もう本でも読むしかない

仕方ないので本でも読む。SF・文学・人文・漫画などの書評と感想

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奈落の新刊チェック 2022年4月 海外文学・SF・ファンタジー・現代思想・歴史・翻訳・ヴェイユ・モノと媒介・絶滅・社会集団・聖遺物・パルクールほか

さて、今月も奈落の新刊チェックです。4月も出るわ出るわ、気になる新刊が。ブログ開設以来早いものでこの新刊チェックも5か月目ですが、まあ飽きるまでは続けようかと思います。では今月もいってみましょう。

 

2004年に『ジョナサン・ストレンジとミスター・ノレル』がベストセラーとなったファンタジー作家の第二作。広大な館に13人の骸骨とともに住む主人公の物語らしい。訳者の原島文世はダイアナ・ウィン・ジョーンズなどファンタジーを多く手掛ける。

 

こちらも館ものファンタジー。1981年メキシコ生まれカナダ人作家による新世代ゴシック・ホラーで、イギリス郊外の館で起こる怪異。

 

中国の女性SF作家14名の短編を集めたアンソロジー。こういうものが作れるというところに層の厚さが感じられる。編者の橋本輝幸は早川の『2000年代海外SF傑作選』『同2010年代』も編集。編訳の大恵和実は『中国史SF短篇集-移動迷宮』にも参加している。

 

フィッツジェラルドの未完の遺作『ラスト・タイクーン』が村上春樹訳で登場。私はふだんあまり春樹作品は読まないけど春樹訳はやっぱり読みますね。

 

あの「気狂いピエロ」に原作小説があったなんて全く知らなかったが、なぜかこのタイミングでいきなり新潮文庫入り。1961年に邦訳が出ていたらしい同作家の『逃走と死と』はなんとキューブリック現金に体を張れ」の原作とのこと。

 

アンチクリストの誕生』『どこに転がっていくの、林檎ちゃん』と、近年ちくま文庫で刊行が続いているプラハ生まれのユダヤ人作家ペルッツ(1882-1957)の3冊目。17世紀のパリで宰相リシュリューと町の床屋が対決するらしい。

 

話題となった初の邦訳『掃除婦のための手引き書 ――ルシア・ベルリン作品集』が3月に文庫化したルシア・ベルリンのさらなる作品集が登場。併せてどうぞ。

 

推し、燃ゆ』で旋風を巻き起こした宇佐見りんの、文藝賞受賞によるデビュー作。5月には新作『くるまの娘』も控えてます。

 

なんと、松浦理英子による『たけくらべ』の現代語訳が登場。今こそ読むタイミングかもしれない。他にも「やみ夜」を藤沢周、「うもれ木」を井辻朱美、「わかれ道」を阿部和重が現代語訳したものが収録されいる。(阿部和重??)

 

多彩なジャンルで活躍する津原泰水、その人形堂シリーズ(現在二作目まで)が文庫化。人形修復が題材です。

 

フリッカー式 鏡公彦にうってつけの殺人』に始まる鏡家サーガ三島賞受賞作『1000の小説とバックベアード』で名を馳せたメフィスト賞作家・佐藤友哉が、アラフォーとなった現在の人生を題材に赤裸々に書いた最新作。すごく気になるけど読むのが怖い。

 

ちくま文庫シェイクスピア全集でおなじみ松岡和子による1993年刊行のエッセイが、全集完結を記念して文庫化。

 

村上春樹の文化的ルーツのひとつを1970年代のアメリカ文学・SFの翻訳文化にあるとし、当時の文化状況を研究したもの。副題に藤本和子の名前があるのはブローティガン読者としては嬉しい。

 

広い範囲を扱うメディア論・文化論の論集。ドイツ人文学においては、文化はモノとしての媒介と密接に結びついたものとして論じられるとのこと。表紙のタイプライターがぐっとくる。

 

ドゥルーズの弟子で、ドゥルーズの死後に出版されたいくつもの論集を編纂したダヴィッド・ラプジャードの著書。「忘れられた美学者」スーリオを引きながら語られる美学/哲学とのこと。同著者はほかに『ドゥルーズ 常軌を逸脱する運動』の邦訳あり。

 

「絶滅」から人間の生について考えるという哲学の本。著者は環境哲学・科学哲学などを専門とし、河本英夫との共著も多い。

 

かの『百科全書』とはどんな本で、それをドニ・ディドロはどのように編集したかについての大著(890ページ)。著者は他にもディドロについての著書があり、サガンなどフランス文学の翻訳も。

 

アーレントの『革命について』と言えばちくま学芸文庫のロングセラーだが、これは同署のみすず書房からの新訳。今回はアーレント自身が英語からドイツ語に翻訳したドイツ語版からの邦訳とのこと。

 

白水社文庫クセジュより。ヴェイユについてはいつかしっかり読みたいと思っています。

 

明治維新前後の日本社会の形成を、副題にあるとおり社会集団と市場との関係の中で分析する。社会の土台が不安定になっていると感じると、もともとそれがどうやって形成されたのかは気になってくる。74年生まれ著者は近世~近代の日本社会について著書多数。岩波新書自由民権運動――〈デモクラシー〉の夢と挫折』。岩波ジュニア新書『生きづらい明治社会――不安と競争の時代』、講談社選書メチエ町村合併から生まれた日本近代 明治の経験』などどれも面白そう。

 

www.suiseisha.net

謎めいたタイトルだが、内容は多岐にわたる分野の二十世紀の造形にまつわる思想を、イタリアの例を中心に集めた論集のようだ。これは著者にとって二冊目の単著だが、前著である『イタリア・ファシズムの芸術政治』はファシズム時代のイタリアにおける芸術と政治の関係を多角的に分析した大変面白い本だった。なお水声社の本はアマゾンでは買えないので他のところで買おう!

 

小川一眞は明治・大正期に皇室から任命された「帝室技芸員」として、当時の日本の姿を記録し続けた写真師にして、日本の写真文化の普及に貢献した技術者だという(旧千円札の夏目漱石の写真も撮影したらしい)。帝国日本をメディアの面から形作った人物の生涯と写真を紹介。

 

「誰も望まなかった戦争」はなぜ起きたのか。著者は第二次大戦前夜の英独における、ごく普通の人々の生活の記録を追う。著者はイギリスの歴史家で、ゲッベルスの日記の編集と英訳も手掛けたという。

 

オリエンタリズム的な興味により完全にイメージだけが独り歩きすることになったイスラム世界のハレムの実際のところが書かれた本。著者は中公新書オスマン帝国-繁栄と衰亡の600年史』など、オスマン帝国を中心にトルコに関する歴史書を刊行している。

 

聖遺物、やっぱり気になりますよね。タイトルはユルめだが、著者は『12世紀の修道院と社会』などの著書もある中世キリスト教の専門家。

 

生前退位宣言から令和改元までの間に起こったことを、SNSにおける言説を軸に分析する表象文化論。確かに天皇(制)について考える際にこの観点はむしろ王道かもしれない。メディアと政治と権威の関係が最も鋭く現れる局面であろう。著者はこれまでも表象の面から天皇を論じてきた。

 

台湾ブームと言われて久しいが、これは日本と台湾の間でサブカルチャーの伝播がいかに行われたかについての本格的な研究書。目次を見るだけでもすごい。

 

なんかすごいアクロバティックなアクションをするということくらいしか知らないパルクールだが、この本はその発祥からいかに現在の姿になり、そして広告的な価値を帯びるまでになったかをエスノグラフィの手法で記述するらしい。著者はアメリカの分文化社会学者。都市論としても面白そう。

 

こちらはSFではなく、岩波科学ライブラリ-だけあって本気で人工冬眠の実現を目指している研究についての本である。冬眠、できるのだろうか……

 

原題「Clothes, Clothes, Clothes. Music, Music, Music. Boys, Boys, Boys.」からの直訳タイトルがすごいが、初の女性パンクバンドとも呼ばれるザ・スリッツのギタリストによる回顧録である。最近の河出の女性パンク関連書ラッシュはすごい。

 

プログレの中でも私にとっては比較的ポップで聴きやすい印象があるカンタベリー・ロックのディスクガイド(単に曲が短いからかもしれない)。ソフト・マシーンとかロバート・ワイアットとかスラップ・ハッピーとかはたまに聴きます。しかし「世界初のディスク・ガイド」と書いてあるのは本当なのだろうか……

 

以上、4月の新刊チェックでした。ではまた来月。

『ザ・バットマン』はゴシック・クラシックになり損ねたのか?

 


映画のネタバレを含みます!

マット・リーヴス監督「ザ・バットマンは、一見本格的なゴシック・ノワールとして始まる。 ゴッサムシティはかつてないほどにゴシックな建築の立ち並ぶ都市となった。天を突き刺す摩天楼の下、深く暗い夜の中で怪しげな覆面の者たちが暗躍し、そしてほとんど光を通さない暗闇の中からバットマンが現れる。物語は陰鬱なトーンで進み、モノクロームな画面が現代都市に中世的あるいは世紀末(ゴシック・リヴァイヴァルの時代)的な趣を与える。

このゴシックはしかし、古色蒼然たるゴシックではない。印象的なシーンで流れるニルヴァーナのギターの音色からも感じられる通り、これはスタイリッシュに作られた現代的なゴシックである。 ゴスと呼んだ方がしっくりくるかもしれない。それは現代の技術で撮影されたことによる解像度の高さからも感じられる。 古典的なゴシックはどこかぼやけているものだ。これはとても贅沢に作られた、スタイリッシュな高解像度ゴシックである。

 

映画の「様式」と「古典」

 

さて、これが現在どの程度受け入れられている考え方なのかよくわからないのだが、映画というのは観客の記憶の中で成立する芸術である。 観客が直接的あるいは間接的に見聞きしてきた映画の記憶を呼び起こすことによって、映画は映画となる。 例えばティム・バートンによるバットマンはまさにそういう映画だった。 映画の終盤、バットマンとジョーカーが時計塔の階段を駆け上るシーンに召喚されたヒッチコック『めまい』のシーン。それは単にオマージュを捧げているということではなく、かつての偉大なる映画のアクションを反復するということこそが、ティム・バートンにとっては映画そのものなのだ。そして後世の映画によってその様式を模倣される作品が「古典」と呼ばれる。

ティム・バートンは黄金期ハリウッドの映画を反復したが、今回のバットマンは70年代アメリカのノワール映画、ハードボイルドな探偵映画やギャング映画の記憶を召喚する。ゴシックの王道を往く舞台装置と、暴力を孕んだ都市映画のスタイルを真摯に再現することによって、ザ・バットマンは新たな古典となることを目指すかのように見えた。(「古典」「クラシック」とは、つまり様式への意志だ)

 

様式を裏切る結末

 

しかし物語の終盤で、映画は奇妙な転回を見せる。悪役リドラーの正体と、それに続く展開によってだ。それまでは荘厳な舞台装置の中で、隠された崇高なものを暗示するようなゴシックの美学に彩られてきたこの映画が、リドラーの正体を明かすことにより、一転して散文的な凡庸さの世界に引き摺り出される。そして、それはリドラーが蒔いた種に呼応した者たちの蜂起によって完成する。

そこにはもう、ゴシックの美学に耽溺していた世界はない。世界の残酷な凡庸さが明るみに出され、バットマンはまるで身を守る闇を失ったかのように寄る辺なく戦うだけだ。この映画の結末の苦さは物語の苦さだけではない。深い闇の中に隠されていたはずの神聖なる悪が、より逃げ場のない凡庸さの中にあることを知ってしまった苦さだ。そこにはゴシックの美学も、古典としてのノワールの様式もない。我々が幻想を遊ばせる魅力的な闇はなく、ただ距離も深さもない灰色の現実を示して映画は終わる。

 

これは、美学と様式の不徹底なのだろうか? この映画はクラシック映画になろうとして失敗したのだろうか?

その判断は各々に任せるしかないが、私はこの結末に制作者たちの、美学に溺れることへの躊躇が現れているような気がする。 ゴシックでノワールな美しいバットマン映画を生み出そうとしながら、果たしてそれだけでいいのだろうかというためらいが、この映画にいびつなリアリティを与えているような気がする。

 

 

 

jp.ign.com

IGNの英国版からの翻訳であるこの記事、内容が濃くて面白いのだが、前述した終盤の展開に関しては失敗と断じている。映画にとって必要のない展開だったとまで言われているのだが、そこまで言われると「いや、確かにあの終盤が無かったら綺麗に終わってたかもしれないけど、あの終盤があるからなーんか気になる不思議な映画になってるんだよね……」と思うのである。

 

 

次の一本

どちらも大変いい映画ですよね。

 

 

そのうち読みたい

文中ではかなり適当にゴシックの話をしていますが、そのうちちゃんと勉強したいなとは思っております。

 

 

文庫でポーを読もう! エドガー・アラン・ポーの文庫を徹底比較

ポーの文庫ってどれを買ったらいいの!?

私は御多分に洩れずエドガー・アラン・ポーのファンです。ミステリ、ホラー、ゴシック、SF、ファンタジーといったジャンル全てのルーツになっていると言っても過言ではない(やや過言)作家なので、そういうジャンルが好きな人はだいたいポーが好きになるのです。

しかもポーの小説は全部短い。上記ジャンルのエッセンス中のエッセンスが、短編の形で凝縮している。何度読んでも面白いわけだし、もう持っているのに新しい文庫が出たりするとつい買ってしまうわけですね。

というわけでこのブログでもポーを紹介しようかと思ったものの、いざどのバージョンにしようかと考えると困ってしまった。種類が多い。どれも魅力があり、一長一短で選び難い。

ならばいっそ現行の文庫版を網羅して比較すると、これから読む場合に便利なのでは……? というわけで、今回の記事はポーの文庫版徹底比較です。各社から出ている文庫版のリンクに、発行年数・翻訳者・収録作(小説集のみ)を併記してみました。ぜひ自分に合いそうなものを探してみてください。

 

 

光文社古典新訳文庫

私は光文社古典新訳文庫が好きなので、もし特にこだわりが無いのであればこのシリーズをお勧めします。この文庫レーベル自体が古典的名作を読みやすい訳で届けることをコンセプトにしているので、とにかく読みやすいはずです。2冊あるので、気になる作品が載っている方、あるいはいっそ両方買ってください。どちらの巻にも、ミステリ系とホラー系がバランスよく収録されていますね。訳者の小川高義は同レーベルでフィッツジェラルドヘミングウェイも訳してます。(なお「アッシャー家」の方には詩も二編収録)

2006年 小川高義訳 黒猫/本能vs.理性──黒い猫について/アモンティリャードの樽/告げ口心臓/邪鬼/ウィリアム・ウィルソン/早すぎた埋葬/モルグ街の殺人

2016年 小川高義訳 アッシャー家の崩壊/アナベル・リー/ライジーア/大鴉(おおがらす)/ヴァルデマー氏の死の真相/大渦巻への下降/群衆の人/盗まれた手紙/黄金虫(こがねむし)

 

 

新潮文庫

現行の新潮文庫はSF・文学批評でもおなじみ巽孝之編訳で3冊にまとまっていますが、「ゴシック編」「ミステリ編」「SF&ファンタジー編」とテーマ別に編集されているのが特長。有名な作品はおおむねゴシック編とミステリ編に収録されているため、3冊目のSF&ファンタジー編はここで挙げた中でも最もマニアックなセレクトとなっていて楽しい。訳文は光文社古典新訳と比べるとやや硬めか。先日放送された「NHK100分de名著」でポーを解説していたのもこの訳者。

2009年 巽孝之訳 黒猫/赤き死の仮面/ライジーア/落とし穴と振り子/ウィリアム・ウィルソン/アッシャー家の崩壊

2009年 巽孝之訳 モルグ街の殺人/盗まれた手紙/群衆の人/おまえが犯人だ/ホップフロッグ/黄金虫

2015年 巽孝之訳 大渦巻への落下/使い切った男/タール博士とフェザー教授の療法/メルツェルのチェス・プレイヤー/メロンタ・タウタ/アルンハイムの地所/灯台

 

新潮からは詩集も出てます。

2007年改版

 

角川文庫

今のところ最新のものがこの角川のシリーズで、「ゴシックホラー編」と「怪奇ミステリー編」の二分冊。訳者の河合祥一郎シェイクスピアや「ナルニア物語」の翻訳で有名ですね。わりと詩が収録されているのもこのシリーズの特長。訳文はかなり読みやすさを重視しているように思えます。

(2023年5月追記)上記二点に続き、第三弾「ブラックユーモア編」が刊行されました! 他の文庫に収録されていない作品ばかりの、かなりマニアックなセレクトです。さらに人名事典や「ポーの文学論争」など付録が110ページも付いているとのこと。

2022年 河合祥一郎訳 赤き死の仮面/ウィリアム・ウィルソン/落とし穴と振り子/大鴉(詩)/黒猫/メエルシュトレエムに呑まれて/ユーラリー(詩)/モレラ/アモンティリャードの酒樽/アッシャー家の崩壊/早すぎた埋葬/ヘレンへ(詩)/リジー/跳び蛙

2022年 河合祥一郎訳 モルグ街の殺人/ベレニス/告げ口心臓/鐘の音(詩)/おまえが犯人だ/黄金郷(エルドラド)(詩)/黄金虫/詐欺(ディドリング)――精密科学としての考察/楕円形の肖像画/アナベル・リー(詩)/盗まれた手紙

2023年 Xだらけの社説/悪魔に首を賭けるな――教訓のある話/アクロスティック(詩)/煙に巻く/一週間に日曜が三度/エリザベス(詩)/メッツェンガーシュタイン/謎の人物(詩)/本能と理性――黒猫(評論)/ヴァレンタインに捧ぐ(詩)/天邪鬼(あまのじゃく)/謎(詩)/息の喪失――『ブラックウッド』誌のどこを探してもない作品/ソネット――科学へ寄せる(詩)/長方形の箱/夢の中の夢(詩)/構成の原理(評論)/鋸山奇譚/海中の都(みやこ)(詩)/『ブラックウッド』誌流の作品の書き方/苦境/マージナリア(エッセイ)/オムレット公爵/独り(詩)

 

岩波文庫

クラシックな風格が欲しいという人はやっぱり岩波で決まり。岩波になってくると訳者も故人で、いわゆる古典的な「海外文学」という感じの文体。収録作のセレクトも現在のスタンダードとはわりと違うのが面白い。

2009年改版  中野好夫訳 黒猫/ウィリアム・ウィルソン/裏切る心臓/天邪鬼/モルグ街の殺人事件/マリ・ロジェエの迷宮事件 「モルグ街の殺人事件」続篇/盗まれた手紙

2006年改版 八木敏雄訳 メッツェンガーシュタイン/ボン=ボン/息の紛失/『ブラックウッド』誌流の作品の書き方/ある苦境/リジーア/アッシャー家の崩壊/群集の人/赤死病の仮面/陥穽と振子/黄金虫/アモンティラードの酒樽

 

岩波からは以下も出てます。

2008年

2009年

1997年

 

ちくま文庫

今回挙げた中でもちょっと異色の一冊。日本ファンタジーノベル大賞を受賞している作家・翻訳家・アンソロジストで、数々の話題作を掲載している文学ムック「たべるのがおそい」の責任編集も務める西崎憲による編訳。松井冬子による装画も耽美。

2007年 西崎憲訳 黄金虫/ヴァルドマール氏の死の真相/赤き死の仮面/告げ口心臓/メールシュトレームの大渦/アッシャー家の崩壊/ウイリアムウイルソン

 

集英社文庫

こちらもわりとクラシック。訳者の富士川義之英米文学だけでなくナボコフなども手掛ける。種村季弘による解説を収録というボーナス付き。30年以上生き残っている版というのはオーラがあります。

1992年 富士川義之訳 リジーア/アッシャー館の崩壊/ウィリアム・ウィルソン/群衆の人/メエルシュトレエムの底へ/赤死病の仮面/黒猫/盗まれた手紙

 

 

これは集英社文庫から出ている「ポケットマスターピース」という全集的なシリーズの一冊で、普通の文庫本の3~4倍の厚さなので注意(800ページ超)。鴻巣友季子桜庭一樹が編纂しており、収録作は様々な訳者によって翻訳されたもの。

2007年 大鴉/アナベル・リイ/黄金郷/モルグ街の殺人/マリー・ロジェの謎/盗まれた手紙/黄金虫/お前が犯人だ!(翻案)/メルツェルさんのチェス人形(翻案)/アッシャー家の崩壊/黒猫/早まった埋葬/ウィリアム・ウィルソン/アモンティリャードの酒樽/告げ口心臓/影/鐘楼の悪魔/鋸山奇譚/燈台/アーサー・ゴードン・ピムの冒険

 

中公文庫

こちらもクラシックな一冊で、文豪・丸谷才一による翻訳。アッシャー家も「アシャー館」と訳されている。丸谷才一と言えばジョイスの翻訳も有名ですね。

2010年改版 丸谷才一訳 モルグ街の殺人/盗まれた手紙/マリー・ロジェの謎/お前が犯人だ/黄金虫/スフィンクス/黒猫/アシャー館の崩壊

 

ここからは中公文庫からの異色作。『ポー傑作集』はなんと、当初「江戸川乱歩訳」として刊行されたものの実は乱歩訳ではなく、夭折した伝説のミステリ作家・渡辺温とその兄・渡辺啓助が訳したものなのだ。ゴーストライターならぬゴーストトランスレイターである。雑誌「新青年」で活躍した作家たちによる翻訳なので、中井英夫とかあの辺りが好きな方は挑戦してください。

さらに続いての『赤い死の舞踏会-付・覚書(マルジナリア) 』は文豪・吉田健一訳。明治から昭和にかけてのポー翻訳がどんどん発掘されている模様。

2019年 渡辺温渡辺啓助訳 黄金虫/モルグ街の殺人/マリイ・ロオジェ事件の謎/窃まれた手紙/メヱルストロウム/壜の中に見出された手記/長方形の箱/早過ぎた埋葬/陥穽と振子/赤き死の仮面/黒猫譚/跛蛙/物言ふ心臓/アッシャア館の崩壊/ウィリアム・ウィルスン

2021年 吉田健一訳 ベレニイス/影/メッツェンガアシュタイン/リジイア/沈黙/アッシャア家の没落/群衆の人/赤い死の舞踏会/アモンティラドの樽/シンガム・ボッブ氏の文学と生涯/覚書(マルジナリア)

 

創元推理文庫

そして、ポーマニアが最後に辿り着くのはこの創元推理文庫・ポオ小説全集……私もいつかこの四分冊を書棚に並べてみたいものです。

1988~1991年

 

 

以上、近年流通しているポーの文庫をできるだけ紹介してみました。漏れがあった場合はこっそり教えてください。

収録作品だけでなく、巻末の付録なども様々なので、もし可能なら大きな書店で手に取って比べてみてもらうのがいいと思います。

 

 

余談

いろいろ偉そうに語ってしまいましたが、実を言うと、私は昔ポーはあまりピンと来ていませんでした。初めて読んだ頃はもっと派手だったり過激だったりする作家(ガルシア=マルケスとか)にはまっていたので、ポーは地味に思えたわけです。

これはなんというか、今初めてザ・ビートルズを聴いても凄さがわかりづらい、という話と似ている気がします。先駆者がやったことが、その後定番になりすぎていてどこが先駆的かよくわからないという。

後になって読み返すと、これがその後に続くいろんな小説、いろんなジャンルの先駆けであり、そしてそれが短編の形にコンパクトに美しく凝縮されていることがわかり、「ポー、めちゃめちゃクールじゃん!」と鮮やかに手のひらを反すことになるわけです。

もし読んだことがない方、昔読んだけどあまり覚えていない方も、ぜひこの機会に読んでみてください。

 

追記:「アッシャー家の崩壊」を記事で紹介しました!

pikabia.hatenablog.com

 

 

※短編小説については、以下の記事もごらんください!

pikabia.hatenablog.com

pikabia.hatenablog.com

 

 

※宣伝

2023年9月に開催された「第三回かぐやSFコンテスト」に投稿した短編SF小説が、選外佳作に選ばれました。近未来のパリを舞台としたクィア・スポーツSFです。

pikabia.hatenablog.com

またこちらは2024年1月に行われた、Kaguya Planet「気候危機」特集の公募に応募した短編。こちらも佳作として選評で取り上げていただきました。

pikabia.hatenablog.com

 

こちらはカクヨム公式企画「百合小説」に投稿した、ポストコロニアル/熱帯クィアSF。

kakuyomu.jp

pikabia.hatenablog.com

圀府寺司『ユダヤ人と近代美術』 決して単純化できない、ユダヤ人と美術の関係

これは何についての本か?

 

圀府寺司『ユダヤ人と近代美術』光文社新書)だが、一言では説明しづらい本である。 これはユダヤ人に特有の美術」の本ではない。この本によればユダヤ人に特有の表現というものは存在しない。つまりユダヤ美術」というものがあるわけではないのだ。

この本に書かれているのは、近代のヨーロッパ諸国に現れたユダヤ系の美術家や、美術家を支えたパトロンたちがどのようにどのように生き、考え、芸術活動をしたかということだ。

 

美術史におけるユダヤ

 

まず初めに重要なことが書かれている。 そもそも正統派ユダヤ教において偶像を作ることは禁じられている。すなわち絵を描くこと自体が禁じられているのだ。これこそが、ユダヤ人の美術家が近代以前にはほとんど存在しなかった理由である。

またユダヤ人として名声を得ることは難しく、17世紀のスペインの巨匠ベラスケスユダヤ人であることを隠し続けた。

 

ユダヤ人の美術家の登場は啓蒙主義の時代を待たなければならない。 啓蒙主義の影響を受けて世俗化の道を歩んだユダヤ人たち、特にドイツで確立された「教養(ビルドゥング)」という理想を目指してギムナジウムで学んだユダヤ人たちによって、初めてユダヤ人による美術が歴史の表舞台に現れるのである。

やがてフランスが多くの移民を受け入れるようになると、20世紀初頭のパリにおいてピサロシャガールなど多くのユダヤ系美術家が活躍した。 そしてオーストリアのウィーンでは多くの裕福なユダヤ人たちが前衛的な芸術家のパトロンとなってウィーン分離派などの活動を支えた。

 

しかし1930年代になると、徐々に情勢はユダヤ人たちにとって厳しいものとなっていく。フランスのドレフュス事件に代表される反ユダヤ主義の高まりは社会不安に乗じて各国で高まり、その最悪の帰結としてナチス政権が誕生する。

もとより反ユダヤ主義はロシアや東欧におけるポグロムに見られるように、長い間続いてきた。国を持たない民族であるユダヤ人は、いかにそれぞれの国の中に入り込み溶け込もうとも、しばしば社会不安のはけ口として利用され、迫害されてきた。

ドイツとオーストリアでは1938年のクリスタルナハト以降、ユダヤ人への迫害が本格化し、それはホロコーストへと続いていく。

ナチス・ドイツユダヤ人も多く関わっていたモダンアートを退廃芸術とし、多くの作品が没収された。 ウィーンではユダヤパトロンたちのコレクションも没収された。それらの作品は焼却されるかあるいは戦費のために海外に売却され、多くの芸術作品がスイスやアメリカに渡ったと言う。

ヨーロッパにいられなくなったユダヤ人の芸術家やコレクターたちのうち、運よく脱出に成功したものたちは、外国、特にアメリカに亡命した。人も作品も、ヨーロッパはモダンアートの財産の多くを失うことになった。

アメリカには特に多くのユダヤ人たちが亡命し、その中には多くの美術家や美術批評家も含まれ、彼らは20世紀半ばのアメリカで活躍することになる。美術家としてはマーク・ロスコバーネット・ニューマン、批評家としてはクレメント・グリーンバーグなどがいる。

 

一様ではない美術家たち

 

ここまで駆け足で見てきたようにユダヤ系美術家たちの運命は過酷なものである。しかし、それぞれの態度や考えは決して一様ではない。この本はむしろ近代ヨーロッパ、そしてアメリカに生きた彼らが、いかにそれぞれ違っていたかをこそ書いているように思える。

絵を描くためにはまず、正統的なユダヤ教の教義を捨てなければならない。しかし例えそれを捨てたとしても、伝統的なユダヤの価値観との距離の取り方はそれぞれに違う。

また世俗化しヨーロッパ諸国に溶け込もうとしたユダヤ人たちは「同化ユダヤ人」と呼ばれるが、その生き方や態度ももちろん多様である。

 

著者は終章において、この研究テーマそのものの困難さについて語っている。ユダヤ人と美術の関係を紐解くことは、当のユダヤ人にとっても歓迎すべきこととは限らないのだ。

例えばモダンアートを手掛けた美術家はコスモポリタン的で普遍的な価値を目指した。それはユダヤ人であるかどうかと関係なく受け入れられる価値である。そのような芸術家にとって、自分の作品が「ユダヤ美術」として捉えられることは必ずしも良いことではない。

また「ユダヤ美術」というカテゴリーは、新たなナショナリズムと結びつきもする。著者によれば、「美術史」の「著者」は常に国家である。故に「ユダヤ美術史」とは、イスラエルの誕生あるいはそれに先立つシオニズム運動があって初めて成立した概念だという。これこそが、この本が必ずしも「ユダヤ美術」についての本ではないということの意味なのである。

 

オーストリアからアメリカに亡命した批評家エルンスト・ゴンブリッチは、1997年に「ウィーンのユダヤ文化」についての講演を依頼され、厳しい調子でこのように語ったという。「ユダヤ文化という概念は、昔も、今も、ヒトラーと、その前身者たちと、その後継者たちによってでっちあげられたものだと私は考えています」オーストリア人の中からユダヤ人という集団を選別すること自体の乱暴さと危険性について、ゴンブリッチは語っているのだ。

 

揺れ動き続けたマルク・シャガール

 

この本で特に印象に残るのは、マルク・シャガールについてのエピソードだ。

シャガールは現ベラルーシのヴィデブスクに生まれ、ユダヤの伝統的な言語であるイディッシュ語とロシア語を話して育った(なおイディッシュ語は歴史上一度も「国語」になったことがない言語である)。やがてサンクト・ペテルブルグでレオン・バクストの画塾で学び、師を追うようにパリに出て名を成した。

シャガールは多くのユダヤ人美術家のような、教養があり裕福な「同化ユダヤ人」ではない。彼は東欧の下層ユダヤ人でありながら、前衛美術の世界だけでなく大衆的な人気も獲得した。

しかしシャガール自身は、フランス/ロシア/ユダヤ、あるいは資本主義と社会主義、これらのうちのどのアイデンティティをも選ぶことができず、その狭間で自分を抑えながら生き続けたという。彼の生きた時代、ソ連ではスターリンユダヤ人の粛清を行っていた。

シャガールの絵は広く受け入れられていたが、彼はしばしば絵の中に、イディッシュ語ユダヤ文化を解する者にだけ理解できる要素を描き込んでいた。それらの要素は、ユダヤ文化に通じた批評家の不在のため、近年まで発見されなかったという。

 

次の一冊

 

イコノロジーの基礎を築いたと言われる美術史家のアビ・ヴァールブルクもまた、19~20世紀のドイツに生きた同化ユダヤ人だった。田中純『アビ・ヴァールブルク 記憶の迷宮』では、ユダヤ人であることにまつわるヴァールブルクの葛藤と、その研究内容についての深い関わりが追及される。

 

時ならぬベストセラーとなってしまった黒川祐次『物語 ウクライナの歴史』中公新書)だが、ウクライナベラルーシポーランドリトアニアなど東欧諸地域とロシアにいかにして多くのユダヤ人が住むことになったかについて詳しく書かれており、合わせて読むと背景の理解が深まるだろう。

 

 

映画ファンは「コナン映画」をぜひ見てみてほしい 初心者が語る、王道娯楽スパイアクションとしての『名探偵コナン』

あなたはコナン映画を見たことがあるか?

www.conan-movie.jp

新作映画『ハロウィンの花嫁』が公開する名探偵コナンなわけだが、これを読んでいるみなさんは、最近のコナン映画を見たことがあるだろうか?

もし見たことがない場合は、配信でもなんでもいいのでぜひ一本見てみてほしい。おそらく予想外のものが見られるはずだからだ。

かくいう私も、コナンは基本的な設定やあらすじは知っていたものの、序盤を読んだり見たりしたことがあるだけで、最近どんな感じになってるのかは全く知らなかった。

そしてある時、特に予備知識もなく近年の劇場版である紺青の拳(フィスト)を見て、あまりの衝撃に打ち震えたのである。めちゃめちゃ面白いのだ。

 

私の中で名探偵コナンといえば、高校生から小学生の姿になった探偵のコナン君が、仲間と一緒に面白おかしく事件を解決したり、たまにちょっとシリアスな展開になったりするくらいの印象だった。しかし初めて見た近年のコナン映画はそのようなものではなく、いや基本的にはそのようなものなのだが、その規模と豪華さと作り込み、そして圧倒的なエンターテイメント精神は全く想像以上のものだったのだ。

コナン映画を見て、私はほとんど、現代日本から失われていたかに見えた王道娯楽映画はここにあったのかとすら考えてしまった。

 

王道娯楽映画・スパイアクションとしてのコナン映画

 

ではコナン映画とは一体どんな内容なのか。

まず映画の舞台となる街が紹介される。それは東京だったりどこかの観光地だったりあるいは外国だったりする。時にはそれは大きな建造物の場合もある。

そしてその場所で事件が起こり、やがてそれは国際犯罪へ発展する。(この辺作りが凝っており、登場する外国人はちゃんと外国語でしゃべる)

そしてなんだかんだで国際犯罪に巻き込まれたコナンたちは、陸海空を股にかけた激しいアクションに身を投じながらその解決を目指し、そして最後にはだいたい巨大な建物か乗り物が爆発して大音響とともに事件が解決、街と子供たちの間に平和が戻るのである。

 

さて、この「観光地」「国際犯罪」「派手で大規模なアクション」という要素の揃い方であるが、つまりこれはスパイアクション映画なのである。名探偵コナンの劇場版は原作漫画やTV版のような推理ものではなく、どちらかというと007ミッション・インポッシブルのようなカテゴリーなのだ。

思えば日本映画に、新作が毎年公開されて大ヒットするスパイアクション映画のシリーズが今まであっただろうか。それを、いつのまにかコナン映画が実現していたのだ。(もし他にあったらすみません)

 

娯楽映画としての完成度

 

網羅的に見たわけではないので近年のものに限った印象だが、コナン映画は脚本も非常に良くできており、非現実的な設定や出来事をたくみに推理アクションに仕立て上げている。

ハイテクを駆使した国際犯罪アクションを描きながら、小学生探偵団もしっかり活躍し、シリーズのお約束もばっちり踏襲する。

いい意味で安心して見られるが、クライマックスでは目を疑うような出来事が連続する。私は紺青の拳(フィスト)の終盤では3分に1回は「そんなバカなことが!?」と心の中で叫んでいた(爆笑含む)。

 

そして王道娯楽映画としての極めつけの要素は、毎回のラストに挿し込まれる「次回予告」である。コナン映画では、大団円に続くエンディングテーマが終わった後に、来年のコナン映画の予告が流れるのだ! この、まさにプログラムピクチャーの時代を思わせる次回予告を見ると、「ああ、私は今娯楽映画を見ている……来年も見よう……」というしみじみとした感慨に浸ることができるのである。

このように、現代日本では得がたい体験をもたらしてくれるコナン映画を、映画館でも配信でもいいのでぜひ見てみてください。

 

 

※王道娯楽映画だけあって全く予備知識なしでも楽しめるコナン映画だが、最低限、以下の要素は認識しておくといざという時に戸惑わなくて済むだろう。

  • コナン君は解毒剤を飲むと高校生の姿(新一)に戻れる
  • コナン君のスケボーはエンジン付きで車よりも速く走る
  • コナン君のサッカーボールは巨大化し、ロケット付きのスニーカーで蹴ると破壊力がすごい
  • 蘭ねえちゃんは空手の達人ですごく強い
  • 蘭の友達の園子は財閥令嬢で実家の財力がすごい

 

近作紹介

私が初めて見てハマったのがこちら。舞台を日本からシンガポールに移し、貴重な宝石をめぐって警察と国際犯罪組織と怪盗キッド(怪盗です)がしのぎを削る。そして同時に行われる空手大会では、空手の達人・京極真(空手の達人です)が世界一に挑もうとしていた。複雑に錯綜する諸要素がマリーナ・ベイ・サンズを舞台に一つとなり、怒涛のカタストロフに雪崩れ込むクライマックスは圧巻の一言。

 

こちらは2021公開作。全世界から選手が集まる国際的スポーツイベントが東京で開催。その開会式に合わせて最新型リニアモーターカーが名古屋から東京に向かって出発するが、その周辺でいくつもの事件が勃発する。FBI捜査官で狙撃の達人・赤井秀一(狙撃がうまい)とその家族がコナンらと協力して活躍する。暴走したリニアモーターカーが開会式に突っ込む危機をコナン君は回避できるのか!?

 

公安警察かつ私立探偵かつ悪の組織への潜入工作員という盛りすぎ設定で人気のキャラクター・安室透(またの名を降谷零/バーボン/ゼロ)(設定が多い)をメインに据えたヒット作。コナンが世話になっている探偵の毛利小五郎がテロの犯人容疑で逮捕される。コナンは公安警察の安室透と時に対立、時に協力しながら、東京湾で行われるサミットをめぐる陰謀に立ち向かう。安室透が表現する「公安」の姿に戦慄しつつ、キャラクターの魅力を最大化することに全振りした華麗なアニメーションに眩惑される、ある意味怪作である。この映画のヒットにより安室透は100億の男と呼ばれた。(実際の興行成績は91億らしい)

 

原作コミック

 

映画を見て原作コミックに興味を持っても、すでに100冊を超える単行本を読むのはかなりハードルが高い。しかしそこは小学館もわかっていて、各キャラやテーマ別に分かれた編集版が多数刊行されている。気になるキャラの話から読んでみよう。

 

雑談:集中力がなくて本が読めない……そんなあなたのためのラディカル・シンキング

集中力がなくて本を読み続けられない!どうすればいい?

 

近年、めっきり本を読む時の集中力が減退したな~、と感じる。10年くらい前と比べて如実に本を読むスピードが下がった気がする。

しかしこれはおそらく仕方ないというか、たぶん体力の問題のような気がする。体力の衰えゆえに、本を読み続けると疲れるようになったのではないだろうか。ひょっとすると、運動して体力をつけると本を読む集中力が増すかもしれないと思う。

といって今のところ定期的な運動をして体力作りをする予定はないのだが、今後さらに体力が減退することは必至なので、運動をした方がいいんだろうな~、とは思っている。いつか私は運動をするだろう。そう、いつか……

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本を速く読めないの、困りますよね。写真はこないだ食べた美味しいバインミー

 

常に根本を問い直せ

 

というわけで集中力の減退に対する方策がいきなり保留されたわけで、それでいいのかと思われるかもしれないが、ここで一度立ち止まってよく考えてほしい。

本を読む集中力が減退すると困るだろうか? 本を短時間でたくさん読めたら読める本の冊数も増えるし確かに得した気分になると思うが、果たしてそれはそんなに重要なことだろうか。本なんて、ゆっくり読めばいいのではないか。

それは確かに、かつての自分と比べて本を読む速度が落ちたのは残念だなと思う。しかし、生物としての老化を嘆いてどうなるというのか。永遠の若さを望むというのか。10年も経てば、本を読む集中力なんて減退するに決まっているのだ。

それに予期せぬ事故や病気によって、思うように本が読めなくなったという人もいるだろう。そのような状況でも、人は本が読みたいと望み、ゆっくりでもいいから読もうと思うかもしれない。

我々はそれぞれに違う状態にあるそれぞれの個体なのだ。本なんてそれぞれのスピードで読めばいい。集中力が続かないな〜と思ったら、「この、本を読みながら気が散っている個体こそが他ならぬ私そのものであり、いま私は他者と比較不能な私だけの生を生きているのだ……」と思うことにしよう。

 

もちろん学業や仕事で本を読まなければならない方はそうも言っていられないだろうから、まあ、その場合はやっぱり運動ですかね。あとはスマホの電源を切るとか。幸いにして私はそこまで切迫して本を読む必要がないので、今日もすぐにスマホを見てしまいながら読書をしているのであった。集中力が続かなくても仕方がない。私は生き、老いて、いずれ死ぬ生物なのだから。エンジョイ・ユア・スローリーディング。

 

 

★ここでおまけのライフハックですが、紙の本を読みつつスマホ電子書籍を開きっぱなしにしておくと、本からの逃避で本を読むという効率のよい読書が可能になります。

 

小泉義之によるドゥルーズの哲学』講談社学術文庫)は、我々が生物として生きているだけでいかにすごいかということをこれでもかと語ってくれます。特に食物連鎖自然淘汰などの観念をくだらんと一蹴するあたりは最高です。

 

ドゥルーズの生命哲学については下記記事もどうぞ。

pikabia.hatenablog.com

國分功一郎『近代政治哲学』 民主主義にとって「主権」とは何か?

「主権」の歴史

 

今回は國分功一郎による2015年の新書『近代政治哲学 ──自然・主権・行政』ちくま新書)を紹介する。

「近代政治哲学」と聞いても具体的に何の話なのかわかりづらいのではないかと思うが、この本のテーマを端的に述べると、第一には「主権」とは何かということだ。

日本で言えば、かつては「天皇主権」だったが戦後は「国民主権」になった、という話でおなじみの主権という概念だが、これは一体どういう意味なのか、そしてこの概念の成立にあたって、哲学がどのような役割を果たしてきたか、というのがこの本の内容である。

 

近代以前の世界

 

主権という概念はヨーロッパで生まれたが、本のタイトルが示すように、これは「近代」にまつわる話である。近代以前、ヨーロッパは封建国家によって構成されていた。

封建国家は、近代国家とは全く違う形の国家である。というか、あまり「国」というイメージではない。封建国家にも王がいて、王は権威を持っているものの、人民に対する直接の権力は持たない。

その代わりに人民を直接統治しているのは、各地方の領主たち、諸侯たちである。封建国家は、頂点に王を戴きつつも、それぞれ独自の権力を持った諸侯たちの集合なのである。

さらにこの諸侯たちは一人の王だけに仕えるとは限らず、他の王や貴族にも同時に仕えることができるのだ。個人間の契約なのである。またこのような形で国ができているため、領土や国境の概念もない。

このようにバラバラの権力が林立しているのが近代以前、特に中世の社会であったが、そこで社会全体をまとめる役目を果たしていたのは教会の権威であった。キリスト教が社会全体の規範となり、建前となって秩序を保っていたのである。

 

宗教的秩序の崩壊

 

しかし、その秩序が崩壊する時が来る。宗教改革と、それに続く三十年戦争ユグノー戦争などの宗教内戦である。宗教による秩序が弱まった時、諸侯たちの微妙なパワーバランスの上に成り立っていた封建国家は、終わりのない内戦になだれ込んでいったのだ。

これらの戦争は、その後のヨーロッパ世界を変えるほどに凄惨なものだったという。この宗教内戦の混乱の中から、社会を安定させるための秩序を求める動きが現れる。もはや宗教の権威には頼れないので、絶対的な権力によって統治を行い、社会を安定させる。それが「絶対主義国家」である。

 

「主権」の誕生

 

ここからが哲学の出番だ。いきなり「絶対主義」と言い出しても、一朝一夕にそのような絶対的権力を樹立できるわけではない。そのためには実際に権力基盤を固めるだけではなく、思想的な裏付けも必要だ。

ここで登場するのが16世紀フランスのジャン・ボダンによる『国家六論』である。ボダンは秩序を回復するためには国王の絶対的な権力が必要であるとし、ここで「主権」という概念を生み出したのだ。

この本ではボダンの言う主権を対外的・対内的という二つの軸に分けて説明している。

  • 対外的な主張:国家は他のいかなる権威からも干渉を受けないという、自立性の主張。それは具体的には、主権者の判断によって戦争をする権利である。
  • 対内的な主張:被治者を支配し、拘束する、超越性の主張。その手段は立法である。主権者は「臣民全体にその同意なしに法律を与えること」ができるという。

これが、内戦による混乱から社会を守るために生み出された主権という概念である。また、立法権という概念自体もここで発明されたという。そしてこの主権を行使する範囲を確定する必要から、臣民と領土という近代国家を特徴づける「領域」が確定される。

 

民主主義社会に受け継がれる「主権」

 

さて、絶対主義国家として誕生した近代国家はその多くが民主政に移行していくのだが、この主権という概念そのものは残っていった。絶対君主がいなくなっても、主権は残り続けるのだ。

この本はここから、ホッブズスピノザ、ロック、ルソー、カントなどの思想を読みながら、われわれが住むことになった民主主義の社会において、この主権というものがどのように変化しながら残存していったかを追っていくことになる。

我々は近代政治哲学が構想した政治体制の中に生きている。そして、その中にあまりにも多くの問題点があることを知っている。だが、それにもかかわらず未だ有効な改善策を打ち出せずにいる。

現代の政治体制が抱える諸問題は確かに、メディア環境の変化(情報化に伴う旧来メディアの失墜および世論のさらなる流動化)や経済環境の変化(グローバル化に伴う迅速な政策決定の必要性とそれに反しての国家的規則の弱体化)など、政治を取り巻く諸々の環境の変化と切り離せない。すなわち、現代の政治体制が抱える多くの問題に答えるためには、現代社会の分析は欠かせない。

しかし、現在の政治体制が近代政治哲学によって構想されたものであるのならば、哲学からも事態を打開するためのヒントが得られるはずである。我々のよく知る政治体制に欠点があるとすれば、その欠点はこの体制を支える概念の中にも見いだせるであろう。概念をよく検討すれば、どこがどうおかしいのかを理論的に把握することができる。(「はじめに」より)

 

哲学の本の多くがそうであるように、この本もまた「答え」を指し示すものではない。そうではなく、「問い」の所在を、そして問うための視座を探求するものだ。

 

「行政」の問題

 

ところで、この本の前半のテーマは「主権」だが、時代を下りながら哲学者たちの本を読んでいくに従い、別のテーマが浮上して来る。それが「行政」の問題である。

すなわち、当初は主権というものは立法権に置かれており、立法によって統治を行おうとしていたのだが、実際には行政権が統治において大きな力を持っている、ということが徐々に明らかになってくるのである。

本来は立法府を民主的にコントロールする(選挙で議員を選ぶ)ことによって民主主義を実現しようとしていたのが、実際に統治を行っているのは行政機関であり、そこには民主的コントロールが及ばないことがあるのではないか、という問題が提示されてこの本は終わる。

 

次の一冊

 

國分功一郎の行政権に関わる問題意識は、著者自身が深く関わった、2013年のに東京都小平市で行われた住民投票に関係している。これはかつて立案された、広大な緑地の伐採を伴う道路計画の見直しを求めた投票で、結果としては市が定めた投票率に届かず未開票に終わっている。この投票の手続きに関しては多くの問題点が指摘されていた。この『来るべき民主主義 小平市都道328号線と近代政治哲学の諸問題』幻冬舎新書)はその記録と考察をまとめたもの。

 

 

立法権に対する行政権の優位に関しての本格的な研究が、カ-ル・シュミットに関する著書などのある大竹弘二による『公開性の根源 秘密政治の系譜学』太田出版)である。これは法や主権がまとう「公開性」の原則に対し、その影の部分、公開されることのない「秘密政治」が、統治においてどのような役割を果たして来たのかを精緻に分析した大著だ。理論的な書物であると同時に、興味深いエピソードがふんだんに紹介されており、引き込まれる。なお大竹と國分にはこれらのテーマに関連する対談集『統治新論 民主主義のマネジメント』太田出版)もある。

 

なお中世の封建国家については、当ブログの下記記事でも書いています。

pikabia.hatenablog.com