もう本でも読むしかない

仕方ないので本でも読む。SF・文学・人文・漫画などの書評と感想

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『フォートナイト』 無人の街と野山を走り、偶然と反復を遊ぶ

フォートナイトをプレイするという習慣について

 

海岸にある無人のリゾート

普段あまりゲームを頻繁にプレイする方ではないのだが、ここのところフォートナイトを継続的にやっている。

数か月前ふと、毎日少しずつ、気楽にできることはないかなと思い、そういえば前に少しプレイしたフォートナイトがわりと好きだったなと思い出し、それ以降ゆるりとプレイするようになっている。(毎日ではないが)

しばらく続けているうちに、私はフォートナイトをプレイすることがある種の習慣となってきたのを感じている。決まったことを繰り返す、反復としての習慣である。フォートナイトでは毎回同じことを繰り返す。同じことを繰り返すが、そこで起こることは毎回違う。しかし本質的には同じことをやっている。毎回少し違うが根本的には同じことを、日々やり続ける。そのような習慣として私はフォートナイトをプレイしている。

 

フォートナイトってどんなゲームでしたっけ

 

こちらは公式サイト

www.epicgames.com

 

一応、フォートナイトがどういうゲームなのか説明しておこう。アメリカのエピックゲームスによる2017年発表のゲームで、だいたいのゲーム機やPC、タブレットスマホでもプレイできる。基本プレイは無料。ゲーム内で自分が操作するキャラクターのモデルを課金して買うことができるが、買わなくてもいいし、買ってもゲーム上で有利になることはない。プレイ人口は3億人を超えているらしい。

いろいろなモードがあるが、基本的にはプレイヤーは何らかのバトルロイヤルを戦う選手となって小さな島に送り込まれ、そこで落ちている武器やアイテムを拾いながら戦い、計100人のプレイヤーの中で生き残りを目指す個人戦もチーム戦もある。この島はそこそこ広いが、ストームと呼ばれる謎のフィールドが徐々に周囲から迫って来て、行動可能範囲がだんだん狭くなっていく。最初は島の各地に散らばったプレイヤーたちも、このストームに追われて互いに近づけられ、生き残りをかけて戦うわけだ。1プレイにかかる時間は、最後まで生き残った場合でも30分程度だろうか。

 

ゲームの設定は(敢えて)詳しく調べてはいないが、この試合のようなものの舞台となる島は無人である。しかしそこには街や家、工場や鉱山施設などがあり、ついさっきまで人が住んでいたように見える。海辺にはリゾートハウスが、山には山小屋が、のどかな丘の上には瀟洒な邸宅が建ち、我々は土足でそこに踏み込んで、何故か落ちているライフルやショットガンを拾う。

その島でバトルロイヤルを繰り広げる我々は、どうやら生身の肉体ではないらしい。戦って敗れると、そのプレイヤーの頭上に何かの機械が現れ、プレイヤーの姿は光となってそこに吸い込まれる。何らかの仮想的な身体が、この島に送り込まれて戦っていたようだ。

我々は丸い小さな島に空から降り立ち、山や丘を走り、川を渡り、打ち捨てられた無人の街をさまよう。誰もいないガソリンスタンドで、豪華な別荘で、何者かの秘密基地で我々は武器と弾薬、各種アイテムを探し回り、不意に誰かと出会えば、拾った武器で即座に攻撃する。

 

風景の中の移動と、偶然の出来事

日没を見ながら島へ降下する

 

私がこのゲームを好きなのは、プレイ時間の大部分はのんびりしていられるからだ。似たような形式のスプラトゥーンなどは、片時も休まずに塗装と戦闘に明け暮れることになるが、フォートナイトはどちらかというと大規模なかくれんぼのようなゲームであり、目立たず行動すれば誰にも会わずに終盤まで島の中をうろちょろすることができる。

島への着地点は自分で選ぶことができ、街に降りるとたくさんのプレイヤーと出くわしがちだが、島の端の方に降りればしばらくはゆっくり散策できる。ストームから逃れるように森や丘を走っていると、日が暮れたり昇ったりして、空の色が刻々と変わっていく。時には霧が立ち込め、雪の積もった地域もある。そんな風景の中を、プレイヤーは銃器を構えながら静かに走っていくのだ。この「風景の中を移動すること」そのものが、まずはこのゲームの重要な本質だと思う。移動の中で、やがて我々は他のプレイヤーと出くわして銃撃戦となり、あるいは遠くから見つけて尾行して狙撃し、あるいは背後からいきなり撃たれて何が起こったかもわからず脱落するだろう。

 

フォートナイトでは、移動の過程でのそれらの全てが偶然に起こり、全てが15分から30分ほどで終わる。小さいがそれなりに広い島は、いつも同じ島ではあるがそれぞれ違う表情を見せる。どんなアイテムを拾えるか、どんな熟練度のプレイヤーと出くわすかは全く予想ができない。我々は淡々と島に降下し、落ちていた銃を拾い、出くわしたプレイヤーと撃ち合う。誰もいない海岸のリゾートを通過する。放置された車やモーターボートを乗り回す。雪の積もる丘の上に身を潜め、通る者を狙撃してやろうとスコープを覗き込む。言葉はなく、たまに遠くで銃声が聞こえるだけだ。

最初は戦っても全く勝てないので、ひたすら隠れて走り回り、なるべく誰とも会わずに終盤まで残るのを目標にしていた。しかしそんなプレイを続けているうちになんだかんだで慣れるもので、だんだん弾が相手に当たるようになってくる。3ヶ月もやっていると、ときどきは最後の一人として勝ち残ることもできるようになった。しかしそれも、大部分が偶然に由来することだ。

 

仮想の身体となって小さな島に降り立ち、森や野原、人の住まない街をさまよい、偶然に身を任せ、たまさか出会った、誰とも知らない者と撃ち合う。勝っても負けても、戦わなくても30分で終わり。そのような、偶然に支配された、しかし基本的には同じ行為の絶え間ない反復として、私はフォートナイトというゲームをやっている。そこには、「いつも同じであること」「毎回変化すること」、あるいは「ルーティンをこなすこと」「状況に応じて判断すること」との間の、奇妙だが落ち着いたバランスがある。それが、フォートナイトを繰り返しプレイするという習慣の内実だと思う。刻々と色を変える風景の中を移動しながら、私はそれを淡々とやっている。

 

 

奈落の新刊チェック 2022年9月 海外文学・SF・現代思想・歴史・九段下駅・アレント・ホラーの哲学・ゴシック全書ほか

最近めっきり涼しくなってきているという噂ですが、いかがお過ごしでしょうか。朝夕冷えそうですので風邪をひかぬようお気を付け下さいませ。10月なのでアニメも新しいのが始まりますね。そんなこんなで9月刊行の新刊紹介です。

 

 

作者のアンネマリー・シュヴァルツェンバッハは1908年生まれのスイス人で、1930年代に同性の恋人とともに中近東を旅したという。これはその経験をもとにした小説集。ドイツ語の文学・童話・ファンタジー翻訳の大家である酒寄進一訳。

 

2019年に刊行されていたものが文庫化。なんとカポーティが10代から20代前半の時期に書いた未発表作が集められているという。翻訳はポー、ヘミングウェイフィッツジェラルドなど王道アメリカ文学を訳しまくっている小川高義

 

ロシアの怪物的作家ソローキンの、2013年に単行本で出ていた小説がこのタイミングで文庫化。2028年に復活した「帝国」が舞台のSF。訳者の松下隆志はソローキン作品を何冊も訳しています。

 

バタイユの代表的な本のひとつが初めての文庫化。訳者の江澤健一郎はバタイユのほかディディ=ユベルマンも手掛けています。

 

絶好調の竹書房文庫SFより、米中に分割統治された近未来の東京を舞台にしたSFミステリー。各エピソードを4人の作者が書き継いでいく形式のようだ。

 

ラフカディオ・ハーンの『怪談』を、なんと円城塔が翻訳。気になります。

 

2002年にデビューし、ヨーロッパを舞台とした4作のシャルル・ベルトランシリーズなどを遺して他界した本格ミステリ作家、加賀美雅之の単行本未収録作を集めたもの。

 

特にブローティガンの翻訳で知られる藤本和子の1994年に出たエッセイの文庫化復刊。

 

フーコーの未刊の講演と論文を集めたもの。タイトル通り、フーコーの中心的なテーマである狂気、言語、文学に関するものが収録されています。訳者は『ミシェル・フーコー、経験としての哲学: 方法と主体の問いをめぐって』を書いた阿部崇と、『世界文学アンソロジー: いまからはじめる』の共編者などもつとめる福田美雪。

 

講談社現代新書から刊行開始された新シリーズ「現代新書100」の第1弾が、アレントショーペンハウアーの2冊同時刊行。これは本文100ページ以内の新書で思想家・哲学者をコンパクトに紹介するもの。こういうのは売れてほしいですね。

 

著書『理不尽な進化』や、山本貴光とのコンビ仕事、他にも様々な人文・思想・哲学に関する活動で知られる吉川浩満による哲学入門。著者の個人的な、日常のエピソードを手掛かりに、哲学との出会い方を考える。

 

分析美学・大衆芸術研究を専門とする著者による、本格的な「ホラー」の哲学的考察。古典から現代ホラーまで広く分析されているようで面白そう。訳者の高田敦史もフィクションの哲学を専門とするそうです。

 

古代の神話から現代のポピュラーカルチャーに至るまで、人と神話の関係についての広範な論文を集めた論集。

 

芸術関係ではうれしいカラー版中公新書。副題の通り、カトリック東方正教会の双方についての美術史をおさらいできます。著者には『初期キリスト教・ビザンティン図像学研究』などガッツリした本も。

 

イギリスを代表する文学史家による、フルカラー図版多数の、中世から現代文化まで網羅した本格「ゴシック」全書、しかも監修は巽孝之となればもう買うしかないのでは。訳者の大槻敦子は歴史、社会科学、科学史などのジャンルで訳書多数。

 

20世紀美術に関する本を多く書いている著者による、デュシャンを転換点として現代アートについての本。著者は昨年も『マルセル・デュシャン 新展開するアート』を同じく未知谷から刊行しています。

 

これは練馬区立美術館で開催中の展覧会図録。日本におけるマネ受容をテーマに、マネの作品とマネに影響を受けた作品群が並びます。

 

世界各地の母系社会を、フォトジャーナリストである著者が記録した本とのこと。

 

江戸時代後期、日本にやってきた二頭のラクダが人気を博したという。その記録から読み解く、江戸時代における「異国」の認識。著者には『江戸の見世物』などの著書もあり。

 

米軍統治下の沖縄での生活に関する多彩な事項111項目を収めた生活史事典。

 

 

 

ではまた来月。

最近の谷崎賞と泉鏡花賞と川端賞の受賞作をまとめてみた(2010年~)

三大・渋い文学賞(個人的印象です)

 

芥川・直木以外にも文学賞はいろいろ(本当にいろいろ……)ありますが、谷崎潤一郎賞泉鏡花文学賞川端康成文学賞の三つは、個人的に「あまり目立たない賞だけど、いつも面白そうな小説が受賞しているなあ」という渋い賞という印象があります。(最初から失礼な物言いで申し訳ないのですが……)

また全体的に、新人賞ではなくある程度のキャリアのある作家に与えられる賞という感じもしますね。(厳密にそういうわけではないです)

今回は自分用メモも兼ねて、とりあえず2010年以降のこの3賞の受賞作をリストアップしてみました。

 

 

谷崎潤一郎賞

中央公論新社主催

選考委員:2010年から 池澤夏樹川上弘美桐野夏生筒井康隆堀江敏幸

 

2010年 阿部和重ピストルズ

 

2011年 稲葉真弓『半島へ』

 

2012年 高橋源一郎さよならクリストファー・ロビン

 

2013年 川上未映子愛の夢とか』

 

2014年 奥泉光『東京自叙伝』

 

2015年 江國香織『ヤモリ、カエル、シジミチョウ』

 

2016年 長嶋有『三の隣は五号室』・絲山秋子『薄情』

 

2017年 松浦寿輝『名誉と恍惚』

 

2018年 星野智幸『焔』

焔

Amazon

 

2019年 村田喜代子『飛族』

 

2020年 磯崎憲一郎『日本蒙昧前史』

 

2021年 金原ひとみ『アンソーシャルディスタンス』

 

2022年 吉本ばなな『ミトンとふびん』

 

2023年 津村記久子『水車小屋のネネ』

 

 

 

泉鏡花文学賞

金沢市主催

選考委員:

2009年~2015年 嵐山光三郎五木寛之金井美恵子村田喜代子村松友視

2016~2017年 嵐山光三郎五木寛之金井美恵子村松友視山田詠美

2018年から 嵐山光三郎五木寛之金井美恵子村松友視山田詠美綿矢りさ

 

2010年 篠田正浩『河原者ノススメ――死穢と修羅の記憶』

 

2011年 瀬戸内寂聴『風景』・夢枕獏『大江戸釣客伝』

 

2012年 角田光代『かなたの子』

 

2013年 磯崎憲一郎『往古来今』

 

2014年 中島京子『妻が椎茸だったころ』・小池昌代『たまもの』

 

2015年 長野まゆみ『冥途あり』・篠原勝之『骨風』

 

2016年 川上弘美『大きな鳥にさらわれないよう』

 

2017年 松浦理英子『最愛の子ども』

 

2018年 山尾悠子『飛ぶ孔雀』

 

2019年 田中慎弥『ひよこ太陽』

 

2020年 高樹のぶ子『小説伊勢物語業平』

 

2021年 村田喜代子『姉の島』

 

2022年 大濱普美子『陽だまりの果て』

 

2023年 北村薫『水 本の小説』・朝比奈秋『あなたの燃える左手で』

 

川端康成文学賞

公益財団法人川端康成記念会主催

※短編小説を対象とする。

選考委員:2010年 秋山駿、辻原登津島佑子村田喜代子
2011年~2013年 秋山駿、辻原登津島佑子堀江敏幸村田喜代子
2014年~2015年 角田光代辻原登津島佑子堀江敏幸村田喜代子
2016年 角田光代辻原登堀江敏幸村田喜代子
2017年~ 荒川洋治角田光代辻原登堀江敏幸村田喜代子

 

2010年 高樹のぶ子「トモスイ」

 

2011年 津村節子「異郷」(『遍路みち』収録)

 

2012年 江國香織「犬とハモニカ

 

2013年 津村記久子「給水塔と亀」(『浮遊霊ブラジル』収録)

 

2014年 戌井昭人すっぽん心中

 

2015年 大城立裕「レールの向こう」

 

2016年 山田詠美「生鮮てるてる坊主」(『珠玉の短編』収録)

 

2017年 円城塔「文字渦」

 

2018 保坂和志「こことよそ」(『ハレルヤ』収録)

 

(2019~2020休止)

 

2021年 千葉雅也「マジックミラー」(『オーバーヒート』収録)

 

2022年 上田岳弘「旅のない」

 

2023年 滝口悠生「反対方向行き」(『鉄道小説』収録)

 

 

以上、2010以降の谷崎賞泉鏡花賞・川端賞受賞作でした。

読書の参考になれば幸いです。

千葉雅也『現代思想入門』 圧倒的読みやすさの工夫と、その切実さ

ついに出た、現代思想の入門、その決定版

 

千葉雅也勉強の哲学が出てからしばらくの間、私はいわゆる現代思想の本を知人に勧める際、この本を挙げていた。「勉強」についてとても平易に、読みやすく書かれたこの本は、実のところ、「現代思想」のすぐれた実践であるからだ。(これは別に私の深読みではなく、実際に本書の「補論」では、本文で書かれた内容に対する現代思想的な裏付けが逐一挙げられている)

しかし、今後はそのような迂遠な方法をとる必要はなくなった。同じ著者による、同じくらいかあるいはそれ以上に読みやすい、その名も現代思想入門』が刊行されたからだ。今後は「現代思想が気になる」という人に、爽やかかつ明快に、「はい、『現代思想入門』!」と渡せるようになったのだ。素晴らしいことである。

 

実際、多くの声が讃えるように(そして現時点ですでに発行部数が10万部を突破していることが示すように)、この本はとても読みやすい。それは単に文章が平易で内容が噛み砕かれているというだけでない。この本の書かれ方には、登場する多くの思想家、様々なテーマ、そして抽象的な議論を扱うこの本をスムーズに通読するための、多くの工夫がなされているのだ。

 

読みやすさの工夫

 

その工夫をいくつか挙げてみよう。まず著者は、この本の主人公を三人に限定する。フランスの現代思想、あるいはポスト構造主義を代表する、デリダドゥルーズフーコーの三人だ。

実際にはこの本の中でその三人を扱う章は前半部であり、後半も含めると十人以上の思想家・哲学者が紹介されるのだが、それでも著者は最初のページで、「この本の目的はこの三人の思想を紹介することだ」と明言するのである。読者はここで、「あ、とりあえずその三人の話を読めばいいのね」という見通しが得られるわけだ。ゴールが見えていると、人は前に進みやすい。

そして、著者はこの三人の思想を、ひとつの統一されたテーマに沿って紹介する。そのテーマとは、「秩序と逸脱」である。このテーマはこの三人の思想を紹介する際にとどまらず、本書全体を貫くメインテーマともなっている。

言うまでもなく、デリダドゥルーズフーコーといった、フランス現代思想を代表する人物たちの考えたことは非常に多岐にわたり、複雑だ。しかし著者は彼らの考えを紹介するにあたって、「秩序と逸脱」という大きな話の芯を作り、その芯に沿って説明をしていく。このことにより、読者はこの本の主人公である三人の思想を、それぞれに関連した、ひとつながりの物語のように読むことができるのだ。(そしてその手つきは、他の思想家を紹介する後半部にも引き継がれる)
 
このように、複雑な思想をわかりやすく解説する工夫を凝らした本書ではあるが、しかし著者の本意は、複雑な思想を単純なものとして伝えることではない。そのこともまた、本の冒頭で名言される。

 

現代思想を学ぶと、複雑なことを単純化しないで考えられるようになります。純化できない現実の難しさを、以前より「高い解像度」で捉えられるようになるでしょう。

──と言うと、「いや、複雑なことを単純化できるのが知性なんじゃないのか?」とツッコミがはいるかもしれません。ですが、それに対しては、「世の中には、単純化したら台無しになってしまうリアリティがあり、それを尊重する必要がある」という価値観あるいは倫理を、まず提示しておきたいと思います。(「はじめに 今なぜ現代思想か」より 太字も本文のまま)

 

この『現代思想入門』の本当のすごさは、単に平易であることではなく、「複雑なことを単純化しないで」、しかし平易に語る、という点にあるのだ。

 

秩序と逸脱のバランス、そして「脱構築

 

そしてこれも強調したい点なのだが、この本のメインテーマは「秩序と逸脱」ではあるものの、これは必ずしも「逸脱すること」だけを勧めるものではない。本書は逸脱の価値や快楽をシンプルに語るものではない。秩序を作ることは当然必要とした上で、そこからの逸脱の道を常に用意しておくような、そのようなバランスについて現代思想から学ぼうとするのだ。

 

秩序をつくることはそれはそれで必要です。しかし他方で、秩序から逃れる思想も必要というダブルシステムで考えてもらいたいのです。

 

秩序からの逸脱というと、暴走する人を褒め称えているみたいに聞こえるかもしれませんが、ちょっとイメージを変えていただきたいのです。それは自分の秩序に従わない他者を迎え入れることを意味します。(「はじめに 今なぜ現代思想か」より)

 

そしてこのような、二つの相反する概念(「二項対立」)があった際にそれを単純に対立させ優劣をつけるのではなく、二項が互いに依存しあい、優劣をつけられない「宙づり」状態を敢えて見出すことを、ジャック・デリダ脱構築と呼んだ。この脱構築もまた、本書の大きなテーマである。

 

著者はこの脱構築の例を、多くのキーワードで挙げていく。

  • 白黒はっきりしない状態の「グレーゾーン」をあえて保っておく。
  • 物事は絶えず変化していくという前提の上で、変化していないように(同一的に)見える状態が一時的に現れることを指す「仮固定」
  • 人は仕方なく決断をするものの、その際「完全に正しい決断は原理的に不可能だということを念頭におく」という倫理観を示す「未練込みでの決断」
  • あらゆる方向に広がり繋がっていく関係性や連想を、しかしある時点でなんとなく、根拠なく断ち切る「非意味的切断」
  • 秩序の維持のためにあらゆる逸脱を取り締まるのではなく、時に迷惑でもあるような「多様性を泳がせておく」こと……などなど

これらの概念、キーワードは、前述のデリダドゥルーズフーコーといった思想家たちの考えの中から取り出されたものだが、しかし同時に著者の、そして読者である我々の人生そのものに深くかかわってくる考えであり、価値であり、倫理である。

「秩序と逸脱」の関係とバランス、二項対立に優劣をつけるのではなく「脱構築」することを、かつてないほどに平易に、しかし単純化することなく伝えようとした『現代思想入門』だが、現在におけるその試みには切実な動機と、それが必要だというリアリティがある。今、これを書かなければならなかったのだ。

これ以上ないほどに親切に、丁寧に書かれた現代思想の入門であるこの本で、現代思想の面白さをぜひ味わってほしいと思うし、そして何より、この本に込められた切実さとそのリアリティを味わってほしいと思う。

 

次の一冊

 

冒頭でも紹介した、千葉雅也の現代思想入門・実践編と言うべき本。「勉強」という行為によって人は不可避的に変化し、「キモくなる」ということ、そしてキモくなった後に、「来たるべきバカ」として戻ってくることを説く、原理的「勉強」論。

 

現代思想入門』が面白かったらぜひ手に取ってもらいたいのがこちら。様々な媒体に書かれた批評的文章を集めた単行本で、現代思想や哲学、文学や芸術、そしてプロレス、ギャル男にクリスチャン・ラッセンまで、多彩なテーマに関する硬軟とりまぜた文章が集まっている。自分の興味に合ったものが見つかるだろう。

 

そしてこの本が千葉雅也の出発点であり、ドゥルーズを論じた博士論文を書籍化したものである。簡単に読み通せる本ではないが、『現代思想入門』を読んだ後であれば、同様のテーマと問題意識が全編を貫いているのがわかるだろう。全体の論旨をまとめた「序 切断論」だけでも読んでほしい。

 

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こちらは過去の記事で紹介した、千葉雅也を含む四名による共著。この本もまた、「仮固定」や「未練込みの決断」によって執筆の悩みを切り抜ける、という試みについて語っており、執筆・制作における『現代思想入門』・実践編と言えるだろう。

 

千葉雅也には他にも小説やエッセイなど多彩な著作があり、どれも面白いので改めて紹介したい。

 

 

※この記事で紹介した、檜垣立哉ドゥルーズ 解けない問いを生きる』も、『現代思想入門』でお勧めのドゥルーズ入門書として挙げられていました。

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※『現代思想入門』の終盤で紹介されている、カンタン・メイヤスーについてはこちら。千葉雅也はこの本の翻訳者のひとりでもあります。

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『ゴールデンカムイ』 透明な国家と機械化した二階堂浩平

ゴールデンカムイ』に描かれなかったもの

 

以前私は下記の記事で、野田サトルゴールデンカムイには「世界の全体」が描いてある、と書いた。それは「例えば「愛」と「欲望」と「暴力/権力」と「生命」と「歴史」とか」の、世界を構成する諸要素が、物語とアクションの中に凝縮されて描かれているように思えるということだった。

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今もその印象は大枠では変わっていないのだが、漫画が完結して振り返ると、いくつか「これは描いてなかったな」と思う部分があり、今回はその部分について書いてみる。

 ゴールデンカムイに結果的に描かれなかったものの中で特に重要なのは、日本という国家機構そのものだと思う。具体的には明治政府である。この漫画には軍隊として鶴見中尉率いる第七師団が登場するが、終盤に顕著なように、彼ら自身は明治政府に対する反逆者として描かれる。

してみるとこの漫画は基本的に、囚人などのはぐれ者、アイヌ少数民族、そして軍隊の中の反逆者たちが金塊をめぐって争う物語であり、そこには実際の国家権力を担う勢力は登場しないのだ。(第七師団の戦力自体は国家が準備したものではあるが)

明治政府が登場しないことで何か物語上の不都合があるかというと、特には無い。ゴールデンカムイは十分に濃密で過不足なく語られた架空歴史アクションであり、物語の中で解決すべき問題は解決され、物語が描くべきと要求するイメージは描かれていたと思う。

では、明治政府が登場しないことで、何が描かれずに終わったか。それは、日清・日露戦争を戦い、近代的国民国家を形成しようとした主体、その過程でアイヌという民族を抑圧した主体が描かれなかったということである。

周知の通り、この漫画では詳細な調査に基づいたアイヌの文化と、アイヌが置かれた状況が描かれる。そして物語自体もまた、アイヌ文化の存続をその大きな目的とする。にもかかわらず、そのアイヌの置かれた状況そのものを作り出した主体が、この漫画においては奇妙なまでに不在なのだ。アイヌに対する明治政府の関与はサラッとしか触れられず、ラストではむしろアイヌに対して便宜を図る立場で伊藤博文らの名前が登場する。

少々意地悪く言えば、この漫画は最終的には、抑圧者の存在をぼやかしながら被抑圧者の努力を描くという形になっているのだ。謎に包まれていた鶴見中尉が、少なくとも語られた範囲では最後まで何のイデオロギーも持たない空白の人物であったことも、抑圧的なものの不在を強調している。

 

英雄的な肉体の躍動

 

ゴールデンカムイは「歴史」についての漫画ではあるが、その際に抑圧者/被抑圧者という構造を描くことは選ばなかった。もちろん歴史というのはそのようなシンプルな二項対立で語りきれるものではないが、とはいえ抑圧者の存在を透明化することは、意識的にせよ無意識的にせよかなり大きな操作と言える。

では代わりに何を描いたのか? この漫画が最も強調していたのは、そのような大きな構造ではなく、やはり登場人物たちの肉体とそのアクションであったと思う。杉元、アシリパ、尾形、土方、鶴見などなど多彩なキャラクターたちの肉体の躍動と、それが展開する空間そのものの確かな力が、この物語に説得力を与える。その物語とは、国家の統制から逃れた者たちの野望と欲望、意志と希望の物語だ。

彼らはみな、抑圧された者たちではあるかもしれない。彼らの出自そのものに、国家との関係は刻印されてはいる。しかし少なくとも物語の中で、国家は彼らの邪魔をしない。ただ利害が衝突する反逆者同士が争うだけだ。作者は抑圧の構造よりも、反逆する肉体を描くことを選んだのだと思う。(それは漫画という媒体にとってはむしろ自然な方向性だが)

それはある種のユートピアだ。ここでは強靭な肉体と容赦のない暴力がぶつかり合い、そしてそのこと自体が肯定される。鮮やかなアクションの中で、反逆者たちの生が礼賛される。それはとても切実に、そして豊かに描かれた生であり、ユートピアであったと思う。

強く美しい彼らの肉体は、英雄的な肉体である。神話的と言ってもいい。自在に関節を外して監獄を逃れる白石の肉体もまた英雄的である。これは国家に統制された兵士の肉体とは少し違う。兵士というのは、皆が同じ動作を行うために作られるからだ。ヘラクレスのような英雄たちが近代日本を舞台に相争い、その強さを寿ぎながら殺し殺されて欲望を遂げるのがゴールデンカムイという漫画だ。彼らが抑圧から自由でいられるのは、その英雄的な肉体あるがゆえかもしれない。

 

依代としての二階堂浩平

 

では、ゴールデンカムイにおいて、全ての肉体は英雄的な強さと自由を持っていたか。例外もある。第七師団の一員、二階堂浩平である。

二階堂浩平は物語の序盤において、己の半身である双子の兄弟・洋平を失う。その後二階堂はまず頭皮を、次に片足を、さらに片手を失い。それぞれの欠けた部位を人工物によって補うことになる。義足には銃が仕込まれ、身体そのものが火器となる。最終的に生まれるのは、半ば機械と化した兵士の姿だ。杉元らの強く健康で強靭な、英雄的な肉体は、神話的・古代的なものだ。二階堂の肉体にだけ、都市の、機械の、近代の印が刻まれている。それは古代的な力能と健康を失った、マシン・エイジの肉体であり、戦車と毒ガスの時代、総動員と大量死の時代の肉体である。

そして二階堂は意志を持たない。ほぼ全ての登場人物が何ものかへの忠誠あるいは大義、でなければ現世的な欲望に従って戦う中、二階堂の中にあるのは己の半身を滅ぼした杉元への復讐心だけだ。それは元はと言えば己の鏡像への執着であり、何か自分より大きい存在や意義への帰依ではない。主人公たちの中で、二階堂だけが追うべき物語を持たないのだ。(事実彼は、その最期において己自身と再会して救われる)

 

抑圧を逃れた反逆者たちの神話的肉体の物語の中で、二階堂浩平だけがその肉体を近代によって侵食されている。国民国家帝国主義、機械と兵器が彼の肉体に接ぎ木されているのだ。作者がゴールデンカムイという物語から、強靭な肉体を持った英雄たちから排除した近代の歪みと暴力が、巡り巡って二階堂浩平の肉体に流れ込んだのかもしれない。彼が自分の意志を持たないのはそれが理由だろうか?

語られぬ暴力、見えない暴力の依代となった二階堂は、しかしそれを知らぬまま、そして何の意志も希望も持たぬまま、己自身と見つめ合いながら爆発の中に消えた。私にとってのゴールデンカムイの結末はこのシーンである。

 

次の一冊

 

夏目漱石の研究でも知られる著者による入門書。この本の第一章では、近代国家として生まれ変わることを目指した日本とアイヌ琉球との関係についてコンパクトにまとめられている。

 

 

※宣伝

2023年9月に開催された「第三回かぐやSFコンテスト」に投稿した短編SF小説が、選外佳作に選ばれました。近未来のパリを舞台としたクィア・スポーツSFです。

pikabia.hatenablog.com

こちらはカクヨム公式企画「百合小説」に投稿した、ポストコロニアル/熱帯クィアSF。

kakuyomu.jp

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グレアム・ハーマン『四方対象』で体験する、存在論の冒険

実在論ブームと、オブジェクト指向存在論

 

日本では2010年代の後半あたりから紹介され、一部でちょっとしたブームとなっていた哲学のジャンルが実在論である。「事物が存在する」というのはどういうことか? 我々が「存在する」と思っているものは本当に存在するのか? というようなことを考える哲学だ。(分野が分野なのでさりげないブームではあるが)

このジャンルの中で最も目立っていたのが思弁的実在論と呼ばれる潮流で、カンタン・メイヤスーがその代表的な論者である。このメイヤスーに関しては以前の記事で紹介したのでそちらを参照されたい。

pikabia.hatenablog.com

そしてまた別の潮流が、今回取り上げる対象指向存在論、またはオブジェクト指向存在論であり、その入門書がグレアム・ハーマン『四方対象』だ(原著2010年)。ハーマンは英語圏におけるこの実在論ブームの仕掛け人の一人でもある。

 

全ての「対象」は同等に扱われる!

 

さてハーマンが展開する対象指向存在論とは何か。それは一言で言えば、この世の全ての存在は「対象」として等価であるという主張である。そしてここで「この世の全ての存在」と言う時、それは(普通の言い方で)実在するものと実在しないものの双方を含むのである。少し長くなるが、冒頭から引用しよう。
 

徹底的な懐疑の代わりに、素朴な観点から議論を始めよう。哲学が、科学者や銀行員、そして動物たちの生活と共有していること、それは私たちが皆、対象(object)に関わっているという事実である。「対象」の正確な意味は以下で詳述されることになるが、(あらかじめ述べておけば)そこには物理的でない存在者や実在的でない存在者さえ含まれているはずである。ダイヤモンドやロープ、中性子と並んで、軍隊や怪獣、四角い円、そして実在する国や架空の国からなる同盟もまた、対象の内に含まれうるということだ。こうした対象は全て存在論によって説明されねばならず、その価値を貶めたり、取るに足らないものとみなしたりしてはならない。とはいえ私は──私の仕事に好意的な人と批判的な人のいずれもが繰り返すように──、全ての対象は「等しく実在的だ」などとは、一度も主張していない。ドラゴンは電柱と同じように自立的な実在性をもっているなどと言うのは誤りだからである。私の主張は、全ての対象が等しく実在的であるということではなく、全ての対象は等しく対象であるというものである。実在的なものと非実在的なものを同じ仕方で説明するより大きな理論の下でしか、妖精やニンフ、ユートピアがヨットや原子と同列に論じられることはないはずだ。(「はじめに」より)

 

うーん、名文だ……いや、いきなり詠嘆を始めてしまって申し訳ないのだが、この冒頭を読むだけで深い満足感に浸ってしまう。

ここでハーマンは、我々が見たり触れたりするものと、我々が想像したり妄想したりするものが、同等の権利を持って「対象」として説明されなければならない、と力強く断言しているのである。

しかも、それは決して、「同等の存在である」と言っているのではない。ドラゴンと電柱が同等の存在だと述べるのは単なるファンタジーである。この本が飽くまでも哲学書であるのは、ドラゴンと電柱が「『対象』という形で同等であり、同じ理論で説明できる」ということを完璧に論証することを目指しているからだ。

そして、この序文の時点ですでに、著者の軽妙な語り口と反骨精神、そして具体例の挙げ方に特に現れるユーモアを感じることができると思う。この本は本格的な存在論哲学を扱っているが、同時にとても軽妙でユーモラスな本なのだ。

 

「対象」に対する、よくある二種類の否定

 

この本ではプラトンアリストテレスカントフッサールハイデガーなどそうそうたる哲学史の偉人たちを引きながら理論を展開していくが、序盤の重要な部分だけかいつまんで挙げてみよう。

最初に著者は、自分が述べるような「対象」の存在が否定される際の二つの方向を挙げる。それが「解体」「埋却」であり、それは下への還元と上への還元だとされる。

まず「解体」だが、これは我々が捉える対象が「根本的なものではない」とする態度だ。つまりひとつひとつの対象は、より大きく根源的な存在のあらわれのひとつにすぎないという態度である。その根源的な存在とは、古代ギリシアであれば「水」や「空気」、あるいは「四大元素」などとされた。あるいは時代が下ると、それは例えば大いなる「一者」や「流れ」などと呼ばれるかもしれない。いずれにせよ、この方向は我々に、個々の対象に囚われるのではなく、もっと大きく深い根本的なものを見ろと主張する。これが「解体(下への還元)」だ。

続いて「埋却」は逆方向の批判である。例えば我々の目の前にあるリンゴは、リンゴという単一の存在ではない。それは赤さ、甘さ、固さ、冷たさ、美味しさなど、我々が感じる様々な性質の「束」にすぎないというのだ。我々は何らかの統一的対象ではなく、それが我々の感覚に与えてくる種々の性質だけを受け取っているのである。ゆえに個々の「対象」は存在しない。これが「埋却(上への還元)」である。

 

著者によれば、哲学史の大半はこのどちらかの態度によって「対象」を取るに足らないものに貶めようとしてきたとする。ゆえに著者はこの両者に反論し、「対象こそが哲学のヒーローであるべき」という主張を展開するのだ。

私はたまに趣味で哲学書を読む程度の読者だが、上記の二つの傾向がいわゆる「哲学」の主流だというのはなんとなくわかる。だからこのグレアム・ハーマンの主張には、なんというかやんちゃで反抗的な元気の良さが感じられるのだ。

ハーマンは、哲学史において取るに足らないものとされていた「対象」──それは怪獣四角い円ドラゴンも含む──こそが本質的なものだと、軽妙でユーモラスなこの本によって主張している。それはなんだか妙に勇気づけられることだ。

 

四方対象とは?

 

ここではこの本のほんの入り口だけを紹介したが、とはいえ題名である「四方対象」が何なのかについても多少は触れておこう。実はこの「四方対象」こそが、ハーマンの考える「対象」の、四種の存在のしかたである。その四種とは以下の通り。

  1. 感覚的対象──意識に現れる全てのもの
  2. 感覚的性質──意識に現れる全てのものの、実際の見え方・現れ方
  3. 実在的対象──決して直接アクセスできないが、存在しているもの
  4. 実在的性質──存在しているものの、知性によってのみ認識できる性質

ハーマンは全ての「対象」をこの四種の概念でとらえることにより、あらゆるものの存在を同等に説明できるというのである。これが一体どういうことなのかは、ぜひ実際に本を読んで体験してもらいたい。歯ごたえはあるが、波乱万丈の存在論の冒険が味わえるはずだ。

 

次の一冊

 

この本は様々なテーマに関する千葉雅也の対談集だが、思弁的実在論を始めとした近年の実在論についての対談が4本収録されており、参考になる。

 

そのうち読みたい

 

2020年に刊行された、グレアム・ハーマン本人による思弁的実在論のガイドブック。主要な思想家と著作が網羅されているようなのでぜひ読みたい。

 

 

 

 

※宣伝

2023年9月に開催された「第三回かぐやSFコンテスト」に投稿した短編SF小説が、選外佳作に選ばれました。近未来のパリを舞台としたクィア・スポーツSFです。

pikabia.hatenablog.com

 

またこちらは2024年1月に行われた、Kaguya Planet「気候危機」特集の公募に応募した短編。こちらも佳作として選評で取り上げていただきました。

pikabia.hatenablog.com

 

こちらはカクヨム公式企画「百合小説」に投稿した、ポストコロニアル/熱帯クィアSFです。

kakuyomu.jp

pikabia.hatenablog.com

YOMUSHIKA MAGAZINE vol.2 SEPTEMBER 2022 特集:無機的なもの

一九七二年十一月のある日、シカゴ在住の写真家・デザイナーであるネイサン・ラーナーはウェスト・ウェブスター大通り八五一番地に行き、自分の借家人ヘンリー・ダーガーが四十年にわたって住んでいた部屋の鍵を開けた。数日前に部屋を出て老人ホームに移っていったダーガーは静かな、だが少しばかり変わった男だった。(中略)だが、ラーナーは若い学生と一緒に部屋のなかに入ると、予期せぬ発見をした。あらゆるたぐいのもの(糸玉、空になったビスマス壜、雑誌の切り抜き)の山のあいだをかきわけて進むのは容易ではなかった。だが、部屋の隅の古い大箱の上に何かが積み上げられていた。それはタイプで打たれ、手で綴じられた十五冊の本だった。そこには『非現実の王国で』という雄弁な題名の、三万ページ近くにおよぶ一種の空想小説が含まれていた。

ジョルジョ・アガンベン「ニンファ」より(高桑和己訳・『ニンファ その他のイメージ論』所収)

 

 

「YOMUSHIKA MAGAZINE」とは?

 

執筆者の息抜きと愉しみという純粋な目的のために編み出された雑誌風コンテンツ。不定期刊。

 

 

もくじ

 

What's New

 

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アメリカはブルックリンのシンガー、キング・プリンセスの、7月に出たセカンドアルバム収録曲。よいビデオです。

 

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ついにネトフリで配信開始された、ニール・ゲイマンのグラフィック・ノベルを原作とするドラマ「サンドマン」。原作者本人がエグゼクティブ・プロデューサーとして制作を指揮しているだけあって素晴らしい出来。原作についてはこちらの記事をどうぞ。


shonenjumpplus.com

いま一番楽しみにしてる漫画が、少年ジャンプ連載中のマポロ3号『PPPPPP』。天才7つ子、視覚化されるピアノの演奏、といった大胆な設定を上手く活かしながら細やかな物語を展開しています。とりあえず3巻くらいまで読んでみてください。

 

 

特集:無機物

 

有機的な統一性とか、有機的なつながりとか、世の中いろいろ有機的であることがもてはやされますが、やっぱり人間ときには無機的な理念に引きこもることも大事ですよね。無機的であること、断片的であること、そして孤独であること。今回は無機的な世界に浸れるあれこれを羅列してみます。

 

 

まずは理論編だが、もうタイトルと表紙だけで百点満点。ベンヤミンの唱えた概念をタイトルに引きつつ、生物ではなく「感覚するモノ」として生きていく方法を追求していく。有機的でない生き方を模索する哲学的実践。

 

 

J.G.バラードの特に初期作品には、無機的なものの美学が繰り返し描かれている。世界全体が結晶化していく長編『結晶世界』がその最たるものだが、ここではあえて短編を紹介。この第二巻にはタイトルからして無機的な表題作「歌う彫刻」ほか、精神に影響する住宅が登場する「ステラヴィスタの千の夢」、捨てられた人工衛星を砂漠から見つめる傑作「砂の檻」などを収録。

 

 

無機物特集であれば絶対に出てくると思いましたよね? 正解。近代日本文学が誇る無機物派(そんな流派はない)の巨匠、稲垣足穂。月が落ちてきたので拾ったりピストルをバンと撃ったり天体嗜好症だったりするのが世界の全てである。

 

 

稲垣足穂と言ったら鳩山郁子も挙げなければ。硬質な線と構図で描かれた、少年たちの儚い世界。この長編『カストラチュラ』では、それが歴史と死者たちに結び付く。食べることや性的なことなど肉体に関するテーマが、無機的な描線によって冷たく描かれる。

 

 

Colossal Youth

Colossal Youth

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無機的な音楽だから電子音楽、というのも面白くないので、なるべく人力のものを。最低限しか弾かないギターとベースとオルガン、抑揚のないボーカルによる、底冷えのするようなミニマルなバンド音楽。

 

 

ダダイズムの一員として、機械をモチーフにした絵を多く描いたのがフランシス・ピカビア。そして共通するモチーフを描いていたマルセル・デュシャンの作品はやがて工業製品そのものになっていき、「彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも」ではガラス板の上に機械的イメージが妖しく散りばめられる。20世紀初頭に訪れたマシン・エイジの美学を象徴する芸術家たち。

 

 

デュシャンと同じものを不条理文学として表現したのがカフカ。「流刑地で」に代表される機械と死のイメージは戦慄的な美をもたらす。こちらの記事も参照。

 

 

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キュビズムから出発したフェルナン・レジェが1924年に発表した、マシン・エイジを象徴する映像作品、その名も「バレエ・メカニック」。メタリックで狂騒的な不条理のイメージに、ジョージ・アンタイルの荒れ狂うピアノが花を添える。津原泰水による同名の都市SF『バレエ・メカニック』もおすすめ。

 

 

宮崎駿は偉大なアニメ監督だが、その映像のあまりに完全な有機的全体性には多少の息苦しさを感じてしまう。無機的で断片的なのは、やはり押井守だ。人間とも人形ともつかない登場人物たちの微細な動きを追求したこの「スカイ・クロラ」はその到達点だと思う。(物語はわりとグロい)

 

 

科学技術と生命の関係について、主にドゥルーズフーコーを引きながら縦横に検討する檜垣立哉の大著。ドゥルーズが論じる、マイナーテクノロジーとしての冶金術、国家の外部としての冶金術師についての議論が面白い。同著者の文庫『ドゥルーズ 解けない問いを生きる』の後半増補部分でもその概要を読むことができる。

 

 

尾崎翠のこの代表的小説は、作中で苔を育てたりもしているものの、一助、二助、三五郎といった登場人物の記号的な名前や、深くは説明されない「第七官」という感覚にはやはり近代の無機的な要素を感じる。

 

 

有機的なものも無機的なものも全てを描いたと言えそうな手塚だが、この初期傑作『メトロポリス』にはその都市の情景、そして両性具有の人造人間ミッチイの存在によって鮮烈な無機物のイメージがある。ミッチイへの別れを、本人の代わりに動かぬ天使像に向かって告げるラストは忘れがたい。言うまでもなく着想源のこちらも合わせてどうぞ。『メトロポリス 完全復元版

 

 

 

Random Pick Up:ジョルジョ・アガンベン『ニンファ その他のイメージ論』

 

政治哲学の分野で有名なアガンベンだが、もともとは芸術や美学の分野が専門だったという。この本はその芸術論、イメージ論を集めた日本独自の論集。まず表紙がとても良い。

表題論文「ニンファ」は10の断章に分かれ、様々な絵画、映像作品、舞踏などのイメージを巡り、様々な芸術家や批評家の言葉を引用しながら、人間とイメージとの関係の、微妙で繊細な、時に危うい感じのする襞を描写していく。

博覧強記のアガンベン古今東西の理論や作品をこれでもかと引用しながら、しかしだいたい、いつも同じような話をする。それは何かと何かのあいだ、「閾」の話だ。もはやAではなく、しかしまだBではない、どっちつかずの領域。アガンベンはいつもその領域の話をする。芸術や絵画が出現させるイメージもまた、そのようなどっちつかずの場所にあり、我々の眼をすり抜け続ける。

 

 

あとがき

 

ブログを始めてはや10ヶ月ほど経ったが、リアクションはよくわからないものの、新しい記事や古い記事が読まれた形跡のみが数字として見えるのはなかな面白い。

しかし、誰かに読まれることのほかに、ブログを書くもう一つの大きな目的がある。自分で読み返すためだ。一度書いてしまった文章は自分のものではなくなる。それはもう半分くらい他者だ。「こいつ、話が合うな~」と思いながら自分で自分の書いた記事を読む。書いた内容をだいたい忘れているので、たいへん面白く読める。

(2022/9/5)