育を受けた男性の娘」として生まれ、モダニズム文学を代表する作家となりながら、後の第二波フェミニズムの源流ともなったウルフ。そしてジェームスは英領トリニダードから作家を志して英国に渡り、そこで左翼政治活動にのめりこみ、そして二次大戦前後の30年間に渡ってハイチ革命の物語を書き直し続けた。

 

文芸批評の楽しみ

 

著者の読解と分析は詳細で濃密であり、また著書全体を通じて非常に多岐にわたる内容を含み、簡単な要約を許すものではない。著者はそれぞれの作品を読み込み、そこに書かれたもの、作者の人生、歴史的社会的状況、そして種々の批評理論との突き合わせを通じて、これら作家たちの作品からある共通のテーマ──しかし、それは決して一言で言い現わせるテーマではない──を浮かび上がらせていく。

上記のような、愚直とも言える手続きによって作品を読み、その中から細やかなものをいくつも拾い上げ、その微妙に関係し合った総体の中から何かが見えてくる、というのが文芸批評というものの醍醐味なのだと知ることができる。

 

先に挙げた三者とは別に、この本の隠れた主役を二人挙げておこう。一人はオリエンタリズムの著者であり、ポストコロニアル批評を代表する論者であるエドワード・サイードである。この本では多くの局面でこの著名な批評家の理論を参照することになる。

そしてもう一人は、ひょっとしたらこの本で最も重要かもしれない登場人物、セルマ・ジェームズだ。C・L・R・ジェームズのパートナーであり、70年代英国の「家事労働に賃金を」運動の中心人物であり、80年代のセックス・ワーカーの権利運動に関わった人物である。彼女は20世紀初頭のハイ・カルチャーの中にいたヴァージニア・ウルフが遺したものを継承し、より広い人々に向けての活動へと広げていった人物として書かれる。この本の題名にある「〈わたしたち〉」とは、「民衆」とも「大衆」とも違った、新たな歴史の主体、歴史を語り、作り出していく主体が現れることを願って選ばれている言葉であり、この三人のモダニズム作家を経てセルマ・ジェームスに流れ込んでいくものにそれが託されている。

ウルフは『三ギニー』のなかで、『共産党宣言』の一節「労働者に国はない」をもじって、次のように述べている。「実際、女性であるわたしに国はありません。女性であるわたしは国などほしくありません。女性であるわたしにとって、全世界がわたしの国なのです」。このように宣言するとき──少なくともこの発話の瞬間においては──ウルフの射程は「教育のある男性の娘たち」という限定された階級から「全世界」の女性たちへと開かれている。セルマ・ジェームズらの女性運動は、ウルフがマニフェストのかたちで託した夢を現実世界で実現し、未来の歴史をつくりだそうという試みだった。(「時間、主体、物質」より)

そして現在、その試みはさらに多くの少数者へと開かれていくべきだろう。

 

次の一冊

 

『〈わたしたち〉の到来』は本格的な文芸批評の本だが、ここで用いられているような批評理論について簡潔に教えてくれるのが廣野由美子『批評理論入門 『フランケンシュタイン』解剖講義』だ。様々な批評理論の基本を解説しながら、それを使って誰もが知る古典フランケンシュタインを実際に読んでみる、という実践的な一冊。『フランケンシュタイン』を読んでなくても問題なく読めるが、ネタバレは容赦なくあります。

 

そのうち読みたい

 

前述のように、私は本書で分析される作家をほとんど読んでいないのであった。とりあえずコンラッドのこれから読んでみようかな……

 

 

 

※宣伝

ポストコロニアル/熱帯クィアSF

kakuyomu.jp

pikabia.hatenablog.com

ゴダール『軽蔑』つれづれ感想 あるいはヌーヴェルヴァーグ映画の楽しみ

ふつうの映画に飽きたらヌーヴェル・ヴァーグ映画を見よう

 

急にジャン=リュック・ゴダールの映画が観たくなり、ブリジッド・バルドーが出ている『軽蔑』Amazonプライムビデオの配信で見た(初見)。

Amazon プライムの古いフランス映画などは以前に比べたらだいぶ増えたように思え、今回のように唐突にゴダールが見たくなった時に見られるというのはありがたいが、本数はまだまだという感じだ。 今後に期待したい。

 

無性にゴダールが見たくなる、あるいは無性にヌーヴェルヴァーグの映画が観たくなる瞬間というのは時々あるのだが、それはどういう時だろうか。

(注:ヌーヴェルヴァーグとは、1950年代にフランスで始まった新しい映画の運動です)

それは多分、説明的な映像に飽きたときだと思う。 説明的な映像とはどういうことかと言うと、つまり物語やテーマ、製作者が観客に伝えたいメッセージなどを効率的かつ正確に伝えてくる映像ということである。基本的に、このような効率と正確さはどんな映像作品にも必要不可欠だろう。 そのような映像でなければ、伝えるべき情報が観客に伝わらないし、時には誤解が生じたり、狙った効果が得られなくなったりもするだろう。ゆえに映画やドラマの製作者は、わかりやすく明解で正確な映像を作るのだ。

ゴダールヌーヴェルヴァーグの映画が無性に見たくなる時というのは、要するにそういう映像に飽きた時である。 こちらは別に、常にそんなに至れり尽くせりにもてなされたいわけではないし、製作者のメッセージを正確に受け取りたいともそんなに思ってないし、解釈の余地のない映像ばかり見たいわけでもない。もちろんそういう映像も好きだし普段は圧倒的にそういうものの方を見ているが、そればっかりでは飽きるということだ。

ゴダールをはじめとしたヌーヴェルヴァーグの映画は、まず第一に観客に異物感を与えようとする。 なぜなら世界のリアリティとは異物感だからだ。手持ちカメラでの撮影やアマチュアの俳優の出演、街頭でのロケ撮影、雑音にまみれた同時録音、映像と音響のブツ切りのような編集など、かつてゴダールヌーヴェルヴァーグの監督たちが導入した歴史的な手法の数々は、今でも我々に異物感を与え続けてくれる。 説明的で効率的な映像に飽きた時にはこれが大変気持ち良い。効率に凝り固まった体がストレッチされる気分だ。

(なお当然のことではあるが、ヌーヴェルヴァーグの映画もまた、その目的をその映像によって我々に伝えているものではある。ただ、やり方が少し違うということだ)

 

ゴダール好きにはたまらない冒頭シーン


さて今回見たゴダールの『軽蔑』である。アルベルト・モラヴィアの小説を原作とし、ミシェル・ピコリブリジット・バルドーが主演の1963年の映画だ。

ピコリ演じる脚本家が妻のバルドーと暮らすアパートのローンを支払うため、アメリカ人映画プロデューサーの依頼を受けたことをきっかけに夫婦関係がぎくしゃくするという話で、前半はローマの歴史的な映画撮影所チネチッタ、後半は風光明媚なカプリ島を舞台とする。

冒頭、ナレーションが読み上げる映画のクレジットをバックに、画面の奥から手前に向かって女性がゆっくり歩いてくる。 その傍らに敷かれたレールの上を、脚立の上に据えられたカメラが、女性と歩調を合わせるようにゆっくりと移動撮影している。やがて画面は手前に近づいてきたそのカメラでいっぱいになり、最後にはゆっくりとこちらに回転したカメラが、見下ろすように観客と視線を合わせる

ゴダールのファンはこういう映像に目が無い。いきなり最初から、本来なら映画の中に登場してはいけない存在であるカメラの、さらに移動撮影のためのレールの映像からスタートである。まあこの映画のストーリーは映画撮影が題材なので撮影機材が出てくるのは自然なことなのだが、それにしても、何の前触れもなく冒頭に出てくるところはハッタリが効いている。こういう、「これは映画なんですよ」というメタ的な身振りもまたヌーヴェルヴァーグの特徴だし、最後に大写しになったカメラがこちらの方をまっすぐに向くカットに至っては、観客を「見てるぞ」と脅しているようにしか見えない。この冒頭シーンだけで、レンタル代数百円の元は取れたようなものだ。

 

ブリジッド・バルドーという存在

 

この『軽蔑』が初期のゴダールの映画の中でも異彩を放つ部分は、やっぱりブリジッド・バルドーの存在だろう。バルドーがどういう女優かというと、『素直な悪女』等の映画で有名になった、簡単に言えばフランス版のマリリン・モンローのような存在である。いわゆるセックス・シンボルであり、いわゆる「フレンチ・ロリータ」だ。

初期のゴダール映画に出てくる女優と言えばアンナ・カリーナジーン・セバーグ、あるいはアンヌ・ヴィアゼムスキーが有名だが、このバルドーは少しニュアンスが違う。なにしろフランスの国民的セックス・シンボルなので、いきなりヌードで登場するし、作中でもよく脱ぐ。仮に「マリリンモンロー映画」というジャンルがあるとすれば、この『軽蔑』はゴダールによるマリリンモンロー映画」という感じだ。

映画が始まってまもなく、バルドー演じるカミーユは、とあるきっかけで夫に不信感を抱き、やがて軽蔑するようになる。この映画は、前述のようなマリリン的存在であるバルドーが、時々大胆なヌードを披露しつつ、映画の大半の時間を費やして夫を軽蔑し続けるという、なんとも居心地の悪い映画なのだ。

もちろん、今日あらゆる場所で問題になっているような、「男性である映画監督と、女性であるそのミューズ」という関係の非対称性からゴダールの映画も自由ではない。初期ゴダール映画のヒロインたちは今見てもとても魅力的だが、もはやその魅力の中にある権力の作用に無自覚ではいられないだろう。初期ゴダール映画を今見るということは、そういう問題込みで見るということだ。この『軽蔑』ではバルドーという存在によってその問題がよりはっきりした形で現れている部分もあり、一方で、もともと明らかに性的な対象として人気を得た人物をゴダールがどのように撮るか、という点でその問題にある程度自覚的な映画と見ることもできる。この映画はセックス・シンボルであるヒロインがひたすら主人公を軽蔑し続けるという点で性的な視線に批判的というように見えなくもないが、その構造自体になんとも言えぬ監督側のナルシシズムやエクスキューズを感じもする。この辺りはいろんな人の感想を聞きたい部分だ。

 

巨匠フリッツ・ラング(本人役)とヨーロッパVSハリウッド


『軽蔑』もう一つの目立つトピックは、映画監督のフリッツ・ラングがなんと本人役で登場していることである。言わずと知れたメトロポリス』『ニーベルンゲン』などのサイレント期ドイツ表現主義映画の巨匠であるラングは、ナチスから逃れてフランス、後にアメリカへと渡った後はハリウッドでB級映画をいろいろ撮っていたらしい。

この映画では、アメリカ人プロデューサーに雇われたラングが、ローマのチネチッタオデュッセイアの映画化に取り組んでいるという設定だ。しかしこの時ヨーロッパの映画界は衰退を始めており、またプロデューサーはラングの脚本に納得がいかない。それゆえ主人公は脚本のリライトに雇われるというのが本作のあらすじだ。

いやもう、この「かつてドイツ表現主義の巨匠であり、ナチスから逃れてハリウッドに渡りB級映画を撮っているフリッツ・ラング(本人役)」が、「斜陽を迎えつつあるヨーロッパ映画界と、それを象徴するローマのチネチッタ」で、「強欲なアメリカ人プロデューサーにバカにされながら『オデュッセイア』を映画化しようとしている」という設定のハイコンテクストぶりだけでお腹いっぱいである。ここに、ラングの映画をもっと売れそうなものにするためのテコ入れ要因として主人公が雇われ、その美しい妻も参入して複雑な人間関係が展開するのが『軽蔑』という映画なのである。(この辺の構造は非常に戯画的でもあるので、ゴダール映画の中ではわかりやすい方かもしれない)

 

これぞヌーヴェルヴァーグという映像、インパクトのある主演女優、わりと明確なストーリーなどを備えた、ゴダールを初めて見る方にも良さそうな映画でした。

 

そのうち読みたい

 

アルベルト・モラヴィアによるこの映画の原作は、ご存じ池澤夏樹編による河出書房新社の世界文学全集に、エリアーデ『マイトレイ』とセットで入っている。かなり原作に忠実な映画化だそうです。

 

ゴダールについては、「フィルムメーカーズ」シリーズのこれが佐々木敦編で2020年に出てます。ゴダールは今年亡くなってしまったので、ほぼ全キャリアを網羅した本ということになりました。

 

 

梅木達郎「ゴダール映画と商業主義(1) : スペクタル批判から 革命へ」

https://tohoku.repo.nii.ac.jp/?action=repository_action_common_download&item_id=66631&item_no=1&attribute_id=18&file_no=1

フランス文学・フランス現代思想を専門とする梅木達郎による、この『軽蔑』の詳細な分析を含む論文を発見。面白いです。

 

 

ja.wikipedia.org

後半のカプリ島のシーンで出てきた建物がすごく印象的だなと思ったのですが、有名な建築なんですね。

 

 

あまり見つからないんですが、Amazonプライムビデオで見られる、ゴダール以外の監督によるヌーヴェルヴァーグの映画のリンクも貼っておきます。

5時から7時までのクレオ

5時から7時までのクレオ

  • コリーヌ・マルシャン
Amazon
ラ・ジュテ (字幕版)

ラ・ジュテ (字幕版)

  • エレーヌ・シャトラン
Amazon

 

『シン・ウルトラマン』を見て振り返る、「特撮」のイメージの秘密

自分にとって「ウルトラマン」とは何だったのか

 

遅ればせながら庵野秀明総監修・樋口真嗣監督『シン・ウルトラマンを劇場で見ることができた。

わりと多くの人がそうだったのではないかと思うのだが、『シン・ウルトラマン』を見るという体験は、自分にとって「ウルトラマン」とは何だったのかということを考え直すことになった。今回は映画の感想をまじえつつ、そのことについて書いてみる。

 

といっても私は特にウルトラマンの大ファンというわけではない。最近のシリーズは見たことがないし、昔のシリーズだって少ししか見ていない。

ただ、小学生くらいの時にテレビの再放送で見た初代ウルトラマンは強く印象に残っているし、その後の映像や芸術の好みに対して少なくない影響を受けたと思う。

『シン・ウルトラマン』はまさにその初代ウルトラマンのリメイク、語り直しであり、私はそれを否応なく、幼少時に強い影響を受けた初代ウルトラマンとの距離感の中で見ることになった。

先に映画の感想を言っておくと、私は基本的にはかなりこの映画が好きだ。特にメフィラス星人のエピソードまでは。そして最後のエピソードはそんなに盛り上がらなかった。(あと多少困ってしまう点もある。後述)

 

ウルトラマンの2つのポイント

 

さて、今回の映画を見ながら、かつての自分にとってウルトラマンあるいは特撮のどこが重要だったのかを考えてみたわけだが、おおよそ以下の2点に絞られるのではないかと思う。

 

1.着ぐるみの物質性

当然のことながら、昔の特撮は全て着ぐるみや模型を使って撮影しており、ウルトラマンや怪獣や宇宙人は実体として存在する。この実体、実物、物質としての存在感自体が、まずは特撮の特撮たるゆえんだと考えたい。かつて自分がウルトラマンから受け取ったインパクトの大部分は、この実体としての怪獣の存在感に由来すると思う。そして、現実には等身大の着ぐるみにすぎない怪獣が、しかし映像と演出の魔術によって、巨大な存在として映し出される。

そこに映っているのは、具体的なもの(着ぐるみ)と抽象的なもの(怪獣)の間のどこかにある存在である。それは見ている我々にとっては、本物の怪獣ではないが、しかし単なる着ぐるみにも還元できない、中間的な存在だ。そのような存在感を醸し出すものとして、着ぐるみの物質性──それはその表面の質感や重みの感覚から得られる──は欠かせない。巨大な怪獣として演出される荒唐無稽な存在に、着ぐるみの質感と重みが重心を与えるのだ。この着ぐるみの物質性と、背景美術やミニチュアの使用を含む演出技術が合わさって、我々の意識の中で、具体と抽象、現実と虚構のはざまに怪獣が出現するのである。それは、映像のドキュメンタリー性と虚構性のはざまと言ってもいい。

 

そのように考えた時、『シン・ウルトラマン』の課題は、CGによって描画されたウルトラマンと怪獣によって、いかにそのような中間的な感覚──実体でも虚像でもなく、そのはざまにある感覚──を作り出すかという点にあっただろう。もちろんそのような旧来的な特撮観にはこだわらず、単にCGで「リアルな」「現実感のある」巨大宇宙人と巨大モンスターを描き出すという選択肢もあったはずだが、しかしそこはさすが庵野秀明と言うべきだろう、しっかりと「CGによって『特撮』を作る」という課題に挑戦し、そしてかなりの部分成功していると思う。

ウルトラマンや怪獣の体表の質感、そして絶妙に制限された動きなどは、その「わざわざ演出された物質性(着ぐるみっぽさ)」によって、前述のような特撮の理念を相当のところまで再現し、結果として単に回顧的なだけではない、新しい表現になっていると感じられる。それは基本的に何でも描けるCG映画に対し、ある種の制限や制約を課すことによって得られた、新しい生々しさの感覚ではないかと思う。ウルトラマンのビニールっぽく輝く体表、まるでスーツの表面のように寄った皺、空中移動する際の奇妙に硬直した姿勢などはその成果だ。またザラブやメフィラスの、着ぐるみでは実現不能なデザインだが、それでもリアルな質感と重さを感じさせる造形と描写も見事である。

 

2.制限された物語と構成

第2の点もまた、制約に関わっている。ウルトラマンの各エピソードの内容は、強い形式によって縛られている。30分番組の中で、必ず怪獣や宇宙人が登場し、それをウルトラマンが3分以内に戦って倒さなければならないのだ。これはウルトラマンという物語に運命的に課せられた条件であり、この制約のもとで毎回の物語を作ることの不自由さは想像に難くない。物語の筋書は常にどこかぎこちなく、不自然なものになるだろう。
またそれは世界観についても同様である。怪獣や宇宙人が(何故か日本にだけ)襲来し、ウルトラマンがそれと戦うという世界をリアルに構築することは、30分という枠内(及び当時の技術と予算)では非常に困難だろう。結果として、その世界観はある種の「お約束」として既成事実化され、そこで起こる出来事のリアリティは不問に付される。

このように種々の条件によって制約され、どこか不自然で奇妙な30分ドラマとして成立したのがウルトラマンというわけだが、しかし我々はすでに、それをそういうものとして体験してしまっている。そのぎこちなさ、不自由さ、いびつさこそを、我々はウルトラマンとして体験したのである。そのことは覆しようがない。そして放送を繰り返すうちに、制約ゆえに生まれた不自然さは「型」となり、作品を支える人工的な形式性へと発展していくだろう。

 

さて、ここで現代における特撮について2つの方向性が考えられる。まずは、前述のような制約が取り除かれた、もっと自然でリアルな物語としての特撮が見てみたいというい方向。そしてもう一方は、このような制約によって作られたいびつさの方にこそこだわりたいという方向だ。私見では、ともに庵野秀明が関わるシン・ゴジラ『シン・ウルトラマンの2作が、このふたつの方向性をそのまま表現していると思う。すなわち、もともと映画としての尺と予算を持つゴジラシリーズの新作である『シン・ゴジラ』が、その映画としての長さと現代の技術を活かし、可能な限りリアルで自然な特撮を実現しようとしたとすれば、『シン・ウルトラマン』は、もともとのウルトラマンが持っていた、特撮30分ドラマとしての制約ゆえの不自然な形式性をこそ再現しようとしたのだ。なぜなら、この方向性を選ぶ者にとってはそれこそがウルトラマンの本質だからである。

『シン・ウルトラマン』の、映像の解像度の高さに比して奇妙なまでにリアリティを欠いた感覚はおそらくここに由来する。それはかつての特撮の「お約束」を戦略的に転換し、現代の映画の多くに求められているものとは違うリアリティの水準を表現しているのだ。中盤のザラブやメフィラスのエピソードは、この意図的に演出された奇妙で不自然な世界観が充分に活かされたものとなっている。またこの不自然さは、リアリティの幻想に慣らされた我々現代の観客に、形式的な「型」のもつ力を思い出せと迫るだろう。

 

まとめ

 

かつてのウルトラマンとは、上記のような2つの条件によって成立した作品だった。まずひとつは、実体としての着ぐるみが持つ物質性。もうひとつは、極度に制約された物語形式による形式性である。思い返すに、この物質性と形式性によって、ウルトラマンや怪獣は圧倒的な「他者/異物」として幼少期の私に強い印象を残したのだと思う。

『シン・ウルトラマン』は現代のCGアクション映画においてはあまり歓迎されないはずのその2点を、どうにかして現代のCGアクション映画として再現しようとした試みだったと思える。そして私の感触としては、それはメフィラスのエピソードまでは成功していた。最後の、最強の敵ゼットンが登場するエピソードにおいて、怪獣のリアルな物質性の表現、そして強い制約を受けた物語の形式は後退する。つまり、なんというか、「普通に現代っぽい映画」になるのだ。私にとってそれは少し残念だったが、そうでもしないと映画としてのまとまりを欠くという判断だったかもしれない。このことの是非については、それぞれの観客の判断に委ねられるだろう。

 

それにしても……

 

……それにしても、である。この映画を見ている最中、我々はなんども、長澤まさみの臀部のアップを見せられることになる。長澤まさみ演じるキャラクターが、気合いを入れる時に自らの尻を叩くという人物だからだ。この時臀部はかなり大写しになる。なんなら怪獣よりも大きいかもしれない。

この演出は何かの気の迷いだったのではないかと思いたいが、しかし、こと庵野秀明が関わる映画においてはそのように判断することはできない。庵野秀明という映像作家は、徹底的な審美主義者である。その作品はひたすら己が見たいと願うイメージの現出に賭けられ、画面上に現れるあらゆるイメージは作家が真に見たいと願ったものであり、またそのイメージの実現そのものが映像を作る動機となる。ゆえにあの臀部の強調は製作者の動機に深く関わっており、そのイメージの実現が映画の目的の一部であると考えざるを得ない。

……我々は問われている。この臀部を受け入れて映画に参入するか、あるいはそれを拒否するかをだ。思えば今までも庵野秀明が関わる作品は、しばしばこのような苦しい選択を我々に迫ってきた。

聳え立つ臀部の門前で、私は立ち尽くしている。

 

そのうち読みたい

 

ウルトラマンと言えばもちろん、20世紀初頭の前衛美術に影響を受けた成田亨によるデザインである。この作品集はそのエッセンスを詰め込んだもののようで、いつか手元に置きたい一冊だ。

 

 

追記:『シン・仮面ライダー』についても書きました!

pikabia.hatenablog.com

続々刊行!日本SFアンソロジー 近刊まとめ

SFアンソロジーの勢いがすごすぎて把握できないのでまとめた。

 

SFアンソロジー新月、Rikka Zine、『新しい世界を生きるための14のSF』、Genesisシリーズ、NOVAシリーズなどなど……SF読者であれば、近年のアンソロジー刊行の勢いに驚いている方は多いのではないでしょうか。ここ数年、特に今年、面白そうなSFアンソロジーがどんどん刊行されており、すごい勢いを感じます。

かくいう私は、すでに勢いがすごすぎてわけが分からなくなって来ております。というわけで、メモがてらに最近刊行されたSFアンソロジーとその収録作をまとめてみました。(2018年以降に刊行されたものを掲載しています)

なお、実は海外SFのアンソロジーも多数刊行されており、そちらの勢いもすごいのですが、量が膨大になるのでひとまず今回は日本のSFに限定しております。

 

 

 

SFアンソロジー 新月

2022年刊行。

ウェブメディア「バゴプラ」が主催する「かぐやSFコンテスト」から生まれたアンソロジー新月」シリーズの第一弾。井上彼方編。

VG+ (バゴプラ) | We Love SF | VG+ (バゴプラ)

三方行成「詐欺と免疫」一階堂洋「偉業」千葉集「擬狐偽故」佐伯真洋「かいじゅうたちのゆくところ」葦沢かもめ「心、ガラス壜の中の君へ」勝山海百合「その笛みだりに吹くべからず」原里実「バベル」吉美駿一郎「盗まれた七五」佐々木倫「きつねのこんびに」白川小六「湿地」宗方涼「声に乗せて」大竹竜平「キョムくんと一緒」赤坂パトリシア「くいのないくに」淡中圏「冬の朝、出かける前に急いでセーターを着る話」もといもと「静かな隣人」苦草堅一「握り八光年」水町綜「星を打つ」枯木枕「私はあなたの光の馬」十三不塔「火と火と火」 正井「朧木果樹園の軌跡」武藤八葉「星はまだ旅の途中」巨大健造「新しいタロット」坂崎かおる「リトル・アーカイブス」稲田一声「人間が小説を書かなくなって」泡國桂「月の塔から飛び降りる」

 

Rikka Zine

2022年刊行。

橋本輝幸編により「世界のSFを日本へ、日本のSFを世界に。」をテーマに作られた新アンソロジーの創刊号で、日本語版と英語版が刊行される。
(この記事は日本SFのアンソロジーに限って集めていますが、この本は約半分が日本の作家によるものなので掲載しました)

Rikka Zine | A World SFF zine from Japan

千葉集「とりのこされて」レナン・ベルナルド 橋本輝幸訳「時間旅行者の宅配便」木海 橋本輝幸訳「保護区」 府屋綾「依然貨物」伊東黒雲「(折々の記・最終回)また会うための方法」鞍馬アリス「クリムゾン・フラワー」稲田一声「きずひとつないせみのぬけがら」阪井マチ「終点の港」根谷はやね「悪霊は何キログラムか?」ソハム・グハ 暴力と破滅の運び手 & 橋本輝幸 共訳「波の上の人生」灰都とおり「エリュシオン帰郷譚」ヴィトーリア・ヴォズニアク 橋本輝幸訳「残された者のために」笹帽子「幸福は三夜おくれて」日本橋和徳「天翔ける超巨大宇宙貨物船 アレステア・レナルズ論」ロドリーゴ・オルティズ・ヴィニョロ 白川眞訳「宛先不明の人々」ファン・モガ 廣岡孝弥訳「スウィート、ソルティ」ジウ・ユカリ・ムラカミ 橋本輝幸訳「海が私に手放させたもの」さんかく「新しい星の新しい人々の」もといもと「胡瓜より速く、茄子よりやおらに」

 

Genesisシリーズ

東京創元社による、書き下ろしSFアンソロジーのシリーズ。残念ながら5冊目の「この光が落ちないように」にて刊行終了とのこと。

2022年刊行

八島游舷「天駆せよ法勝寺[長編版]序章 応信せよ尊勝寺」宮澤伊織「ときときチャンネル#3【家の外なくしてみた】」菊石まれほ「この光が落ちないように」水見稜「星から来た宴」空木春宵「さよならも言えない」笹原千波「風になるにはまだ」

 

2021年刊。

小川一水「未明のシンビオシス」川野芽生「いつか明ける夜を」宮内悠介「1ヘクタールのフェイク・ファー」宮澤伊織「ときときチャンネル#2【時間飼ってみた】」小田雅久仁「ラムディアンズ・キューブ」高山羽根子「ほんとうの旅」鈴木力「SFの新時代へ」溝渕久美子「神の豚」松樹凛「射手座の香る夏」

 

2020年刊。

宮澤伊織「エレファントな宇宙」空木春宵「メタモルフォシスの龍」オキシタケヒコ「止まり木の暖簾」池澤春菜×下山吉光〔対談〕「プロの覚悟を届けたい――朗読という仕事」松崎有理「数学ぎらいの女子高生が異世界にきたら危険人物あつかいです」堀晃「循環」宮西建礼「されど星は流れる」折輝真透「蒼の上海」

 

2019年刊。

高島雄哉「配信世界のイデアたち」石川宗生「モンステリウム」空木春宵「地獄を縫い取る」中村融〔エッセイ〕「アンソロジーの極意」川野芽生「白昼夢通信」門田充宏「コーラルとロータス西崎憲〔エッセイ〕「アンソロジストの個人的事情」松崎有理「痩せたくないひとは読まないでください。」水見稜「調律師」

 

2018年刊行

久永実木彦「一万年の午後」高山羽根子「ビースト・ストランディング宮内悠介「ホテル・アースポート」加藤直之〔エッセイ〕「SFと絵」秋永真琴「ブラッド・ナイト・ノワール松崎有理「イヴの末裔たちの明日」吉田隆一〔エッセイ〕「SFと音楽」倉田タカシ「生首」宮澤伊織「草原のサンタ・ムエルテ」堀晃「10月2日を過ぎても」

 

NOVAシリーズ

河出文庫より刊行されている、大森望編による書き下ろしアンソロジーのシリーズ。2009年の「1」から2013年の「10」までは番号表記だったが、2019年以降は年号・季節による号数表記となった。不定期刊。

2021年刊。

高山羽根子「五輪丼」池澤春菜/堺三保原作「オービタル・クリスマス」柞刈湯葉「ルナティック・オン・ザ・ヒル新井素子「その神様は大腿骨を折ります」乾緑郎「勿忘草 機巧のイヴ 番外篇」高丘哲次「自由と気儘」坂永雄一無脊椎動物の想像力と創造性について」野崎まど「欺瞞」斧田小「おまえの知らなかった頃」酉島伝法「お務め」

 

2019年刊。

谷山浩子「夢見」高野史緒「浜辺の歌」高山羽根子「あざらしが丘」田中啓文「宇宙サメ戦争」麦原遼「無積の船」アマサワトキオ「赤羽二十四時」藤井太洋「破れたリンカーンの肖像」草野原々「いつでも、どこでも、永遠に。」津原泰水「戯曲中空のぶどう」

 

2019年刊。

新井素子「やおよろず神様承ります」小川哲「七十人の翻訳者たち」佐藤究「ジェリーウォーカー」柞刈湯葉「まず牛を球とします。」赤野工作「お前のこったからどうせそんなこったろうと思ったよ」小林泰三「クラリッサ殺し」高島雄哉「キャット・ポイント」片瀬二郎「お行儀ねこちゃん」宮部みゆき「母の法律」飛浩隆「流下の日」

 

創元SF文庫より刊行のもの

同時刊行された以下2冊はいずれも、東京創元社が主催する創元SF短編賞の正賞・優秀賞受賞者、佳作入選者による書き下ろしアンソロジー

2019年刊。

オキシタケヒコ「平林君と魚(いお)の裔(すえ)」宮西建礼「もしもぼくらが生まれていたら」酉島伝法「黙唱」宮澤伊織「ときときチャンネル#1【宇宙飲んでみた】」高山羽根子「蜂蜜いりのハーブ茶」理山貞二「ディセロス」

 

2019年刊。

松崎有理「未来への脱獄」空木春宵「終景累ヶ辻」八島游舷「時は矢のように」石川宗生「ABC巡礼」久永実木彦「ぴぴぴ・ぴっぴぴ」高島雄哉「ゴーストキャンディカテゴリー」門田充宏「Too Short Notice」

 

ハヤカワ文庫SFより刊行のもの

2022年刊。

伴名練によってセレクトされた新進SF作家のアンソロジー。原則として、SFの単著をまだ刊行していない作家の作品を集めたもの。

芦沢央「九月某日の誓い」天沢時生「ショッピング・エクスプロージョン」黒石迩守「くすんだ言語」琴柱遥「夜警」佐伯真洋「青い瞳がきこえるうちは」坂永雄一無脊椎動物の想像力と創造性について」斜線堂有紀「回樹」高橋文樹「あなたの空が見たくて」蜂本みさ「冬眠世代」宮西健礼「もしもぼくらが生まれていたら」麦原遼「それはいきなり繋がった」murashit「点対」八島游舷「Final Anchors」夜来風音「大江戸しんぐらりてい」

 

2022年刊。

後述の『ポストコロナのSF』に続く、日本SF作家クラブ編による書き下ろしSFアンソロジー第2弾。今回はオーウェル1984年』の100年後である2084年をテーマに競作。

福田和代「タイスケヒトリソラノナカ」青木和「Alisa」三方行成「自分の墓で泣いてください」逢坂冬馬「目覚めよ、眠れ」久永実木彦「男性撤廃」空木春宵「R__ R__」門田充宏「情動の棺」麦原遼「カーテン」竹田人造「見守りカメラ is watching you」安野貴博「フリーフォール」櫻木みわ「春、マザーレイクで」揚羽はな「The Plastic World」池澤春菜「祖母の揺籠」粕谷知世「黄金のさくらんぼ」十三不塔「至聖所」坂永雄一「移動遊園地の幽霊たち」斜線堂有紀BTTF葬送」高野史緒「未来への言葉」吉田親司「上弦の中獄」人間六度「星の恋バナ」草野原々「かえるのからだのかたち」春暮康一「混沌を掻き回す」倉田タカシ「火星のザッカーバーグ

 

2021年刊。

日本SF作家クラブ編による書き下ろしSFアンソロジー。「ポストコロナ」をテーマに19作家が競作。

小川哲「黄金の書物」伊野隆之オネストマスク」高山羽根子「透明な街のゲーム」柴田勝家「オンライン福男」若木未生「熱夏にもわたしたちは」柞刈湯葉「献身者たち」林譲治「仮面葬」菅浩江「砂場」津久井五月「粘膜の接触について」立原透耶「書物は歌う」飛浩隆「空の幽契」津原泰水「カタル、ハナル、キユ」藤井太洋木星風邪(ジョヴィアンフルゥ)」長谷敏司「愛しのダイアナ」天沢時生「ドストピア」吉上亮「後香(レトロネイザル) Retronasal scape」小川一水「受け継ぐちから」樋口恭介愛の夢北野勇作「不要不急の断片」

 

2021年刊。

樋口恭介編による、異常な論文を集めたアンソロジー。「SFマガジン」同名特集の増補書籍化。

円城塔決定論的自由意志利用改変攻撃について」青島もうじき「「空間把握能力の欠如による次元拡張レウム語の再解釈 およびその完全な言語的対称性」陸秋槎「インディアン・ロープ・トリックとヴァジュラナーガ」松崎有理「掃除と掃除用具の人類史」草野原々「世界の真理を表す五枚のスライドとその解説、および注釈」木澤佐登志「INTERNET2」柞刈湯葉「裏アカシック・レコード高野史緒フランス革命最初期における大恐怖と緑の人々問題について」難波優輝「『多元宇宙的絶滅主義』と絶滅の遅延──静寂機械・遺伝子地雷・多元宇宙モビリティ」久我宗綱「『アブデエル記』断片」柴田勝家「火星環境下における宗教性原虫の適応と分布」小川哲「SF作家の倒し方」飛浩隆「第一四五九五期〈異常SF創作講座〉最終課題講評」倉数茂樋口一葉の多声的エクリチュール──その方法と起源」保坂和志ベケット講解」大滝瓶太「ザムザの羽」麦原遼「虫→……」山新「オルガンのこと」酉島伝法「四海文書(注4)注解抄」笠井康平・樋口恭介「場所(Spaces)」鈴木一平+山本浩貴(いぬのせなか座)「無断と土」伴名練「解説──最後のレナディアン語通訳」神林長平「なぜいま私は解説(これ)を書いているのか」

 

2019年刊。

創刊以来初の3刷となった、「SFマガジン」百合特集の増補書籍化。

宮澤伊織「キミノスケープ」森田季節「四十九日恋文」今井哲也「ピロウトーク草野原々「幽世知能」伴名練彼岸花南木義隆「月と怪物」櫻木みわ・麦原遼「海の双翼」陸秋槎「色のない緑」小川一水「ツインスター・サイクロン・ランナウェイ」

 

講談社文庫タイガより刊行のもの

2022年刊。

講談社文庫タイガからもSFアンソロジーが登場。「“if”の世界」をテーマにした歴史改変SFの書き下ろしアンソロジー

石川宗生「うたう蜘蛛」宮内悠介「パニック――一九六五年のSNS斜線堂有紀「一一六二年のlovin' life」小川一水「大江戸石廓突破仕留(おおえどいしのくるわをつきやぶりしとめる)」伴名練 「二〇〇〇一周目のジャンヌ」

 

年刊ベストSFシリーズ

創元SF文庫より毎年刊行されていた、大森望日下三蔵による「年刊日本SF傑作選」と同様の企画を竹書房文庫が引き継ぐ形でスタートしたもの。こちらは大森望が単独でセレクトし、長さや発表形態を問わずに一年間に発表された作品の中から選出するとのこと。

2022年刊行。

酉島伝法「もふとん」吉羽善「或ルチュパカブラ溝渕久美子「神の豚」高木ケイ「進化し損ねた猿たち」津原泰水「カタル、ハナル、キユ」十三不塔「絶笑世界」円城塔「墓の書」鈴木一平+山本浩貴(いぬのせなか座)「無断と土」坂崎かおる「電信柱より」伴名練「百年文通」

 

2021年刊。

円城塔「この小説の誕生」柴田勝家「クランツマンの秘仏柞刈湯葉「人間たちの話」勝山海百合「あれは真珠というものかしら」牧野修「馬鹿な奴から死んでいく」斜線堂有紀「本の背骨が最後に残る」三方行成「どんでんを返却する」伴名練「全てのアイドルが老いない世界」麦原遼「それでもわたしは永遠に働きたい」藤野可織「いつかたったひとつの最高のかばんで」堀晃「循環」

 

2020年刊。

円城塔「歌束」岸本佐知子年金生活オキシタケヒコ「平林君と魚の裔」草上仁「トビンメの木陰」高山羽根子「あざらしが丘」片瀬二郎ミサイルマン石川宗生「恥辱」空木春宵「地獄を縫い取る」草野原々「断φ圧縮」陸秋槎「色のない緑」飛浩隆「鎭子」

 

 

 

以上、近年刊行されたものをなるべく網羅したつもりですが、もし他にもありましたらお知らせくださいませ。

 

 

 

※宣伝

2023年9月に開催された「第三回かぐやSFコンテスト」に投稿した短編SF小説が、選外佳作に選ばれました。近未来のパリを舞台としたクィア・スポーツSFです。

pikabia.hatenablog.com

こちらはカクヨム公式企画「百合小説」に投稿した、ポストコロニアル/熱帯クィアSF。

kakuyomu.jp

pikabia.hatenablog.com

フィッツジェラルド『若者はみな悲しい』 消費社会の魅惑と呪い

グレート・ギャツビー』と同時期の短編集

 

今回は光文社古典新訳文庫から出ている、フランシス・スコット・フィッツジェラルドの短編集『若者はみな悲しい』を紹介しよう。翻訳は、以前の記事で紹介した同文庫のポーも翻訳している小川高義

 

フィッツジェラルドは特に1920年代に活躍したアメリカの小説家で、「狂乱の20年代」「ローリング・トウェンティーズ」「ジャズ・エイジなどと呼ばれる、ヨーロッパとアメリカが好景気に湧いた時代を象徴する作家と言われる。代表作はもちろん、かの有名なグレート・ギャツビー偉大なるギャツビー)』だ。

 

今回紹介する『若者はみな悲しい』は『グレート・ギャツビー』の翌年、1926年に刊行された自選短編集の全訳である。ゆえにこの本には『ギャツビー』にわりと近い雰囲気の短編が収録されており、『ギャツビー』を好きな人が次に読むのにもいいし、『ギャツビー』を読んだことのない人が試しに読んでみるのにも最適である。

特に冒頭に収録されている二作、「お坊ちゃん(The Rich Boy)」「冬の夢(Winter Dreams)」は、かなり『ギャツビー』と共通する内容を持っており、言ってみれば『ギャツビー』のプロトタイプ、あるいは別バージョンという感じがある。

どちらの短編も『ギャツビー』と同じように、金持ちの子弟の、華麗できらびやかで、そして悲しい恋と人生の物語である。「お坊ちゃん」については、金持ちの主人公について、その友人の視点で語られる点まで同じだ。(「冬の夢」は主人公を中心とした三人称視点) これらどの作品にも、空前の好景気を迎えた時代のありあまる富、それを得た人びとの優雅な暮らし、力と富と誇りを持つ男たち、女性が社会に進出し始めた時代の、優雅で強気な女たち、そして──これがとても重要な部分だが──それら全てのものを取り巻く、虚栄と虚無が描かれている。

 

身なりが整うようになったデクスターには、アメリカでも有数の仕立屋がわかっていた。今夜もそのような名店の品を着ている。出身大学の伝統としては他校にない格調が、デクスターの身にもついていた。伝統を重んじ、型に合わせることが大事なのだと心得ている。気軽な服装で心安い態度をとるのは、よほどに自信がなければできないことだ。そんなのは次の世代になってから。デクスターの母親は旧姓をクリムズリックといって、もとはボヘミアの農民の娘だった。しゃべる英語は最後までおかしかった。その息子では、まだまだ形式にこだわる必要がある。
七時をまわってジュディ・ジョーンズが降りてきた。青いシルクのアフタヌーンドレスだ。もっと装いをこらしてくれてもよいのにという心地がした。まず挨拶をかわしてから、その思いは強まった。配膳室のドアを押したジュディが、「じゃ、マーサ、そろそろお願い」と声をかけたのだ。なんとなく執事でも現れて食事の開始を告げ、カクテルでも出るのではないかと思っていた。とはいえ、二人でゆったりと長椅子に坐って見つめ合うにおよんで、そんなことはどうでもよくなった。
「今夜、うちの親は留守なのよ」と、ジュディは考えた末のように言う。
(「冬の夢」より)

 

大衆消費社会の2つの面

 

『ギャツビー』を含めたフィッツジェラルドの小説のいいところは、単に裕福な生活の素晴らしさを書くだけではなく、かといって裕福であることを批判するだけでもないことだ。彼の小説に描かれる世界は、どんなにキラキラと輝いて見えても裏側に深い虚無と脆さを抱えているし、そしてまた、それがどんなに虚無的で脆いものであっても、圧倒的にきらびやかに輝いているのだ。読者はその輝きに魅了され、同時にその虚無を感じ取る。例えばこのような両義性が、フィッツジェラルドの小説を、単純ではない重層的なものにしているのだと思う。

おそらく、フィッツジェラルドの生きた時代こそが、いま我々が生きているような大衆消費社会の始まりの時代であり、彼はその輝きと呪いの両方を正面から受け止めた作家なのだ。言ってみれば彼の小説は大衆消費社会の神話なのであり、彼はその新しい世界の本質的なものを鮮やかに抽出して描いたからこそ、現在の読者にとってもリアルに感じられるのだと思う。

おそらく現在の日本の読者の大半は、フィッツジェラルドの登場人物たちの裕福な生き様に共感はできないだろう。しかしフィッツジェラルドがその作品に閉じ込めた、1920年代に彼が経験したことは、決して私たちと無縁ではない。加速する経済に突き動かされる社会、次々に現れる魅惑的な新商品と終わりのない消費、より効率的に、より大きな利益を求める仕事、そして、そういったものと決して切り離すことのできない、輝かしくも脆い恋愛──

このような事柄、大衆消費社会の到来によってもたらされた世界は、現在の私たちにとっても逃れることができないものだ。現在の私たちが感じる魅惑と、現在の私たちを取り巻く悲劇、その両方の原型を、フィッツジェラルドは100年前に書いていたのである。

 

小川高義による翻訳は、100年前の小説を、かなり現代的な言葉遣いで日本語に訳している。クラシックな、いわゆる「古典文学!」という雰囲気よりも、書かれた時代における「新しさ」を現在の読者も感じられるような訳だと思う。またフィッツジェラルドと言えば村上春樹が有名だが、村上訳と比べるとこの小川訳はよりザックリと突き放した感じというか、村上訳よりもクールでドライな感じがする。(完全に印象の話ですいません)

小川高義が翻訳したエドガー・アラン・ポーについてはこちらの記事をどうぞ。

pikabia.hatenablog.com

 

次の一冊

 

もしあなたが『ギャツビー』を未読で、この短編集を読んで面白いと感じたのであれば、やっぱり『ギャツビー』を読んでほしいですね。「アメリカ文学の最高傑作」とまで言われることもある超定番ですが、これも同じく小川訳で出ています。(タイトルは小さい「ッ」が入って『ギャッツビー』)

(追記:グレート・ギャツビーの翻訳比較記事を書きました!)

pikabia.hatenablog.com

 

フィッツジェラルドと共通するファンが多いアメリカ文学の作家と言えばJ.D.サリンジャーかと思います。サリンジャーに関しては、初めて読んだのがクラシックな野崎孝訳なのでやっぱりこちらを。この短編集にもいくつか収録されている、謎めいた連作シリーズグラース・サーガが好きです。

 

そのうち読みたい

 

消費社会と言えばやっぱりこれですよね! 積んでるので読みます。


 

 

 

※宣伝

ポストコロニアル/熱帯クィアSF

kakuyomu.jp

pikabia.hatenablog.com